ブルックナー:

交響曲第3番ニ短調《ワーグナー》(ノヴァーク版)

 

カール・ベーム 指揮

ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

(1971,LONDON)

 

 

松平健を見ると岸田総理を思い出してしまうのと同じで、カール・ベームを見ると福田元総理を思い出してしまう。父ではなく息子・康夫の方である。(僕だけだろうか)

 

同じような喩えに、みのもんたを見ると小澤征爾を…というのもあるのだが。

 

そんなことはどうでもよくて、今日はブルックナーをレコードで聴いた。3番は《ワーグナー》というタイトルが付いている。ワーグナーに捧げられ、ワーグナーに愛され、ワーグナー的な管弦楽法が用いられているからだという。

 

ワーグナーの曲は、《ニュルンベルクのマイスタージンガー》第1幕への前奏曲ぐらいしか聞かないから、ブルックナーのオーケストレーションはワーグナー的と云われても、僕にはあまりピンと来ない。

 

ブルックナーは、「没頭」して聴かないといけない、と僕は思い込んでいる。メロディーやリズムを楽しんではいけない。没頭して音色だけを聴くのである。今日のレコードは天下のウィーン・フィルだから、その美しい響きの中に頭を突っ込むことができる。

 

ブルックナーの音楽のイメージは、僕にとって源氏物語である。中古の雅な文章を味わうのである。けっしてストーリーを追いかけるのではない。

 

3年前にも同じような感想を書いた。(下記)

 

 

第3楽章のスケルツォは、執拗だ。相変わらず。

 

今日思ったのが、ブルックナーは楽器をどう重ねるかに最も重きを置いて作曲したんじゃないかなーということ。素人なんでよく分からないが。

 

色の違う糸同士をどのように編んで「交響」させていこうか、と考えたんじゃなくて、何の上に何を重ねて重層化しようか、というように音色の厚塗りを模索したんじゃなかろうか、なんて。(知らんけど)

 

特に金管楽器の重ね方が、明らかに独特。そして、ティンパニは、時に激しい。どちらも、そこだけ聴けば嫌いじゃない。

 

ただ、全体となると…。

 

まだまだ僕には受け入れがたい音楽の一つだ。