小牧・長く手の羽柴秀吉と徳川家康の直接対決!秀吉、戦上手の家康に勝利を譲るも、智謀で天下を握る。 | 歴探見るラジオ放送局

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皆さんは小牧・長久手の戦いというものをご存じでしょうか?ドラマなどでは、羽柴秀吉と徳川家康が対決する場面としてよく登場する合戦ですが、いまいち理解が追い付かない方も多いのではないでしょうか?この合戦は、尾張北部の小牧山などを中心に行われたイメージが強いのですが、実際には美濃、伊勢、紀伊、和泉、摂津など、日本全国を舞台に羽柴と徳川、両陣営に分かれて行われた合戦でした。つまり、関ヶ原の合戦に次ぐ規模で行われた「天下分け目の合戦」といってよいものでした。そして何よりこの合戦の面白さとして、羽柴秀吉と徳川家康との直接対決において、終始、家康優位にすすみながらも、結果的には秀吉が主導権を握り、天下人へと昇り詰めていく過程にあるといえるでしょう。

みなさんこんにちは!歴探見るラジオ放送局のそらです。今回は「小牧・長久手の戦い」についてご紹介します。どうぞ最後までご覧ください。

 

天正10年(1582年)6月、本能寺の変で信長が明智光秀に討ち取られると、羽柴秀吉は山崎の戦いで光秀を打ち破り、天下取りに一歩近づきます。秀吉は、続く清須会議で柴田勝家との対決があきらかとなると、旧織田家の重臣らを味方に引き入れ、賤ヶ岳の戦いで勝家を打ち破り、織田家の天下を奪いとります。そこへ現れたのが、信長亡き後、武田の旧領を傘下におさめ、急速に勢力を拡大した徳川家康でした。家康は、世にいう「天正壬午の乱」により、もとからの領国である三河、遠江、駿河に加えて、甲斐と信濃を領有し、5か国の大大名となっていました。
 

天正壬午の乱は、本能寺の変のあと無主の地となった旧武田の旧領(甲斐、信濃、そして上野の一部)を巡る、周辺大名による「分捕り合戦」であった。この騒乱では、徳川家康、北条氏直、上杉景勝らが旧武田領を巡って争奪戦を繰り広げた。このような事になったのは、織田信長による甲州征伐による武田家の滅亡から本能寺の変までの間が、わずか三か月程と短く、織田家の支配体制が脆弱だったためだ。くわしく話すと、甲斐一国と信濃諏訪郡を任されていた河尻秀隆は、武田遺臣による一揆が起きた際に殺害され、上野と信濃2郡を任されていた滝川一益は、攻め込んできた北条氏直に敗れて旧武田領を追い出されていた。他の織田家の諸将も美濃に逃げ帰るなど混乱の極みにあり、こうした中で、徳川家康は律儀にも織田信雄に許可をとったうえで旧武田領へ侵攻し、あるいは調略によって武田遺臣をなびかせ、領国を拡大していった。上杉は北条なども同じように甲斐、信濃を切り取っていったが、その中で、徳川家康はもっとも成功したものといえるかも知れない。

 

さて、次第に影響力を強めていく秀吉に対して危機感を抱く人物がいました。織田信雄です。彼は織田家の次男に生まれ、本能寺の変があった当時は、伊勢の北畠家の家督を継いで北畠信意と名乗っていましたが、本能寺の変のあと、織田姓に復し、この当時は織田信雄として、尾張、伊勢、伊賀あわせて100万石を有する大名となっていました。織田家の家督は清須会議の結果、死んだ嫡男信孝の遺児である三法師に決まってしまいますが、台頭する秀吉と組んで賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を滅ぼし、ライバルであった織田家三男の信孝を自害へと追い込みます。賤ヶ岳の戦いの後、信雄は織田家の当主となり、秀吉は、形の上で信雄を主君と仰ぐものの、次第に天下人として信雄をないがしろにするようになります。

 

そのような状況のなか、事件は起こります。天正12年(1584年)3月6日、織田信雄が、秀吉に通じているとして、自信の配下にある三人の家老を殺害してしまったのです(長島城)。この事件により、両者の決裂は決定的となります。信雄は秀吉に対抗するため、父信長と長年同盟関係にあり、当時台頭著しかった徳川家康に接近し、同盟を結びます。

  

徳川家康は、桶狭間合戦のあとから、織田信長と長く同盟関係を結ぶようになり、織田家の発展に尽くしてきた。はじめ対等な関係であった両者も、織田家の勢力が飛びぬけて大きくなると、次第に信長を主筋とする関係へと変わっていった。そうした経緯があったために、織田信雄が自分を頼って同盟を求めてきたことで、家康は、織田家の天下を簒奪しようとする秀吉から、織田家を救うという大義名分をもつことができた。

 

さて、羽柴秀吉と織田信雄の関係が決裂し、信雄が家康を頼って同盟を結ぶと、この対立に連動するようにして、日本全体がふたつの陣営に分かれるようになります。信雄、家康陣営は、紀州の雑賀衆や根来衆、四国の長宗我部元親、北陸の佐々成政、関東の北条氏政らを味方に引き入れて反秀吉包囲網を形成します。さて、こうしてはじまった「小牧・長久手の戦い」、ここからが本番です。

 

まず最初に動いたのは織田信雄でした。天正12年(1584)年3月9日、信雄方の神戸正武、佐久間正勝らが秀吉方の亀山城を攻撃します。亀山城はこの攻撃によく耐え、羽柴軍の援軍を待ちます。その後、羽柴方の蒲生氏郷や堀秀政、滝川一益ら約1万の軍勢が到着すると、形勢は逆転し、今度は、佐久間ら信勝がたの峯城が攻撃を受けます。やがて峯城は落城し、羽柴方のものとなります。その後、羽柴方の軍勢は神戸城を落城させ、その勢いのままに松ヶ島城も攻撃します。この勢いをみた安濃津城は秀吉方に寝返り、羽柴方優位の状況が続きます。

 

 

当初、羽柴方と徳川方の合戦は伊勢を中心に行われるものと思われていた。峯城が落城したことで、羽柴方は伊勢国内への侵入に成功し、松ヶ島城にまで攻略の手を伸ばすものの、そうこうしている間に、池田恒興により犬山城が落城し、主戦場は伊勢から尾張へと移り変わることとなる。

 

天正12年(1584年)3月13日、秀吉は調略によって池田恒興を寝返らせると、犬山城を攻略します。同じ日、清州城に到着した家康は、織田信雄と合流し、小牧山城へと駆けつけます。

3月15日、森長可もまた秀吉の味方となり、兼山城を出て羽黒に着陣します。ここで池田恒興と合流するつもりでしたが、この動きを察知した家康は、酒井忠次ら5,000の兵を差し向け、これを打ち破りました。(羽黒の戦い)

3月18日、家康は小牧山城を攻略し、砦や土塁などで守りを強化し秀吉軍に備えます。一方、秀吉は3月21日に30,000の兵を率いて大坂城を出発、3月25日には岐阜、3月27日には犬山、3月28日に楽田へと至り、ここを本陣とします。

家康の小牧山攻略から、秀吉の楽田への着陣までの間、両陣営による砦の構築がはじまります。まず徳川方が、宇田津砦、蟹清水砦、田楽砦、北外山城を築く一方、秀吉方も、二重堀砦、岩崎山砦、久保山砦、上末城などを築城します。お互いが防備を強化したため、戦況の流動性が失われ、両軍ともに膠着状態に陥ってしまいます。

 

この膠着状態が続く中、池田恒興は秀吉のもとに奇策を申し出ます。それは、家康が小牧山城に籠る間、別動隊でもって三河の奥深くへと侵攻し、後方から徳川方をかく乱し、家康を小牧山城からおびき出すというものでした。秀吉はこの献策を受け入れます。こうして、四つの部隊からなる別動隊が組織され、4月6日夜半に出陣します。この時の陣容は、第一隊は池田恒興の5,000、第二隊は森長可の3,000、第三隊は堀秀政の3,000、第四隊は羽柴秀次の9,000ほどでした。

一方の家康は、近隣の農民や伊賀衆からの情報により羽柴軍のこの動きを察知します。そして4月8日の夕刻に小幡城にはいり、軍勢を二手に分けると、本体は色金山へ向かい、別動隊は羽柴秀次を攻撃すべく白山林へと向かいます。

 

 

4月9日未明、池田恒興と森長可が丹羽氏重の守る岩崎城を攻撃して、これを占拠します(岩崎城の戦い)。一方、羽柴秀次勢は白山林にて休息中でしたが、明け方の4時30頃に徳川の別動隊に襲撃されます。思わぬ敵の出現に混乱した秀次勢は壊滅します。秀次は自身の馬を失い、供回りの馬を借りて逃げたほどでした。この奇襲により、秀次は多くの将兵を失います。

その二時間後、秀次より先を進んでいた堀秀政は、秀次勢壊滅の報を受けると、直ちに引き返して桧ケ根に陣を敷き、徳川勢を迎え討ちます(桧ケ根の戦い)。秀政は前方に流れる香流川を自然の防壁に見立て、その背後の丘陵地帯に陣取り、勢いにのって攻め込んでくる榊原康政ら徳川勢を鉄砲により迎え討ちました。地の利を生かした戦法は徳川勢を苦しめ、撤退へと追いやります。その後、色金山の方角に家康の馬印を見た秀政は、追撃は危険と判断し退却を開始します。これは羽柴方の唯一の勝利となりました。

 

4月9日4時30分、色金山に着陣した徳川家康と織田信雄が指揮する本隊は、ここで白山林での勝利と桧ケ根での敗北の報告を受けます。その後、岩崎城にいる池田恒興、森長可と堀秀政の間を分断するように岩作、富士ヶ根、前山、仏ヶ根へと移動し布陣します。一方、岩崎城を落としたばかりの池田恒興、森長可隊は徳川勢出現の報を受けると、ただちに撤退をはじめ、徳川を迎え撃つべく長久手に布陣します。

 

岩崎城を守る丹羽氏重は最後まで奮戦し、城兵ともども討死して果てたが、この奮戦により足止めをくらったことで、織田・徳川方の追撃を許し、池田恒興と森長可の「三河中入り」は頓挫することとなった。

 

4月9日10時頃、ここに両軍は激突します。(長久手の戦い)戦闘は二時間あまり続き、一進一退の攻防が続きましたが、前線で戦っていた森長可が狙撃されて討ち取られると左翼が崩れ、その混乱のさなか池田恒興までもが討ち取られてしまい、羽柴方は総崩れとなり壊滅しました。この長久手の戦いにおける羽柴軍の死者数は2500人あまりに及んだといいます。こうして、羽柴秀吉と徳川家康の直接対決は徳川方の勝利となったのでした。

 

この結果を受けて、秀吉は攻撃の矛先を織田信雄に絞ります。尾張の加賀野井城、奥城、竹ヶ鼻城などを次々と攻略し、信雄のいる長島城と家康のいる清州城を分断する位置にあった蟹江城も、羽柴方の滝川一益らによって攻撃を受け、一時的に落城してしまいます。蟹江城は結局のところ、援軍に駆けつけた徳川・織田連合によって奪還されるものの、その頃にはすでに南伊勢の松ヶ島城も、羽柴秀長の軍勢によって奪われており、満身創痍の信雄に、もはや戦う気力は残っていませんでした。

 

小牧・長久手の戦いは、関ヶ原の合戦に次ぐほどの規模をもつ天下分け目の戦いだった。この合戦に連動するようにして、日本全国で羽柴、徳川陣営に分かれて、さまざまな合戦が行われている。例えば、徳川・織田方の根来衆、雑賀衆が羽柴方の岸和田城に攻め寄せたことで起きた「岸和田城合戦」(徳川・織田方の勝利)、徳川と同盟を結んでいる北条氏直と、羽柴方の佐竹義重、宇都宮国綱らの間で起きた「沼尻の合戦」、徳川方の長宗我部元親が羽柴方の十河存保と戦った「第二次十河城の戦い」などである。

 

羽柴秀吉は頃合いを見計らい、織田信雄に講和を持ち掛けます。信雄は家康に相談することもなく、秀吉からの申し出を承諾します。両者が伊勢矢田河原で会見した折には、信雄の前で秀吉は、織田家の当主として恭しく出迎え、臣下の礼をもって対面したといいます。また、この講和により梯子と外された形となった徳川家康は、合戦の大義名分を失い、軍を引き上げます。こうして「小牧・長久手の戦い」は終わりました。

 

信雄が単独講和に応じた理由は様々にいわれている。ただ、信雄にしてみれば、長引く合戦で疲弊し、尾張、伊勢、伊賀あわせて100万石もあった領国は半分ほどに減らされ、もはや戦う気力はなかったのではないかと思える。ただ、この判断が正しかったかどうかは歴史が証明している。信雄はその後、織田家の正当な後継者として処遇され、その後、秀吉との間で主従逆転の憂き目にあうものの、豊臣政権内部において順調に昇進を重ね、もっとも良い時期には政権内部で序列二位の内大臣にまでなっている。ところが、小田原征伐で功績をあげたことによる論功行賞で、秀吉から、徳川の旧領の5ヵ国、119万石への転封を命じられた際にこれを断り、かえって秀吉を激怒させ、捨扶持2万石のみをもって追放されてしまった。おそらくであるが、ほぼ天下が定まり、豊臣政権が盤石になったことで、権威としての信雄が不要になったのではないかと思われる。信雄には先の先を見通す力が欠けていたのかも知れない。

 

合戦ののち、秀吉は徳川家康に対して執拗に大阪への上洛と臣従を迫りますが、家康はなかなか応じようとしませんでした。そこで、秀吉は妹の朝日姫を離縁させて家康のもとに嫁がせたり、母の大政所を人質に送り出すなどして家康を説得します。そしてついに家康は大阪に上洛を果たし、秀吉に臣従するに至りました。

 

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