初恋 / 宇多田ヒカル | A Flood of Music
2018年07月05日

初恋 / 宇多田ヒカル

テーマ:宇多田ヒカル・Utada
 宇多田ヒカルの7thアルバム『初恋』のレビュー・感想です。前作『Fantôme』(2016)は長い人間活動を経ての久々の新譜ということで渇望感のようなものを覚えていたのですが、そこから2年に満たない早さでこうして次作がリリースされたことは嬉しい誤算でした。前作のレビュー記事の最後に「きっとまだまだアウトプットしたいことがたくさんあるはず。」とは書いたものの、言っても次は3年後ぐらいかなという想定でいたので、彼女の熱量を甘く見ていた自分を恥じます。

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 タイトルに『初恋』を持ってきているのも意味深で、どうしても1stアルバム/表題曲の『First Love』(1999)を連想してしまうのですが、先月に放送された『SONGSスペシャル 宇多田ヒカル』(NHK)の中でその繋がりは否定されていましたね。ここで言う「初恋」は宇多田ヒカルのアーティスト像に根深く関わる概念で、その説明も番組内で行われていましたが、この点も含めて細かいところは以降の各曲レビューの中で都度ふれていくことにします。濫りな引用にはならないように、必要最小限で。

 ということで前置きはそこそこにして、配信限定シングル5曲を含む全12曲を1曲ずつ見ていくとしましょう。


01. Play A Love Song

 「サントリー南アルプススパークリング」のCMソングで、配信では今年の4月にリリースされた楽曲です。『SONGS』では番組の最後に披露されていました。

 キャッチーなメロディにノリの良いビートメイキングで、さらっと聴く分にはとても宇多田ヒカルらしいナンバーだと言えるのですが、全体の流れとしては教会音楽(賛美歌やゴスペル)が意識されていると思えるエネルギッシュなつくりになっていて、このアレンジこそが素晴らしい曲だと評せます。

 1番サビ裏から密かに存在を主張し始め、2番Aメロバックで特に顕著になるキラキラとしたサウンドはパイプオルガンのような趣を携えていますし、ラスサビからはコーラス隊(”The LJ Singers”)も加わって非常にソウルフルな楽想となり、この徐々に増幅する多幸感はまさに愛を謳っているなと納得の仕上がりです。


 タイトルは歌詞の"Can we play a love song?"という問い掛けから来ていますが、この"love"は意味を恋愛に限定したものではないと思うので(詳しい説明は03.「初恋」の項で行います)、"love song"というのも一般的な認識より大きな枠組みで受け取るべき言葉だとの認識です。従って、僕が書いた「愛を謳っている」というのも、色恋沙汰のみを解釈したわけではないと補足しておきます。

 表題のフレーズを除いて最も繰り返しの多い"悲しい話はもうたくさん"という歌詞が端的ですが、ポジティブネスに満ちた内容に逆説的に涙を誘われました。"長い冬が終わる瞬間/笑顔で迎えたいから/意地張っても寒いだけさ"や、"飯食って笑って寝よう"などは、様々な遅疑逡巡の果てに出た表現なのだろうと感じられるので、情報過多の現代人には深く刺さるシンプルさだと感じます。

 そんな中で最も気に入っている歌詞は、2番Aの"友達の心配や/生い立ちのトラウマは/まだ続く僕たちの歴史の/ほんの注釈"です。"注釈"という言葉選びが良く、親も含めた周囲の人間関係を始めとした、人格形成の基盤に影響し得る環境要因に何らかの問題があったとしても、それを序章や一頁などと仰々しく扱って悲観する必要はないという前向きさがよく表れていますよね。


02. あなた



 映画『DESTINY 鎌倉ものがたり』の主題歌およびソニー「ノイキャン・ワイヤレス」CMソングのダブルタイアップ付で、配信では去年の12月にリリースされた楽曲です。『SONGS』でも披露され、対談相手の又吉直樹さんが歌詞の良さを絶賛した一曲でもあります。

 対談で語られていたことは本曲のみに限った話ではないと理解しましたが、家庭環境の特殊さゆえに幼い頃から宇多田ヒカルが抱え込んでいた願いが、祈りとなって今ここに発現した的なまとめ方が番組内ではなされていたので、僕もこの見地に立って解釈してみることにします。

 「あなた」という題、そして「祈り」の概念を重視して歌詞を読み解いていくと、僕は本曲を「あなたに対する狂信的な祈りの歌」だと捉えました。"あなたのいない世界じゃ/どんな願いも叶わないから"に始まり、サビで繰り返されるのは"あなた以外なんにもいらない/大概の問題は取るに足らない"、極め付きは"あなた以外帰る場所は/天上天下 どこにもない"と、"あなた"がいなくなってしまったら一体どうなるんだろうといった、怖さすら覚えるような内容です。


 "代り映えしない明日をください"は永遠を望むことと同義であるため、それが非現実的だと心の奥底では理解しているからこその「祈り」というワードなのでしょうね。ここまで自分を擲ってあなたに依存するのは、たとえ理想の話であっても個人的には怖いと思ってしまうのですが、"戦争の始まりを知らせる放送も/アクティヴィストの足音も届かない/この部屋にいたい もう少し"は、ある部分では共感出来る一節でした。以下この点を掘り下げますが、イデオロギーの話は苦手だという人は読み飛ばしてください。

 基本的に僕は世界情勢や政治論にあまり関心のない人のことは信用出来ないタイプの人間ですが、ここ数年はわざわざ世の中を後退させようとしている人達(とそれに気づかない支持者層)が躍起になっていると感じるので、そんなアナクロな主義主張に耳を傾けるくらいならば、自分とあなただけのパーソナルな世界に閉じ籠ったほうが精神的には健全だと思いたくなるのも理解は出来ます。無関心層の多くは無知なのではなくて、このような思考プロセスを経た上で一種の逃避行動を取っているのではと分析しているのですが、その根底には学習性無力感があると疑っているため、良いことだとは思っていません。

 音楽を語る際にポリティカルな話題を持ち込むのはあまり好きではありませんが、『SONGS』内で行われた若林恵さんによるインタビューの中に「楽曲に同時代性が表れにくいのはなぜか?」という趣旨の質問が出てきて、それに対する答えが「社会を意識できるほど長くどこかにいなかった」で、結論として「“わたし”と”誰か”(の関係性しか想像できない)」と言い切っていたので、こういったケースの人間を想定していなかった自分の想像力のなさにはっとさせられたがゆえの、自虐も込めて先の持論を書いたのでした。端から見たら僕の意見もアクティビストのそれだと思うので、鬱陶しさの一端を感じられたのではないでしょうか。笑


 脱線したので話を音楽に戻しますと、「あなた」はストレートに宇多田ヒカルらしいナンバーだと感じられ、Kick Hornsによるホーンセクションサウンドが心地好い曲だとまとめることが出来ます。


03. 初恋



 TVドラマ「花のち晴れ ~花男 Next Season~」(TBS)のイメージソングとしてもお馴染みの曲で、配信リリースは今年の5月末、本作の表題曲であることも考慮すると先行シングル的な位置付けでしょうか。

 冒頭や01.の項で勿体ぶった書き方をした「初恋」の意味についてまず書きますと、『SONGS』内で宇多田ヒカルの口から語られた定義は「初めて人間として深く関係を持った相手」で、彼女にとってその対象は「母親と父親」だったそうです。曰く「恋愛に於いての初恋の経験がない」、だからこその定義付けだと理解しましたが、人によってはこの定義が恋愛に当て嵌まる場合も当然あるため、素直な受け取り方をしても何も問題はないでしょう。ここで肝要なのは「初恋の相手にどう影響を受けたか;それを理解することが後の別の関係性へとつながる」という感覚で、これは彼女の発言を僕が少しコンパクトに削ったものですが、この思いはデビューから一貫して変わっていないようなので、アーティスト像に直結する重要な談話と言えますよね。

 ここまで背景を知ってしまうと、下手に歌詞解釈を披露するのはリスナーの感性を変に誘導する結果になりかねないと思ったため、結びの"狂おしく高鳴る胸が/優しく肩を打つ雨が今/こらえても溢れる涙が/私に知らせる これが初恋と"という歌詞が情緒纏綿で泣けてしまうほどに美しいと短くまとめ、以降はメロディとアレンジに対する言及をします。


 まず何と言ってもサビメロの独特さが素晴らしいです。波のような旋律とでも表現しましょうか、短いピークが幾度も押し寄せてくるリズミカルなメロディで、愛おしさと愛(かな)しさを同時に感じさせるところは、まさに抑えきれない初恋のモーメントだと得心がいきました。震え成分の入った歌声も感情の爆発に拍車をかけていて、声楽に於ける定義をよく知らないので間違った用語の使い方かもしれませんが、ビブラートというよりトレモロに寄った絶妙な揺らぎだと絶賛します。畳み掛ける"I need you"のコーラスパートは最早泣かせにかかってきているとさえ思いますが、ひたすらに美しいので何の文句も言えません。

 この可憐なメロディを下支えしているのがストリングスアレンジの素敵さです。宇多田ヒカル自身もアレンジャーとしてクレジットされている(他の曲でも同様)ので本気のほども窺えるというものですが、リズム隊のひとつとしてのグルーヴィーな役割と、ボーカルラインの補助としてのメロディアスな機能が適宜使い分けられていて、この全ての要素に対する相互作用的な働きは宛ら波紋の交差を連想させます。先に波の喩えを出したのでそれにあわせた形ですが、次々と波紋が生まれて水面が荒れていくイメージに、僕は初恋のビジョンを見たというのも意識の内です。


04. 誓い

 先に率直な感想を述べると、「なにこの曲むっず!」と思いました。譜割りもビートメイキングも複雑怪奇で、近年のbjörkの楽曲を聴いた時のような衝撃が奔り、初聴時は口を少し開いて驚きつつもにやけ顔で、「宇多田ヒカル進化しすぎだろ」と傑作の予感に打ち震えていた次第です。大仰に聞こえるでしょうが、それくらいのハイセンスさに満ち満ちた凄まじいトラックであると高く評価します。

 Cメロ("たまに堪えられなく涙に"~)が最もわかりやすいですが、半分ラップだと表現したくなる独特なメロディですよね。前作収録の「忘却」にはポエトリーリーディング的な手法が取り入れられていましたが、それともまた違った不思議なリズム感です。しかし聴いているうちに「あれ?でもこれに近い感じは何か知ってるぞ?」と思い始め、「そうだ!これは「Passion」(2005)系の複雑さだ!」と記憶がリンクしました。そしてタイアップを確認して納得です。「誓い」はゲームソフト『KINGDOM HEARTS Ⅲ』のテーマソングで、「Passion」は同作・Ⅱの主題歌でしたから、同系統の感が出てもおかしくはないなと。


 楽想も複雑で、歌詞カードの空行を矢印に置き換えて表示すれば【A-1 → A-2 → サビ → A-1 → A-2 → サビ → B → C → サビ → D-1 → D-2(バックにC) → B】となり、分類の仕方にもよるでしょうが個人的には他の類似例が思い浮かばない唯一無二の展開でした。特にBメロの出現位置が面白く、1番には出てこない/2番サビの後に出てくる/クロージングも担うという自由っぷりです。本曲の中ではBの旋律が最も楽しげに感じられるので、結婚がモチーフの未来志向な歌詞とあわせて、ピュアな想いが強く発露したパートだという認識です。

 総合的に最も気に入っているのはDメロで、特に"Kiss me once, kiss me twice"の部分は、初期の宇多田ヒカルを彷彿させる格好良さだと思いました。ただ、従来であれば二回目の"kiss"はもうワンテンポ早くインしているでしょうし、"twice"は伸ばさずに短く切って歌っていたであろうと想像出来るので、この僅かな譜割りの差に進化を見た気がします。

 二度目の"Kiss me once"の後から鳴り出す、プリセットに入っているヘリコプターの音みたいなシンセベース?(オートアルペジオをONにするとこんなサウンドになる気がする)も好みで、このタイミングで急に低音の主張を強めるという意外性に痺れました。機能的にはD-2バックのCに意識を向けるための布石ですかね?多分ですがここは単にCを繰り返しているのではなく、歌詞に載っていない言葉で新たに歌われているように聴こえるので、裏側にも耳を傾けて欲しいのだと推測します。肝心の内容は聴き取れそうで聴き取れないので、いつかふとわかる瞬間に期待しましょう。


05. Forevermore

 TVドラマ『ごめん、愛してる』(TBS)の主題歌で、配信では去年の7月にリリースされた楽曲です。

 ストリングスとエレクトリックピアノが醸す艶っぽさ或いは大人っぽさが印象的なナンバーで、恋愛ドラマにぴったりのわかりやすいアレンジを持った曲であると言えます。オリジナルは韓国ドラマだそうなので、誇張気味にも思える直球の編曲も悪くはないなという感想です。

 メロディとしては、意外とサビが地味であることに驚きました。繰り返し聴けば美しい旋律だとわかるのですが、一度聴いただけではさらっと耳から零れていってしまい、遅れて「今のがサビだったのか」と気付くような儚さを宿していますよね。ただそれはサビ前半に限った話で、"Others"から始まる後半は幾分キャッチーに感じられます。Utada名義のトラックにありそうな怪しい軽快さがあると思ったのですが、共感していただけるでしょうか。

 歌詞では02.「あなた」に負けず劣らずのあなた偏重っぷりが披露されています。"あなたの代わりなんて居やしない"や、"愛してる、愛してるのは/あなただけだよ"など、わざとらしいほどにストレートな表現に面食らってしまいそうで、だからこそこちらのほうが一層情事の趣を強く意識させられますね。"愛してる、愛してる/それ以外は余談の域よ"や、表題を含む"Others come and go/But you're in my soul forevermore"などの、あなた以外は心底どうでもいいということがよくわかるフレーズはなかなかに好みです。


06. Too Proud featuring Jevon

 タイトル通りJevon Ellisをフィーチャーアーティストとして迎えたトラックで、楽曲制作も共同であることがクレジットから読み取れます。Jevonはラッパーで、本曲に於いても彼の実力が如何なく発揮されているのですが、宇多田ヒカルのパートもフロウが心地好いラップ調と言えるものになっているので、リピートされる"Too proud"をフックとした統一感はしっかりとありますね。

 本曲で最も好きなのは、イントロやサビのバックに登場するハープもしくはピアノっぽい音で奏でられている煌びやかなフレーズです。サビのは少しチップチューン的というか良い感じにノイズがのっている風に聴こえ、伝わるか微妙ですが不愉快BGMとして名が通っているFCソフト『おにゃんこTOWN』を思い出し初聴時には少し笑ってしまいました。勿論本曲のは耳に快い響きになっていますが、妙な中毒性があるところは共通しているのではと思います。プログラミングには前作の「ともだち」にも参加なさっていた小袋成彬さんの名が連ねてありますが、これはどちらのセンスなのか気になるところです。


 歌詞は欲求不満が炸裂した感じで、"寝食を共にし始めて何年/触れられない案件"、"己を慰める術の/日に日に増していくことよ"、"あり過ぎても良くないけど/まるっきし無いのもどうなの"あたりの表現からは、どうしても性的なそれを連想してしまいます。特に強烈だと思ったのは日本語詞冒頭の"「おやすみ」のあと向けられる背を/見て思い出す動物園の動物"という一節で、レスの描き方の上手さにある種の感動を覚えました。これは女性から男性へ向けたものとするほうが据りがいいと感じるので、僕は素直に「こうは思われたくはないな」と独り言ちます。

 反対にJevonのパートは男性サイドの独白に見受けられ、疑りや不信が見事に切り取られているところが切なくも好きです。"Why you deleting all your message?/What you hiding on your phone?/No, I don't trust your honesty"と積み重なって、次に"Love is cursed by monogamy"と来るところには、結婚観について色々と考えさせられました。不倫の言い訳に使うとしたら開き直りに近いでしょうが、そうでない清廉潔白なケースでも一夫一婦に縛られるのは同じであるため、単婚制の下では誰しもが向き合っていかねばならないことですからね。


07. Good night



 来月公開予定の映画「ペンギン・ハイウェイ」の主題歌です。予告を観た感じだとおねショタ歓喜アニメに思え、且つSFっぽさというかローファンタジーな趣も良さげなので劇場に行こうかと思案しています。森見登美彦が原作のアニメは『四畳半神話大系』しか観たことがありませんが、これは大好きな作品のひとつであるため、彼の描く世界観にも馴染みやすいであろうとの期待も込めて。

 タイアップの掘り下げから始めてしまいましたが、歌詞の内容はおそらく主人公の男の子の心情が反映されていると推測出来るため、先にいくらかの情報を提示しておく必要があるなと考えたがゆえです。原作の小説は読んだことがないので妄想解釈にしかなりませんが、"Hello 僕は思い出じゃない/さよならなんて大嫌い"や、"この頃の僕を語らせておくれよ"などのフレーズから滲む届かぬ想いや叶わぬ恋心の表現には、歳の差を意識せざるを得ないなと思いました。

 サビの歌詞は"Goodbye"と"Good night"の二語しかないシンプルさで、楽曲単体で判断すると映画のタイアップが付いているにしては地味かなと感じなくもないのですが、じわじわと盛り上がる展開を経てからのドラマチックなラスサビは、映画で流れたら落涙必至のやつだわということが容易に想像出来ます。


08. パクチーの唄

 曲目リストを見た人に最もインパクトを感じさせたナンバーではないでしょうか。「ぼくはくま」(2006)系の変化球だろうということはすぐに予想がつきましたが、題材が題材だけにこちらはきちんと大人向けの楽曲でしたね。笑

 歌詞には載っていない冒頭の"こりゃなんだ?コリアンダー!"と、サビで繰り返される"パクチー ぱくぱく"の主張が強く、この一点突破の美学はまさにパクチーだなと納得です。"君のこと 嫌いなんてなれないよ"も好き嫌いが分かれる食材らしい一節で、出されたら食べるけれども積極的に口にしようとは思わない僕は、少しばつが悪いような気持ちを抱いてしまいました。

 本曲は06.の項でもお名前を出した小袋さんとの共同制作で、アレンジには02.にも登場したKick Hornsが参加しています。ホーンセクションの素敵さはアウトロで俄に爆発するのですが、このパートの多幸感は眼福ならぬ耳福でとても気持ちが好いですね。匂いと絡めて鼻福と表現するのも面白いかもしれませんが、字面と音韻にも配慮するならば香福がベストでしょうか。


09. 残り香

 この曲順でこのタイトルだと「パクチーの?」とどうしても勘繰ってしまうのですが、おそらく狙ってのことだろうと思います。"残り香と私の部屋で/温かいあなたの/肩を探す"は、本曲が別れの歌であることも考慮すれば「あなたの残り香」のことだと理解するのが自然でしょうが、一つ屋根の下で暮らしていれば料理の匂いも二人の記憶として刻まれるのは当然なので、ダブルミーニング的な受け止め方をするのも充分可能ですよね。

 派手さがなくて実にアルバムの中の一曲らしいなという印象を抱きましたし、実際クレジットを見ても本作中最もシンプルで打ち込みオンリーであることが示されているのですが、その割には結構凝ったアレンジが施されているように聴こえます。各音に対するエフェクト(特に空間系)の掛け方が巧く、それによる残響良い感じに隙間を埋めているから…ですかね?


10. 大空で抱きしめて

 「サントリー天然水」のCMソングで、配信リリースは去年の7月上旬と、本作の中ではいちばん早くから世に出ていたナンバーです。

 この曲はかなり従来の宇多田ヒカルっぽいなと感じました。音遣いに関しては勿論進化しているとわかるので原点回帰とまでは言いませんが、とりわけサビ後半("いつの日かまた"~)のR&B的なビート感やメロディのキャッチーさには、懐かしさを覚えた人も多いのではと踏んでいます。

 誉め言葉として使いますが、明るい立ち上がりから何処か影を落としたようなクライマックスを迎えるという、この雰囲気のちぐはぐさも宇多田ヒカルの真骨頂だという気がします。明暗を同時に提示しているというか、理想と現実へのフォーカシングが自在であるところが素晴らしいです。


 この観点で言えばAメロが現実のセクションにあたり、別れを背景とした日常を何とか生き抜こうとする意志が、明るいアレンジとなって表れているのだと思いました。"今日はどこか遠くへ行きたい気分/空の見える場所へ"は言わば逃避ですし、"涙で目が覚めた月曜日の朝"は直球です。

 一方のサビでは理想が過去の再演と共に描かれています。"いつの日かまた会えたとしたら/最後と言わずにキスをして/もし夢の中でしか会えないなら/朝まで私を抱きしめて"でストレートに現在の状況と願望を表し、"君はまだ怒ってるかな/意地を張らずにいられなくて"、"僕はまだあの頃のまま/青空で待ち惚け"、"傷ついたのはお互い様だから"などの視点が過去に飛ぶフレーズでもって背景を補強することで、懐かしさと同時に戻れない哀しさを一層際立たせているという見事な対比です。

 2番サビ後の間奏に宿る激しい切なさ、そこから続くラスサビの仄暗さには胸を強く締め付けられました。別れた直後の絶望感ではなく、それから数ヶ月~数年経過する道程でじわじわと肥大化してしまった喪失感に襲われるような感覚。情感の豊かなストリングスとセンチメンタルなギターも完璧に役割を熟していますが、ある意味ではナイフの如き鋭さと残酷さを感じさせます。ラストの"消えないで"がチョップされてビートの一部となっていくアウトロのアレンジも、願いが儚くも潰えていった様を表しているみたいで深く刺さりました。


11. 夕凪

 重大な別れを背景に持ったアルバムを読み解く際には、「救いの曲が必ず何処かにある」という認識で臨むのですが、その役割は本曲に振られているとの理解です。

 "全てが例外なく/必ず必ず/いつかは終わります/これからも変わらず"が端的ですが、有り体に言えば「時間の経過による癒し」が描かれていますよね。"こんなにも穏やかな時間を/あなたと過ごすのは/何年振りでしょうか"は、現実での話というよりは精神世界での対話としたほうがいいように思え、長い時を経て漸く別れを消化出来た段階の、言わば悟りの境地でしょう。

 続く歌詞も意味深で怖さすら覚えたのですが、"落とさぬように抱いた/小さくなったあなたの体"という表現は、僕には胎内回帰的な発想に依存する処理方法だと映りました。相手を一度自分の中で殺して、再び産むことで真っ新な気持ちで向かい合う乗り越え方。この解釈が正しいかどうか、或いはこの発想がポピュラーかどうかはともかく、女性(母親)らしい着眼点に脱帽です。

 アレンジ面では声/ボイスの使い方が実験的で面白いと思いました。イントロのぼそぼそとした不明瞭な語り掛けに赤ん坊の泣き声の如くに聴こえる声、ボーカルラインに先行して台詞としても登場する歌詞("こんなに"~)、吐く息の音で刻まれるリズム("落とさぬように"~)、微睡みの中で無意識が語り掛けてくるような感覚に陥るサビのコーラスワーク、thereかthey'reのリピートに聴こえる不思議な間奏、"波が反っては消える"が繰り返し重なるラスサビと、細部に手間が掛かっていることがわかります。楽器での演奏がシンプルなだけに、声では趣向を凝らそうといった制作方針ですかね。


12. 嫉妬されるべき人生

 これもまたインパクトのある曲名ですが、肝心の内容もかなり衝撃的だったので、鳥肌のレベルは04.「誓い」と同等でした。

 まずアレンジから語りますが、ビートメイキングは比較的複雑ではあるものの、04.ほどの難解さはなくまだ聴き易い印象です。ただ、11.の項のラストに書いたものと同じような、ボイスを使ったグルーヴ構築がなされているので、仕上がりはなかなかにプログレッシブだと思いました。様々な表情をつけられた"Ah"が出てくるのが特徴で、Bメロのバック("不気味に"~)では美しく散っていくように、サビ前の間奏では這い寄る不安の如く怪しげに、サビ後の間奏以降では強くエコーが掛かって一層切なくと、これは感情の変化を言語意味外の領域で(=言葉に拠らずに)表現しているのだと捉えました。

 アレンジと絡めながらメロディについても言及すると、動静の切り替えで気持ちを揺さぶってくる技巧派の旋律であると絶賛したいです。ベースとビート(とピアノ)だけの静かなAはメロ自体もまだおとなしい印象ですが、ストリングスがインして俄に緊張感が出てくるBではメロもエッジィなものに変化し、いきなり逼迫した状況に晒された気分になり焦ります。サビは炎の揺らぎのようとでも表現しましょうか、徐々に振れ幅が大きくなって周囲の熱量が増していく、旋律のポテンシャルに編曲が呼応するタイプの巻き込み型であるところがお気に入りです。Cは単純なメロの繰り返しでありながら、譜割りの独特さのおかげか祈りの性質が強く表れているなと感じました。ラスサビは途切れかけの電子音のようなチープなサウンド(Cメロ前の間奏部でも聴こえます)が裏で鳴っているのが好みです。


 最後は歌詞にふれますが、本曲の歌詞は「アルバム全体のハイライトになっている」と主張します。詳しくは最後のまとめに書きますが、"軽いお辞儀と自己紹介で/もうわかってしまったの/この人と添い遂げること"で出逢いを描き、"長いと思ってた人生 急に短い"で関係が加速し、"あなたに出会えて/誰よりも幸せだったと/嫉妬されるべき人生だったと"で絶頂を迎え、しかし同時にそれは過ぎ去ったことに対する肯定としても映り、だからこそ"人の期待に応えるだけの/生き方はもうやめる"と"母の遺影"に報告をし、"今日が人生で最初の日だよ"と新たな始まりを謳っているのではないかと、こう考えたからです。

 これは敢えて途中から捻った解釈をしていますが、最初から最後まで一貫して"あなたに操を立てる"歌だとする解釈のほうが自然かとは思います。"嫉妬されるべき人生"はそのまま「周りが羨むほどに仲睦まじいこと」だけの意味に捉え、"人の期待に"~は「これからは自分の幸せを優先する」という決意表明で、"今日が人生の最初の日だよ"は「初恋の気持ちを忘れない」的な理解をすれば、アルバムタイトル的にもしっくりくるのではないかと。ただ僕はどうにも捻くれているので、アレンジの仄暗いベクトルまで考慮すると、単にハッピーな曲とするのは違うんじゃないかなと思った次第です。



 以上、全12曲でした。12.の項に書いたことと一部重複しますが、本作のストーリーはずばり「出逢いから別れに至り、それを克服するまでのプロセス」だと解釈しました。

 01.で恋する気持ちを作り、02.で対象を定め、03.で恋に落ち、04.で結ばれ、05.で絶頂期を描き、06.で倦怠期に突入、07.と08.は宛ら走馬燈で、09.で別れに至る、10.で喪失感を覚え、11.でそれを乗り越え、12.で次へと向けた総括をする…ざっとこういう流れだと受け取りました。歌詞の細かいところまで見ていくと、これはちょっと違うかな?と思う箇所もありはしますが、大きくは外していないだろうと自己弁護します。

 音楽的な要素だけを取り立てても、メロディ・アレンジ共に複雑な遊び心が光る曲が多く、前作に引き続いて傑作だと言っていいレベルで非常に満足です。最も気に入ったのは04.「誓い」で、次いで12.「嫉妬されるべき人生」、03.「初恋」、01.「Play A Love Song」、10.「大空で抱きしめて」、06.「Too Proud」の順でお気に入りのナンバーとなりました。レビュー本文中にも書きましたが、07.「Good Night」は映画の内容如何ではもっと評価が高くなる気がします。