歴史人物百人一首~阿倍仲麻呂、はるか唐へと渡りベトナムまでいった日本人。最後は望郷の念を抱き.. | 歴探見るラジオ放送局

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唐の時代の中国、宮廷で長年玄宗皇帝に仕えたひとりの日本人がいた。彼の名前は阿倍仲麻呂。
(百人一首では「阿倍仲麿」と表記される)






かれは、第9次遣唐使として唐の都・長安に留学し、唐の官吏として登用されながく皇帝の寵愛をうけた人物でした。また、楽才に秀でた人物として、李白、王維、儲光羲ら数多くの詩人と親交を深める文化人でもあり、また、安南都護府の長官として、日本人ではじめてベトナムまでいった人物でもありました。

 

こんにちは、歴探見るラジオ放送局のそらです。

このたび、百人一首の歌人の生涯をその時代背景とともに紹介するコーナーを新設しました。このチャンネルでは、いままで日本の戦国時代を中としたテーマを取り扱ってきましたが、時折このテーマでお話できればと思っております。どうぞ最後までご覧ください。

 

さて、今回ご紹介する人物は阿倍仲麻呂。百人一首では、次の歌が知られていることかと思います。

『 天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも 』

これは、30年ほど前の若かりし頃に、遠い異国の唐に渡り、ようやく念願かなって日本に帰れるとなったときに、友人たちと過ごした送別の宴で詠んだ歌といわれています。

ここに出てくる三笠の山は、奈良の春日大社の近くにある山のことで、その三笠の山に昇ったのと同じ月を、はるか故郷をはなれた唐の地でみているのだと、天を見上げて感慨にふける様子が詠まれています。

この歌がどのように日本に伝えられたのか、詳しくは分かりませんが、仲麻呂は結局日本には帰り着けず、最後は唐の国で人生を終えます。阿倍仲麻呂はどのような人物であったのでしょうか?そして、彼の生きた時代はどういう時代だったのでしょうか?

 

遣唐使にのって





 阿倍仲麻呂は、文武天皇2年(西暦698年)に阿倍船守の長男として大和国に生まれました。幼くして聡明だった仲麻呂は、霊亀2年(716年)に遣唐使として明州、現在の寧波にわたります。同じ船にのって唐にわたった人物としては吉備真備が知られています。長安、現在の西安に到着した阿倍仲麻呂は、名を朝衡あるいは晁衡(ちょうこう)と名乗り、朝廷の官吏として仕えます。朝廷では、校書(きょうしょ)、左拾遺(さしゅうい)、左補闕(さほけつ)など順調に昇進をかさね、玄宗皇帝からは寵愛され、ながく宮廷て活躍し続けます。

 

(解説)遣唐使について

学校で必ず習うものなので、ご存じの方も多いものと思われるが、中国大陸にあった隋や唐の進んだ文化を取り入れる為に送られた遣いの船で、朝廷の使者や留学生などが海をわたった。隋におくったものを遣隋使といい、唐におくったものを遣唐使という。遣唐使船は長さ25メートル、幅7メートルほどの帆船で、過去40隻ほどの遣唐使船が送られ、そのうち12隻が沈んだか航行不能になるなど、命がけの航海をしたという。これは当時の航海技術の未熟さによるものであった。この遣唐使船で有名な人物としては、最澄、空海、鑑真などがいる。

 

ようやく実現するかにみえた帰国への夢

 

仲麻呂はよほど玄宗皇帝に気に入られていたからでしょうか。なかなか帰国の途につくことは出来ませんでした。天平5年(733年)に日本の難波津を出航した第9回遣唐使が到着した折も、皇帝から帰国の許可がおりず、諦めるしかありませんでした。ちなみに、同じ時期に海をわたった吉備真備は、この時に帰国しています。

 

ますます望郷の念はつもりばかりでしたが、天平勝宝4年(752年)、藤原清河率いる第12次の遣唐使船が来唐したときに、ついに一時的という条件つきで帰国の許可がおります。百人一首に登場する歌は、この時の送別の宴のさいに詠まれたものでした。

ところが、こうして乗り込んだ遣唐使船は、奄美大島付近で暴風雨のため遭難し、安南、今のベトナムのハノイまで流されてしまいます。この時、原住民の襲撃により乗船者の一部が殺されるなど、命からがら長安へと逃げ延びることができました。この年の、日本の天平勝宝7年(755年)は、安禄山の乱が起きた年であり、唐の朝廷から帰国を禁じられたため、ついに仲麻呂の帰国は叶いませんでした。

 

(解説)この時、唐で仲麻呂の友人であった李白が、仲麻呂が死んだと知らされて読んだ漢詩が『晁卿衡を哭す』でした。

日本晁卿辭帝都  日本の晁卿 帝都を辞し

征帆一片繞蓬壺  征帆 一片 蓬壺を繞る

明月不歸沈碧海  明月 帰らず 碧海に沈み

白雲愁色滿蒼梧  白雲 愁色 蒼梧に満つ

 

ふたたび唐の官吏として

 

帰国の夢をあきらめた仲麻呂は、その後再び宮廷の官吏となり、ときには安南都護府としてハノイに6年間赴任するなどして過ごし、宝亀元年(770年)に長安にて72年の生涯を閉じます。

ここまで阿倍仲麻呂の生涯を追っていきました。結局、帰国が叶わず、そこだけは残念な人生だったのかなと思います。皆さんはどう思いますか?ちなみに、彼が生きていた時代に「安禄山の乱」が起きていたのは意外ですね。

 

安禄山の乱は、安史の乱ともいって、平廬、范陽、河東の三地域の節度使だった安禄山という人物が起こした反乱でした。安禄山は、玄宗皇帝や楊貴妃に取り入り出世した男であり、玄宗皇帝の寵姫である楊貴妃のいとこの楊国忠とはライバルの関係にありました。その楊国忠が唐の宰相となって権勢をふるうようになると、身の危険を感じた安禄山は反乱を起こし、洛陽や長安を陥落させ、唐の国を混乱に陥れます。安史の乱は、反乱軍内部の内訌によって弱められ、最後は滅ぼされるのですが、これ以降、唐は衰退への道をころげおちるようになります。

 

この事件がおきたのは、阿倍仲麻呂の乗った遣唐使船が座礁し、長安に帰ってきた天平勝宝7年(755年)頃でしたが、その頃、日本はというと、ちょうど聖武天皇の子の孝謙天皇の時代でした。孝謙天皇は女性の天皇であり、史上6人目の女性の天皇として知られています。その後、重祚して称徳天皇となっています。重祚というのは、退位した天皇がふたたび天皇になることです。女性の天皇はその後、江戸時代に登場する第109代の明正天皇まで850年あまり不在でした。ちなみに、明正天皇の母は徳川秀忠の娘の和子です。さらに、孝謙天皇の母の光明皇后は、藤原氏の出身で、はじめて皇族以外から皇后となった人物でもあります。いうなれば、藤原氏が外戚として権勢をふるう切っ掛けとなった人物ともいえますね。

 

孝謙天皇の時代におきたことでつとに知られていることに「宇佐八幡神託事件」というのがあります。仏教への信仰が厚かった孝謙天皇が、弓削道鏡という怪僧を寵愛し、宇佐八幡大神よりのお告げにより、彼を天皇にしようとした事件です。この事件は和気清麻呂を宇佐八幡に派遣し、神託により道鏡即位は否定され、万世一系の皇統は守られることになります。また、道鏡とのからみで、藤原仲麻呂が恵美押勝の乱を起こすなど、仲麻呂の生きた奈良時代は、まだ殺伐とした時代だったとといえるでしょう。

さて、いかがだったでしょうか?阿倍仲麻呂と彼が生きた時代をご紹介してみました。