youthful days -5ページ目

アブノーマル・セクシャリティ



パラノーマル・アクティビティを見ました。


重低音を使った聴覚的、心理的な驚かしですね。

最初と最後の文で

現実味を出してるのも

より怖がらせる為ですね。

実体を敢えて写さないのも新鮮と言えば新鮮。

斬新ですね。

娯楽としての映画では

いいですね。

中身はないですがね。

とか言いながら楽しんでたんですけども。

何かめちゃくちゃ怖い映画ないですかね。

そもそも僕は何が怖いんでしょうか。

死も別に

痛みの伴わない死ならいつ来てくれても

構わないですね。

しかしそれは誰でもかな。


強いて言うなら

五感のどれかを失うのが最も怖いかなと思います。

―自由とは―



なんなんでしょうね

自由って。

いいよね 自由って。

人は何かに縛られているからこそ

「自由」という言葉を作ったんでしょうね

そして自由が好きなんでしょう。

「自由とは何か」

それには答はなくていい。

自由を定義しようものなら

言葉自体が矛盾するしね。

自由は定義したら自由じゃなくなるんだろうね。

自由なのに自由じゃないと感じるのは

人間が感情を持ってるからでしょう。

とは言え感情がなければ
自由を体感することも出来ないわけであるが、

感情や精神は己を束縛をするからね。

それを理性と言うのかな。

自由を得る為には

代償を伴う。

その代償の価値に

見合った自由を掴むか否か

それすらも自由であるが

人生と引き換えに自由を手に入れた人々

彼らをホームレスと我々は呼びます。

はい、絶対違いますね。

いつも思いを綴る度に

終わり方を見失う僕です。

ん~ どうやって締めるのかな。

Desperado

「楽しく生きてれば地球の重力なんてなくしてしまえるんだ」
―重力ピエロ(伊坂幸太郎)―


最近体が重いのは

楽しく生きれてないからでしょうか。


最近特に人付き合いが嫌い。

もう誰が他人か友達か親友か

曖昧。

前は基準はなくとも

ちゃんと境界線が引かれ

ヒエラルキーがあったのに

今じゃ一つの球体。

カテゴリーは「人間」だけ。


もう昔のように

楽しいかどうかだけで

付き合いを選べないのか。

それはそれでいいように思えるけど

実際はもっと酷い。

他人に対して何も思わななくなった。

人間という生物自体には興味があるけど

名前により識別された個々の存在には興味がない。


願わくば利用出来ぬものかと

そんな風に人を見ている。

他人もきっとそう見ているに違いないと思いたい。



考えれば考える程に

身の回りの

人間関係は薄く浅く感じる。

元より薄いのか

考えることにより薄くなるのか。


浅く広い交友関係という表現はよく聞くが

僕の場合は浅く狭くだろうね。


他人のすべての言葉が社交辞令に聞こえ

他人のすべての行動が利己に見える。

街を行き交う人々は

張りぼてか描かれた背景にしか見えず

友達や親友であっても

設定の決まっている

ゲームのキャラクターのように感じる。

かと言って自分はそのゲームの主人公ではなく

ただの視点でしかないような気がする。



サークル仲間と騒いでいても虚しく、

孤独感は一人で居るときよりも大きい。


壁一面に貼った今までの写真は

僕を追い詰める。

写真の色んな人の笑顔も

作り物なのかと思うと

苦笑いが出る。


中高からの

親友たちと会っても

最近じゃ壁を感じる。

きっと僕が作ったんだろう。




人の事を考えようとすればする程に

人が信じられなくなる。



こんなはずじゃなかった。

僕は一体どこに向かってるんだろうか。


tumbling down
tumbling down
tumbling down