神谷町から電車で湯島天神へ移動。
第二部はここからスタートです。
慶応4年(1868)5月15日、彰義隊がここ湯島天神にたてこもっているとの噂があり、西軍は寛永寺に向かう前に進軍してきたと云います。

余談ですが…。
湯島さんから男坂を下った場所、柳井堂 心城院があります。
こちらの「柳の井」は江戸の名水とされ、
美髪にいいと…。
この水で髪を撫でると、髪も心も清められて降りかかる厄を払ってくれるそうです~♪

水琴窟の奏でる音に癒され、さあ上野へ出発!

上野小路交差点付近。
彰義隊はこの辺りに畳を積み塁を築いて善戦するも、薩摩藩の砲撃により黒門内に退かざるを得なくなります。
そして三橋(三枚橋)のあったこの場所で、かつての新選組十番組組長、原田佐之助は重傷を負い、二日後の17日に死亡…。
このすぐ右側には副長ゆかりの松坂屋が。
松坂屋は西軍の本営となり、この場所から黒門めがけて砲撃を開始。
上野山に向かって正面の松坂屋。

⬆左側の料亭松源。(この辺りにあったと推測されます。)

⬆さらに右側の料理屋雁鍋。(現在はヨドバシカメラになっている場所。)
この三方から砲撃。

⬆黒門は恐らくこの辺り(太田蜀山人の碑付近。)

凄まじい攻撃を受けつつも、この山王台から砲撃(フランス式野砲三門)、そして銃撃で応戦。

⬆山王台から黒門付近を見下ろすとこんな感じ。
狭い山門は多くの兵が入れないこともあり西軍は苦戦。
しかし昼過ぎには弾薬が切れてしまい、黒門左右からの砲撃により勝負あり。
ついには黒門が突破されてしまいます。

最前線で指揮をとったと云われる西郷隆盛。

そしてその後ろに彰義隊のお墓があります。


山内に放置されていた200超の遺骸を見かねた住職らが密かに埋葬。
墓石に刻まれている「戦死之墓」の文字は山岡鉄舟によるもの。
それにしても…。
「義」という文字が胸に迫ってきます。
封建社会から近代の世へ。
大きな変化の波に乗る者あり、一方でその波に抗う者もあり…。
多くの事を考え、感じながら冥福を祈り手を合わせてきました。
長くなりました。
お付き合いどうもありがとうございます。
続きはまた。
ごきげんよう~~。