今日の一曲!平沢進「時間の西方 The Westward of Time」
今回の「今日の一曲!」は、平沢進の「時間の西方 The Westward of Time」(2006)です。10thアルバム『白虎野』収録曲。
まさかのフジロック出演が記憶に新しいですが、以降は当ブログでもヒラサワ記事へのアクセスが多くなっており、特にセットリストに含まれていた「アディオス Adios」のレビューは、当ブログ比でここ最近の人気エントリーとなっています。更なるアクセス増を狙うならば、ここでセトリの中から新たに一曲を取り立てるのが筋ではあるけれども、披露されていた表題の「白虎野」は敢えてスルーして、同盤の幕開けを飾る「時間の西方」にフォーカスする次第です。
主に歌詞解釈に文章を割くことになりますが、楽曲のテーマやモチーフを明確に突き止める意図は、僕には端からありません。かと言って、外部要素を引っ張り出して筋の通った考察(たとえ見当違いだとしても)を披露出来るだけの用意もないので、言葉をそのまま受け取って読み解く、逐語訳的なスタイルで書き進めていくつもりです。
従って、「時間の西方」ゆえに「過去」だとか、そこから核P-MODELの「Timelineの東 East of Timeline」(2013)と対になっていそうだとか、「白虎(四神相応)」もしくは「白(五行説)」から「西方」であるとか、そこから他の収録曲に結び付けてみたりだとかは、Tipsとして提示するに留めておきます。そもそもこれらは製作側が意図した点であるとの考えですし、仮にそうでなくとも誰でも思い付きそうなことなので、前提もしくは背景として扱いますとご理解いただければ幸いです。
大層な前置きをしておいて何ですが、まずは非常に感覚的な面から掘り下げます。冒頭の一節、"万象を乗せマッハの船がつんざく心像の下方/代々と連なり咲く訓戒の花園を見た"は、数多あるヒラサワ楽曲の中でも、最高に格好良い歌い出しではないでしょうか。アルバムのプロローグということもあって、重厚なアレンジが特徴的なイントロは、クワイアを軸にストリングスが脇を固め、鼓笛隊然としたドラムスとファイフが更なる行軍の感を演出する、実に熱量の高い仕上がりです。この熱をロスなく伝導させる言葉繰りとして、これほど相応しいものはないといった賛辞になります。
ちなみに、この立脚地に於ける個人的な次点は、「華の影 The Shadow of Bloom」(2012)の入りの歌詞、"路地の亀裂に隠れ/微粉塵舞う文明の角/知らぬ間に咲いていた/奇問に住む天分の花"です。強いて共通項を見出すならば、人工と自然の対立("船" vs "花園"|"文明" vs "花")と、あまり日常的ではない語彙使用("万象"、"心像"、"訓戒"|"奇問"、"天分")でしょうか。後者は語句自体が非日常的と言いたいわけではなく、文脈や語用の立場を考慮すると独特だという意味です。「森羅万象」「(心像ではなく)心象」「訓戒処分」「難問奇問」「天分を全うする」などの使い方であれば、一般的の範疇に入るとの認識なので。ともかく、この二点がツボだという小ネタでした。
話を戻しましょう。"心像"とあるため、現実的もしくは物質的なものに直結させるのは安易かもしれませんが、"万象を乗せ"た"マッハの船"というと、どうしても「惑星」を連想してしまいます。自転速度が音速に達しているものを可とすれば、当然「地球」も含まれるでしょう。また、後に出てくる"「夜明けを手中に」と行くマッハの船の轟音"を加味すると、少なくとも光源は存在していると言えそうで、これを素直に「太陽」によるものと解すれば、歌詞内容が少しは身近になるのではとサジェストしてみます。もっとダイレクトに、"夜は間近と浜辺の砂が 遠く沈む陽の影の牢を出る"との表現もありますしね。
ただし、これらごく当たり前の天体現象が、果たして正しく機能しているのかは疑問です。先の"「夜明けを手中に」"は、以降でふれる前後の文脈的に、新時代への期待を込めた比喩と見做すのが筋だとは思います。しかし、敢えてそのまま物質的に考えてみると、能動的に動かなければ夜明けが来ないというのは、文字通り不自然ですよね。普通は待てば、夜は明けるわけですから。"虹の朝など絵空の塵と"も、狂った状態が長く続いているからこその諦めに映ります。"千の国さえ砕ける波と にわかいきり立て夢の津波牙をむいて"も、"波"を潮の満ち引きに絡めれば「月」に、"津波"を地震由来のものとすれば「地球」に、それぞれ異常を来していることを示す一節だと主張したいです。
続いて、「なぜこうなってしまったのか?」を考えてみます。先程は小ネタの中で「人工と自然の対立」というワードを出しましたが、原因には大別して人為的なものと自然的なものがあるとすれば、本曲で歌われている異常は前者に端を発するのではないでしょうか。なぜなら、"緩衝の壁突破の轟音つんざく良心の嗚咽"は、詳しい状況は不明ながら「やってしまった感」に満ちたフレーズだからです。超えてはいけないラインを超えた、「犯人」が居るとの仄めかし。2番の同位置の歌詞が、"満場の人 喝采の声 つんざく声に撃たれて"であることから、犯人が実行した「何か」は短期的には益があると判断されたのだろうと推測します。歌詞中の言葉から引用すれば、まさに"良かれと奮える怒号"に至るほどのものだったのではと。
しかし、続く"連綿と途絶えずに降る悔恨の雨音を消して"、および"淡々と散るゆりのように朽ちるキミを誰も見ず"からは、「何か」の実行の裏には重大な瑕疵があったことが窺えます。"千の国"は興っていたわけですから、ある程度の長い間その不都合な真実は覆い隠されていたのでしょうが、超長期的な影響を考慮していなかった結果が、"千の国さえ砕ける波"に繋がったのではないだろうか。
最後に、本曲の言わば「主人公」は何者なのかを思索してみましょう。主語の省略が多いため、都合の好いものだけを恣意的に抜き出した感は否めないものの、想定上の主人公が動作主として振る舞うであろう歌詞中のフレーズは、"訓戒の花園を見た"、"老いた「日」に身を投げた"、"過ぎる時の西へ西へ"の三つだと言え、加えて"夢"に関する描写と、"追われる冤罪者のよう"との比喩も、主人公について描かれたものだと見ています。一応の補足をしますと、"西へ"の後には述語として「進む」が来るとの当然の理解で、"夢の津波"または"夢の塔の門よ開け"は、主人公が「夢でその光景を見ている張本人」だという意味です。
この点を掘り下げるには、"キミ"が何者なのかもキーとなってきます。"「戻れぬ」と騒がしく 行くだけのキミ"、"「見えぬゆえ」と無言のまま 行くだけのキミ"、"淡々と散るゆりのように朽ちるキミ"、全て同一の存在と仮定すると、これらは表題の「時間」に人格を与えたものと考えるのが、据りが好いのではないでしょうか。時間が不可逆且つ不可視であるのは本人が語る通りですが、物質の変化を見ることで間接的には意識が可能で、好例は花の一生の観察です。"朽ちるキミを誰も見ず"というのは、即ち「何人も時間に意識を払わなくなっている」ことの表れで、それが前述した超長期的ビジョンの欠如を招いたと踏んでいます。
"キミ"を「時間の擬人化」として「主人公」との接点を読んでいくと、"別れの時と 老いた「日」に身を投げた"で語られる決別のシーンが印象的です。"老いた日"はサビのフックにもなっており、"老いた日で明日が呼ぶ 過ぎる時の西へ西へ"、或いは"老いた日へ明日を見に 過ぎる時の西へ西へ"と、矛盾するような言辞の中に登場します。とはいえ、この矛盾は時間曰くの"「戻れぬ」"を覆せれば、「老いた日(過去)から見た明日(未来)」として、許容出来るものになるでしょう。要するに、主人公が「時間遡行者」であればいいのです。
思い返せば、主人公に纏わるフレーズは何れも示唆的でした。"訓戒の花園を見た"は、そもそも"訓戒"になっている時点で反面教師や悪しき前例へのカウンターを背にしていますし、"淡々と散るゆりのように朽ちるキミを誰も見ず"は、まさに戒めの対象となる愚行を指していると言えるでしょう。未来の"花園"の惨状を知っているからこそ、過去のそれは"訓戒"に映るとのロジックです。"代々と連なり咲"いてきたものが、潰えてしまったわけですからね。
"夢"に関する形容も同様で、"夢の津波"から来る惨劇のビジョンは、その実「未来で経験したこと」だと思っています。普通はそれを「記憶」として留めているはずですが、"記憶は許されず 追われる冤罪者のように"に、"知らぬ間に隠された 夢の闇の奥"とあるので、何時からか現実感が失せてしまったのでしょう。SF的な読み解き方をしているので、ここで安直に「記憶封印装置のせいだ!」と唱えたくなりますが、その方面の解釈は個人的にはナシで、単に「忘れてしまっていただけ」ではないかと認識しています。そのほうが「時間」との関わりが密接になりますし、「忘却」の恐ろしさが際立つからです。
非難の意図はないと明言しておきますが、歌詞に"千"と"津波"が出てくることもあって、東日本大震災と絡めた解釈が浮かんだことも白状します。当該の震災が貞観地震の再来である;即ち千年に一度くらいの頻度で来襲する厄災だとの説を採った上で、大津浪記念碑が語りし先人から警告が、千年は疎か百年もしないうちに風化していた事実を鑑みると、「人は時間によって忘れる生き物である」ことを再認識させられますね。本曲の発表が2006年、東日本大震災の発生は知っての通り2011年であるため、それこそ平沢進が時間遡行者でもない限りは後付け以外の何物でもありませんが、対かもと前出した2013年発表の「Timelineの東」を復興ソングとする見方は正直好きなので、これでフォローすれば震災解釈も開陳していいだろうと載せてみました。
閑話休題。主人公を時間遡行者とした上で、その目的が何かと問われれば、王道なのは「惨劇の回避」ですよね。ただ、その顛末は本曲には描かれておらず、以降の収録曲に委ねられているのだと思います。そこまで語り出すとアルバムレビューをしなくてはならないため、前置きに書いたようにTipsとして提示するだけにしておきますね。…最初にこう宣言しておきながら、結局「Timeline~」にふれてしまうのが僕という人間なので、止め時を明確に文章化しておかないといけないのです。笑
結びにサウンド面からもアプローチをかけてみますと、サビの時間遡行中と思しきシークエンスでは、逸るドラムスがとりわけ耳に残ります。コーラスワークの重苦しさも、オーケストレーションのボルテージの上昇も、根底にあるビートの細かさに煽られて、相互作用的に焦燥感を増幅させている点が技巧的です。ディレイが施され、息急くような質感が付与されたメインボーカルも、主人公が帯びている使命の深刻さの発露に聴こえてお気に入りです。
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まさかのフジロック出演が記憶に新しいですが、以降は当ブログでもヒラサワ記事へのアクセスが多くなっており、特にセットリストに含まれていた「アディオス Adios」のレビューは、当ブログ比でここ最近の人気エントリーとなっています。更なるアクセス増を狙うならば、ここでセトリの中から新たに一曲を取り立てるのが筋ではあるけれども、披露されていた表題の「白虎野」は敢えてスルーして、同盤の幕開けを飾る「時間の西方」にフォーカスする次第です。
主に歌詞解釈に文章を割くことになりますが、楽曲のテーマやモチーフを明確に突き止める意図は、僕には端からありません。かと言って、外部要素を引っ張り出して筋の通った考察(たとえ見当違いだとしても)を披露出来るだけの用意もないので、言葉をそのまま受け取って読み解く、逐語訳的なスタイルで書き進めていくつもりです。
従って、「時間の西方」ゆえに「過去」だとか、そこから核P-MODELの「Timelineの東 East of Timeline」(2013)と対になっていそうだとか、「白虎(四神相応)」もしくは「白(五行説)」から「西方」であるとか、そこから他の収録曲に結び付けてみたりだとかは、Tipsとして提示するに留めておきます。そもそもこれらは製作側が意図した点であるとの考えですし、仮にそうでなくとも誰でも思い付きそうなことなので、前提もしくは背景として扱いますとご理解いただければ幸いです。
大層な前置きをしておいて何ですが、まずは非常に感覚的な面から掘り下げます。冒頭の一節、"万象を乗せマッハの船がつんざく心像の下方/代々と連なり咲く訓戒の花園を見た"は、数多あるヒラサワ楽曲の中でも、最高に格好良い歌い出しではないでしょうか。アルバムのプロローグということもあって、重厚なアレンジが特徴的なイントロは、クワイアを軸にストリングスが脇を固め、鼓笛隊然としたドラムスとファイフが更なる行軍の感を演出する、実に熱量の高い仕上がりです。この熱をロスなく伝導させる言葉繰りとして、これほど相応しいものはないといった賛辞になります。
ちなみに、この立脚地に於ける個人的な次点は、「華の影 The Shadow of Bloom」(2012)の入りの歌詞、"路地の亀裂に隠れ/微粉塵舞う文明の角/知らぬ間に咲いていた/奇問に住む天分の花"です。強いて共通項を見出すならば、人工と自然の対立("船" vs "花園"|"文明" vs "花")と、あまり日常的ではない語彙使用("万象"、"心像"、"訓戒"|"奇問"、"天分")でしょうか。後者は語句自体が非日常的と言いたいわけではなく、文脈や語用の立場を考慮すると独特だという意味です。「森羅万象」「(心像ではなく)心象」「訓戒処分」「難問奇問」「天分を全うする」などの使い方であれば、一般的の範疇に入るとの認識なので。ともかく、この二点がツボだという小ネタでした。
話を戻しましょう。"心像"とあるため、現実的もしくは物質的なものに直結させるのは安易かもしれませんが、"万象を乗せ"た"マッハの船"というと、どうしても「惑星」を連想してしまいます。自転速度が音速に達しているものを可とすれば、当然「地球」も含まれるでしょう。また、後に出てくる"「夜明けを手中に」と行くマッハの船の轟音"を加味すると、少なくとも光源は存在していると言えそうで、これを素直に「太陽」によるものと解すれば、歌詞内容が少しは身近になるのではとサジェストしてみます。もっとダイレクトに、"夜は間近と浜辺の砂が 遠く沈む陽の影の牢を出る"との表現もありますしね。
ただし、これらごく当たり前の天体現象が、果たして正しく機能しているのかは疑問です。先の"「夜明けを手中に」"は、以降でふれる前後の文脈的に、新時代への期待を込めた比喩と見做すのが筋だとは思います。しかし、敢えてそのまま物質的に考えてみると、能動的に動かなければ夜明けが来ないというのは、文字通り不自然ですよね。普通は待てば、夜は明けるわけですから。"虹の朝など絵空の塵と"も、狂った状態が長く続いているからこその諦めに映ります。"千の国さえ砕ける波と にわかいきり立て夢の津波牙をむいて"も、"波"を潮の満ち引きに絡めれば「月」に、"津波"を地震由来のものとすれば「地球」に、それぞれ異常を来していることを示す一節だと主張したいです。
続いて、「なぜこうなってしまったのか?」を考えてみます。先程は小ネタの中で「人工と自然の対立」というワードを出しましたが、原因には大別して人為的なものと自然的なものがあるとすれば、本曲で歌われている異常は前者に端を発するのではないでしょうか。なぜなら、"緩衝の壁突破の轟音つんざく良心の嗚咽"は、詳しい状況は不明ながら「やってしまった感」に満ちたフレーズだからです。超えてはいけないラインを超えた、「犯人」が居るとの仄めかし。2番の同位置の歌詞が、"満場の人 喝采の声 つんざく声に撃たれて"であることから、犯人が実行した「何か」は短期的には益があると判断されたのだろうと推測します。歌詞中の言葉から引用すれば、まさに"良かれと奮える怒号"に至るほどのものだったのではと。
しかし、続く"連綿と途絶えずに降る悔恨の雨音を消して"、および"淡々と散るゆりのように朽ちるキミを誰も見ず"からは、「何か」の実行の裏には重大な瑕疵があったことが窺えます。"千の国"は興っていたわけですから、ある程度の長い間その不都合な真実は覆い隠されていたのでしょうが、超長期的な影響を考慮していなかった結果が、"千の国さえ砕ける波"に繋がったのではないだろうか。
最後に、本曲の言わば「主人公」は何者なのかを思索してみましょう。主語の省略が多いため、都合の好いものだけを恣意的に抜き出した感は否めないものの、想定上の主人公が動作主として振る舞うであろう歌詞中のフレーズは、"訓戒の花園を見た"、"老いた「日」に身を投げた"、"過ぎる時の西へ西へ"の三つだと言え、加えて"夢"に関する描写と、"追われる冤罪者のよう"との比喩も、主人公について描かれたものだと見ています。一応の補足をしますと、"西へ"の後には述語として「進む」が来るとの当然の理解で、"夢の津波"または"夢の塔の門よ開け"は、主人公が「夢でその光景を見ている張本人」だという意味です。
この点を掘り下げるには、"キミ"が何者なのかもキーとなってきます。"「戻れぬ」と騒がしく 行くだけのキミ"、"「見えぬゆえ」と無言のまま 行くだけのキミ"、"淡々と散るゆりのように朽ちるキミ"、全て同一の存在と仮定すると、これらは表題の「時間」に人格を与えたものと考えるのが、据りが好いのではないでしょうか。時間が不可逆且つ不可視であるのは本人が語る通りですが、物質の変化を見ることで間接的には意識が可能で、好例は花の一生の観察です。"朽ちるキミを誰も見ず"というのは、即ち「何人も時間に意識を払わなくなっている」ことの表れで、それが前述した超長期的ビジョンの欠如を招いたと踏んでいます。
"キミ"を「時間の擬人化」として「主人公」との接点を読んでいくと、"別れの時と 老いた「日」に身を投げた"で語られる決別のシーンが印象的です。"老いた日"はサビのフックにもなっており、"老いた日で明日が呼ぶ 過ぎる時の西へ西へ"、或いは"老いた日へ明日を見に 過ぎる時の西へ西へ"と、矛盾するような言辞の中に登場します。とはいえ、この矛盾は時間曰くの"「戻れぬ」"を覆せれば、「老いた日(過去)から見た明日(未来)」として、許容出来るものになるでしょう。要するに、主人公が「時間遡行者」であればいいのです。
思い返せば、主人公に纏わるフレーズは何れも示唆的でした。"訓戒の花園を見た"は、そもそも"訓戒"になっている時点で反面教師や悪しき前例へのカウンターを背にしていますし、"淡々と散るゆりのように朽ちるキミを誰も見ず"は、まさに戒めの対象となる愚行を指していると言えるでしょう。未来の"花園"の惨状を知っているからこそ、過去のそれは"訓戒"に映るとのロジックです。"代々と連なり咲"いてきたものが、潰えてしまったわけですからね。
"夢"に関する形容も同様で、"夢の津波"から来る惨劇のビジョンは、その実「未来で経験したこと」だと思っています。普通はそれを「記憶」として留めているはずですが、"記憶は許されず 追われる冤罪者のように"に、"知らぬ間に隠された 夢の闇の奥"とあるので、何時からか現実感が失せてしまったのでしょう。SF的な読み解き方をしているので、ここで安直に「記憶封印装置のせいだ!」と唱えたくなりますが、その方面の解釈は個人的にはナシで、単に「忘れてしまっていただけ」ではないかと認識しています。そのほうが「時間」との関わりが密接になりますし、「忘却」の恐ろしさが際立つからです。
非難の意図はないと明言しておきますが、歌詞に"千"と"津波"が出てくることもあって、東日本大震災と絡めた解釈が浮かんだことも白状します。当該の震災が貞観地震の再来である;即ち千年に一度くらいの頻度で来襲する厄災だとの説を採った上で、大津浪記念碑が語りし先人から警告が、千年は疎か百年もしないうちに風化していた事実を鑑みると、「人は時間によって忘れる生き物である」ことを再認識させられますね。本曲の発表が2006年、東日本大震災の発生は知っての通り2011年であるため、それこそ平沢進が時間遡行者でもない限りは後付け以外の何物でもありませんが、対かもと前出した2013年発表の「Timelineの東」を復興ソングとする見方は正直好きなので、これでフォローすれば震災解釈も開陳していいだろうと載せてみました。
閑話休題。主人公を時間遡行者とした上で、その目的が何かと問われれば、王道なのは「惨劇の回避」ですよね。ただ、その顛末は本曲には描かれておらず、以降の収録曲に委ねられているのだと思います。そこまで語り出すとアルバムレビューをしなくてはならないため、前置きに書いたようにTipsとして提示するだけにしておきますね。…最初にこう宣言しておきながら、結局「Timeline~」にふれてしまうのが僕という人間なので、止め時を明確に文章化しておかないといけないのです。笑
結びにサウンド面からもアプローチをかけてみますと、サビの時間遡行中と思しきシークエンスでは、逸るドラムスがとりわけ耳に残ります。コーラスワークの重苦しさも、オーケストレーションのボルテージの上昇も、根底にあるビートの細かさに煽られて、相互作用的に焦燥感を増幅させている点が技巧的です。ディレイが施され、息急くような質感が付与されたメインボーカルも、主人公が帯びている使命の深刻さの発露に聴こえてお気に入りです。
