駅 待 ち 人
標 な き 日 々 場景は忽然と現れ、湧き上がってきては消えて行く。男が一人、光芒の向こうの闇を見据える鋭い光を灯す眼差しで歩き行く・・・。孤影を追うように歩く男を傍観するもう一人の男がいた。男の唇は動かすが音を発しない。表情は 何?何・・・と云う感情の機微を滲ませるように見える。『 何処へ行く!お前は何処に行くんだ!! 』 男は理由なく湧きあがる苛立ちを見せ、肩を震わせながら叫び跪いた。『あぁ、ああぁ~』 両手を差し上げ・・・身体を硬直させ、その声は心の疼を訴えるものに聞こえる。『うっわっ!うっわぁ!うっわぁ!』 その譫言は精神の極限を越えてしまった叫びが上がり・・・そしてすぐに静まった。霧の底に沈む気配、鈍よりとする空気が漂う薄暗い部屋に浮ぶ様に白い布団が敷かれ、一人の男が仰向けに寝ていた。両腕の太い血管は浮上り・・・拳をはち切れそうな力で握り締め、身体中に弾のような汗を滲ませ、あぁ・・・あぁ・・・ 男は跳ね起き上がった。大きく見開かれた目は・・・ぼうと闇間に溶け込もうとする小さな光の点に反射的に向き、意識は それを追う。それは木漏れに似た光の帯が微かな揺らぎを魅せている。「此処は何処だ!」男は記憶の中に何かを探し求める呪縛の虜と化した様に言葉を吐いた。此処は? 汗ばんだ掌を広げ、額に右手を当てて汗を拭い ガバッ と音を立て 身体を起こした。「夢か!」眠りの夢見が鮮やかに男の瞼の裏側の闇に浮かび上がる。(俺が俺を襲うとしていたぞ!)「嫌な夢だったな・・・」そう呟いた男はベッドを抜け出すと、ひんやりとした床の温度を足裏に感じつつ、光の帯の揺らぎ源へと歩き出す。カシャッ!カシャッ! という、幕が左右に開かれる様な音が立つと・・・一瞬にして薄闇の暗い世界に光が溢れ、陽光に浸食された。掃き出し窓の外に広がる風景には、左手に迫る断崖と極小な松が生える小島、正面には碧い海、そして水平線と空を区分けする様に自動車道路の灰色のコンクリートの橋脚が走り、橋桁が建つのが見える。その手前には小さな浜辺があり、ザァッ、ザァ~ と静かに打ち寄せる細波が狭い砂浜に奥深さを染めさせる。「さっ!行くか・・・今日は遅刻だな」2016年の7月の或る朝、男は口に食べ物を詰め込むと玄関ドアに鍵を掛け、3階建てのアパートの通路に出て空を見上げ 今日も暑くなるな! 溜息と一緒に小さく言葉を洩らす。「ヤバいな、バス間に合うか・・・」南側の階段を下りてバス停へと潮の香りが漂うなか歩き始めた。高度を高め始めた梅雨の終わり掛け初夏の陽射しと潮騒を浴びながら、汗を拭きつつ東へと開ける海に目を向けるのであった。小型バスは低いエンジン音を高鳴らせて、緩やかな勾配の坂道をゆっくりと重い車体を上り始めた。すると、足元に小刻みに震わす心地良い振動が伝わり・・・次第に虚ろな気分・・・浅い眠りに引き込まれそうになってしまい、思わずおっ! と小さく何度も声を小さく洩らす。暫くするとバスは平坦な道程変り、停車を知らせる車内アナウンスで目を覚ますと大きく見開いて左手に開けた風景に意識を向ける。(この風景、何年見ているのかなぁ?)車窓を流れ過ぎて行く家並を眺め、そう想う男の心の傍らに・・・別なる向きからの想いを潜めていた。 (何時頃から、俺はこの風景を見ていた?)そんな想いを巡らせている処に 役場前、役場前! という案内が流れ、次に運転手のアナウンスが響き渡る。「停車いたします、ブレーキにお気をつけください」聞きなれたアナウンスは遠退く音の様に・・・他愛ないものとして流れ、男は乗ってきた乗客に目も繰れず車窓の景色を眺めていた。バスは住宅街の平坦な道をゆっくりと走り出し、勾配のある坂道に掛かるとエンジンを唸らせて上り始め、国道135号と交わる信号が赤の為にバスは停車して国道の向こうに JRの駅が見えた。(この駅から何回乗り降りしただろうか?)暫くすると信号が青に変わり、小型バスはエンジンを唸らせず静かに動き出した。 巡らす想いを追い遣る様に男は顔を横に振る、・・・何かを暗示した、何かを垣間見た感覚に囚われたのである。それは突然に、(何だ!あれは誰だ?)「お忘れ物にご注意ください・・・」一瞬見えたかの人の姿や光景が、剥ぎ取られたかの様に遥か彼方に飛ばされて 雲散霧消してしまった。アナウンスは男には聞こえてないのか、放心状態なのか・・・それはひっそりと何かを待つ表情で座っていた。「お客さん!お客さん!駅に着きましたよ!!」他の乗客は下り、一人座席に座っていた男は、運転手の掛け声に我を取り戻す。あ!はい!すみません! 男は慌てて立ちが上ると、急ぎ足で前の降り口へと進んでカードを押し当てて否応なく小型バスを下ろされた。足元のアスファルトから夏の陽射しを吸収した熱気が ムゥ~ と蒸し上がり、車内の冷房で引いていた汗がどっと溢れ出てきた。そんな処に・・・モッチャン、モッチャン! と沈黙を裂く程の大きな声が、小さな駅のロータリーに轟き、バスから降りた男の現に命を吹き込んだ。周囲を見回すと、白の車の傍らに立って大きく手振りをする人物が目に止まり、距離は数十mだったが息を弾ませ、男は駆け寄って来た。「おい、モッチャン、慌てるな。危ないぞ!」そう声を掛けた人物は、駆け寄って来た男に目を細めて肩に手を置いた。「おい、おい!走って大丈夫か?」「おはよっす、大丈夫です!カキさん、何時も迎えに来てもらって、すいません」男は息を弾ませて軽い会釈で返した。 「そんな事はいい!体調の方は良いのか?」年齢が上と見える人物は心配そうな表情で男に声を掛けると、白い歯を見せて「はい、心配かけてすみません。もう大丈夫です!」「御袋さんの葬式で疲れいるのだろう・・・まぁ、モッチャンは色々抱えているからな。今日から、ゆっくりとやっていけばいい・・・さぁ遅刻するな、行くか!」2人の男は白い車に乗り込むと、車は小さなロータリーを旋回して信号が青に変わると国道135号線に出て西へと走り出した。モッチャンと呼ばれる男の名は本保薫、カキさんと呼ばれる男は本保の仕事上の先輩格で 垣内修二である。白の車は135号線を走り・・・湯河原の福浦を過ぎ、吉浜地内の船付の信号で車は停車し、左手には陽射しを水面に煌めかせる相模灘が広がる。垣内修二は湯河原の川堀に住み、仕事へは車で通勤していた。同僚で隣町に住んでいる本保薫と毎朝待ち合わせて、乗せて行っていた。本保薫は此の二月の間、仕事をしながら養母の 本保タネ の面倒を看て、後の一月は休暇を取って看護を続け・・・最後を看取ったのである。「モッチャンは色々と大変だよな・・・どう、休んでいる間に何か想い出したか?」窓外の通り過ぎて行く風景を眺めていた本保には、垣内の問い掛けが沈みかけの感情の機微を震わせ・・・自我を巧みにすくい取らせた。本保にとって養母と暮らした日々が・・・人生のすべての記憶。垣内が運転する車は、そのまま進めば135号線は真鶴道路と交わるが新崎川に掛かる橋の手前で右折した。(いつものコース)毎朝立ち寄っていた安売りの自動販売機で缶コーヒーを買って一服していた。「カキさん今日は僕が買いますよ!」「そうか、じゃぁ頼むよ!」本保は垣内に薄く微笑んで頷き、問い掛けには応えなかった。新崎川に架かる正砂橋を渡った時、川面に視線を向けると・・・一瞬だったがぱっ!と、ある光景が浮かび上がる。 あっ? 本保は想わず小さな声を洩らしてしまう。垣内はそれに気付き、「如何した?」本保は内心慌てたが平静を装って何もなかった様に いや、何でも無いです! と、目を大きく見開きながら白い歯を見せて顔を横に軽く振った。車は小さな交差点を過ぎて50mほど進んで自動販売機の前に停車する。本保薫はバックから財布を取り出し、助手席のドアを開け自動販売機の前に下り立ち、硬貨を入れてボタンを押して缶コーヒーを取り出した。「どうぞ!」本保は乗込みながら、缶コーヒーを手渡してドアを閉じた。「ちょっと早いから此処で飲んで行こう・・・」いいすかね! と本保は背凭れに身体を預けて缶コーヒーの飲み口を開ける。「まだ少し早いからいいだろうな・・・」そう言って垣内は飲み口を開けてから、間を置いて口を開く。「モッチャン、さっきも言ったけどさ・・・どうだ、何か想い出せたかい」垣内が再び聞かれ、本保薫は正面を向いたままで缶コーヒー口を付けて表情を歪め、目を細めて顔を傾げた。それは、うまく紡ぐことが出来なく・・・記憶が、闇に沈む様なものであったから。「何も想い出さないんです。ただ・・・葬式が終わってから1週間ですが、目覚めの悪い夢を毎日見る様になりましたけど・・・」「そうか、睡眠不足って処か。まぁ今日から気を付けて仕事してくれな・・・」はい・・・ と本保は軽く頷いて、暫く無言の間が続き、垣内は時計を見た。「モッチャン、余計なお世話かもしれないけど、落ち着いたら向こうを引き払って湯河原に引っ越してきたらどうだ?こっちには御祖母さんの実家やもう一軒のアパートもあるだろう。譲り受けた向こうのアパートは今まで通り大家としてやって行けばいいじゃないか。あそこのアパートじゃぁ、生活するのに不便だと俺は想うけどな・・・ 」本保には鏡の向こうの世界の物事の動きの様に垣内の話が聞こえたが、巧みにすくい取られた気がしてきた。「俺も生意気なことは言えないけど、誰もが寂しさを抱えて生きている。でもな、人は生きる事で多くを失うものだと想えるな・・・」垣内の話にふと、涙が湧き上がり・・・否応なく視界を消した。「そうですね、考えてみます・・・」本保薫は表情には見せないが、心を疼かせる想いで頷いた。車は静かに動き出し信号に当たると、調度よく青信号で右折が出来て湯河原駅から県道に入って135号線を目指した。車は135号線に入ると車線は片側二車線が続き、左手に立つ近郊の下水処理場を見ながら走り、県境の千歳川を通過して静岡県に入る。垣内の話は本保の耳の奥に不思議と残り、心の奥底で何物かに蟠る・・・言葉では伝え切れない、形が見えない障壁を取り払ってくれる様な想いにさせられるのであった。千歳川を渡ると国道はやや急こう配の2km程の坂道が続き、二人が乗った車は重機を積載した大型車の後ろに着いて走る。「夢で、もがいている自分を別の自分が何時も見ていて・・・その自分を,,それも悲しい表情をした女性で。薄暗い部屋の中で」「気味の悪い夢だな・・・」「その女性は泣きながら、俺を呼んで来るんですよ。でも声は聞こえなくて・・・ 」ハンドルを握る垣内は う~ん? おいおい、昔泣かした女じゃないのか? 揶揄する様に白い歯を見せて本保を見た。「そんな事無いですよ!俺は真面目だけが取り柄ですからね。カキさんとは違って不良中年じゃないですよ!奥さんを泣かしたり致しません!」ふっふっ! と鼻で笑い、 そうだそうだ! と垣内は頷いた。本保薫は垂れる気味顔を少し落とし・・・言葉を切った。そして、突然本保は「こうしてやる!」大きく叫んで、ワイヤーレバーを動かして洗浄液を無理やり出してワイパーを高速で動かす悪戯をして垣内を慌てさせ、 何だよ! と言い、2人は前を行く大型車を見ながら笑い合った。「えぇ・・・して無いはずと想います。記憶が無いので分からないですけど」窓外を流れて行く風景を見ながら、胸の内にざわめき立つものを感じるのであった。 本保薫は、今の2015年から10年前まで遡った記憶はあるが・・・2005年以前の記憶が全くない。自覚する事は養母本保タネが目の前に居て、その時から人生が始まったものだった。一時は、自分を捜そう奔走した時もあったが、その先の結果に対する緊張と不安に怯えると同時に、養母本保タネとのゆっくりとした生活や照会されて勤め出した仕事に充実感に溢れていた為に、過去を捜す事を諦めたのである。養母本保タネの葬式を済ませてから・・・今日までの2週間、怒涛の様に時間が過ぎた。遺産相続やいろいろな手続きに走り回り・・・時々放心状態に陥り、何かもが手に着かなくなり義母タネの存在の大きさに痛感する。この時の相談相手は、会社の同僚達である先輩の垣内修二、最年長者の田金憲二や社長夫婦だった。彼等は本保の身の上を知って居り、親身になって話を聞いてくれ、的確な答えを出してくれた。