ブルックナー:

交響曲第4番変ホ長調《ロマンティック》

(1880年版+ハース版)

 

ヘルベルト・フォン・カラヤン 指揮

ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

(1970,EMI)

 

 

若いころなら、「ブルックナーは音楽の勉強のために聞いています」と答えることができたが、今となっては、「教養のために聞いています」と返答するばかりとなった。少なくとも好き好んで聴くような作曲家では、僕の場合は、ない。

 

でも、“カラヤン101枚ボックス・セット”に入っていた当盤は、そんな僕をして、最後まで聞かせてしまう魅力的なディスクである。ティンパニはテーリヒェンというのが定説。凄まじい迫力だが、全体としてはゆったりとしたテンポでじっくり聞きこめる音楽に仕上がっている。さすがはカラヤンである。

 

唐突だが、私は『源氏物語』(紫式部)が苦手である。職業柄、こんなことは正直に言えないし、同僚にはこれからも隠し続けるであろう。ぶっちゃけると、『源氏物語』の「何が」面白いのか、作品の「何が」魅力なのか、「何が」醍醐味なのか、僕には全く分からない。考え続けると憂鬱で落ち込んでしまうほど、私は『源氏』が苦手なんである。コンプレックスというヤツなのかもしれない。

 

指揮者でもブルックナーが嫌いな音楽家がいる。例えば、ウラディミール・アシュケナージ。この一点だけでも、僕はアシュケナージに強い共感および親近感を覚える。だから、『源氏物語』が嫌いな文学士がいてもいいんじゃね?

 

…などと今日は開き直ってみた。

 

しかし、『源氏』の「訳本」となると、意外と「読める」ものがあるので、一応挙げておきたい。それは、アーサー・ウェイリーの英訳本(の日本語訳)である。『源氏』を日本人が訳すと、与謝野晶子にせよ、谷崎潤一郎にせよ、瀬戸内寂聴にせよ、どこか思い切った訳出を避けているような雰囲気が出てしまい、スムーズに文章が進行していかない印象に終始する(ように思う)。それは、訳者が原文のテイストをある程度理解できているから、無理な訳出を自らが許さないためであろう。もちろん、やたらなことを書いて、学者に突っ込まれることも想定しながら書き進めなくてはならないから、いっそう大変なのは想像できる。

 

その点、英国人のウェイリーは、自由に翻訳しているから、(その日本語訳を読んでも)逆に違和感のない『源氏』が味わえるのである。ほんと、オススメである。

 

まるで、ブルックナーにおけるカラヤンの演奏CDみたいではないか。カラヤンはブルックナーの音楽を、ある意味、自由に「翻訳」しているのかもしれない。

 

さて、文学部の学生の時だったら、「源氏は古典文学の勉強のために読んでいます」と言えた。しかし、今となっては「教養のために読んでます」としか言えなくなった。だって、好き好んで読みたい本なんかじゃ、僕の場合、ないから。

 

でも、ウェイリーの翻訳本は、我が本棚でいつでも取り出せるようになっている。