標  な き 日 々

 

 部屋で着替えを済ませた薫は台所に戻らず、客間二間を

過ぎて養母タネが使っていた部屋のドアを開けて中に入った。

部屋は亡くなる前のままで、室内の何処も彼処もタネの面影を

残すために、薫は置かれてある物を一切動かしていない。

この部屋にはタネの面影、タネの体温を帯びた香りが残り・・・

共に生きた日々の証が溢れる程に詰まっていると言う想いを

深めているために、一つも動かさないでいたのだ。

「養母さん・・・」

部屋に佇む薫には不意に、心を疼くませる社長の高橋の言葉が蘇ってきた。

『タネ先生は普通の人が見る事が出来ない、神霊世界が見えていた。人の前世、守護霊が見え、未来をも見通す能力を持つ霊能者だろうと聞いていた。嘘か真か定かじゃない・・・今風に言えばスピリチュアル的な能力を持つ人だな。だから多くの人たちが先生を頼り、相談者が絶えなかった。うちの親父も俺も・・・氏子全員が先生の信奉者』

(義母は・・・今は、もう居ないです)

義母本保タネを知る事、人となりを読み取る事は本保家の淵源を長い時間を掛けて捜すようなもの。別なる意味では薫の失われた過去の記憶にも辿り着くものだろう。

ふぅ~ と疲れを含んだため息を吐き、 養母さんは普通の人です・・・ と煙のような感情の想いの声を洩らした。

(一人には、この家は広すぎだ・・・寂しいな)

養母の面影を追いながらの足取りで、薫は不思議に吸い寄せられる様に自分の部屋に入って周囲を見回し、視線が一点に止まった。此れって何時頃から置かれていた? と、今まで気にもせずにいた。想い返してみたが、自分で買った覚えがないので、養母タネが置いてくれたのだろう・・・と勝手に納得して置台の前にしゃがみこんだ。高さは60cm位の上下二段の引き出しが付いた木目の家具調の台である。

下段の引き出しを開けると以前まで使っていた最小コンパクトな

デジタルカメラと、保護材に包まれた一眼レフカメラと乾燥材が入れられていた。

ここ1年以上、薫はカメラを使う・・・写真を撮ろうとか、カメラを持って出かけるなど言う事をして居らず、その存在なども頭の中から消えていたのである。

(養母さんが片付けてくれていたのか・・・)

そう想いながら引き出しを閉じて、上段の分割された2連の右側を引き出した。中には乾燥剤が以外は入っていなかった。続いて左側の引き出しを引き開けると中には覚えのない紫の布に包まれる物が入っていた。

うん?何だろね、これ? 一人呟いて両手で取り出すと台の上に置いて布を広げると、布の中から藍色の1辺が10cm程度の小さな紙箱が現われた。その箱の下には白色の折られた紙が敷かれる様にあり、それが気になって箱を開けずに4枚重ねで

折られた紙を手にすると、そっと優しく静かに開く。

白紙は便箋で黒色のペン書きの小さな文字で、筆跡を見てすぐに懐かしい養母タネの字だと分かった。

養母さん! 薫の瞼に熱いものが込み上げ、すぅ~ と銀色の涙が瞼を越えて頬に

流れ出してきた。

          

緊張も興奮も昂揚感も無く、視界が揺らぎ黒い文字が浮かぶ

様に見えた。

『 薫、元気でしょうか。この手紙を読む頃には、私は傍には居ないでしょう。言わないで居ましたが、私は自分の死期を悟って居ました。我儘ですが、何時までもあなたの心の片隅に居させて下さい。あなたに感謝とお詫びの想いを伝えて

おきたくて手紙を書きました。薫と出逢って一緒に暮らし始め、

最初はぎすぎすとした日日々でしたね。でも、月日が経つに

つれて薫は我儘を言う様になり、私も同じ我儘な応対し合って、

薫は白い歯を見せながら優しい表情を私に向けてくれる様になりましたね。その時はとっても嬉しかった。高橋さんの処で働き始め、食事や洗濯などの息子の世話をすると言う、母親としての喜びを与えてくれた。そして、門脇なつみちゃんと言う可愛い恋人を

紹介された時、成長したあなたの事が母として心の底から嬉しかったですよ。本当に有難う感謝しています。

薫、母さんの頼みを聞いてください。手紙に添えてある、紙箱に入っている物は本保の家に昔から伝わる御守りの様なものです。それを、ある人に渡してほしい。

その人は門脇なつみさん。嘘だと想うかもしれませんが、私は

なつみちゃんが薫のお嫁さんになる光景を何度も見ていて、

母さんは確信をしています。それは薫の宿命だと想いますよ。

薫、なつみちゃんに結婚を申し込んで、お受けしますと、返事を

頂いたなら渡してください。でも、あなた達が結婚を決めているのなら、申し込む前でも構わないです。

見れば分かるでしょう、此れは本保の家に代々伝わる翡翠です。翡翠を指輪と首飾りに作ってあります。鎖は私に母の形見です。薫、必ずあなたの手で、なつみちゃんの指に嵌めてあげて

くださいね。薫自身が嵌める事で、翡翠に秘める力で二人を

守ってくれるはず。薫、なつみちゃんと何時までも幸せにね、義母さんは願っています。薫と暮らして十数年の間、私はあなたに対して何もしてあげなかった。それは謝っても謝り切れない、許されない罪な事です。私には、あなたとの暮らしが親と子と言う生活感に

溢れて充実した日々を噛み締めていたのです。これを 失いたくない と身勝手な想いで、薫を病院へ連れて行く事、警察へ捜索願の有無や、身元調査をする事を今日まで避けて来ていました。私は、あなたの進むべき道を閉ざしてしまい、あなたの

人生を奪った大罪を犯していたのです。これは謝っても許されない事。あなたが過去の記憶を取り戻した時、どちらかの人生を選択する場面に立つでしょう。その時のあなたに

押し寄せる苦痛、葛藤を想像するだけで私の心は疼きます。何時の日か、あなたは私が隠していた事、私があなたに施した事も知るでしょう。それは取り返しが尽きません。薫、本当に、本当に、御免なさい、許してください。万が一、許されて一つだけ願が叶うの

なら、もう少し生かしてもらって、あなたとなつみちゃんの赤ちゃんをこの手で抱きたかった。

そして最後に、此れだけは絶対に護ってください。必ず指輪をあなたの手でなつみちゃんの指に嵌めてください、二人の身を必ず護ってくれるはずです。あなた達の結び付きは運命ではなく、誰も変える事の出来ない、この世に生を受ける前から決まっていたものでしょう。薫、最期の私に母としての人生、母の喜びを与えてくれて有難う。 』

惜別たる養母本保タネの想いが滲み、絶妙な語りの手紙に目を通して薫は目を伏せる。

 

養母と暮らした日々のさまざまな光景が脳裏に蘇り、記憶をたぐり寄せても、その日々が返らない事と・・・もの哀しい眼差しで虚空を見る。

「俺は恨んだりはしない・・・」

と薫は想いを至らせて心の中で叫んだ。

(養母さん、俺は何一つ、不満などはないよ!)

下唇を噛み締め、伝え切れない言葉を捜した。

「俺は周りの人達に助けられて・・・こうして生きているんだよ!」

頬を膨らまして、溜息と一緒に小さく言葉を洩らしながら、白い便箋を畳んで紙箱を開く。すると箱の中には、鮮やかな色の指輪が 本保の硬玉の翡翠・・・と書かれた紙と共に入れられてあった。

(御守り・・・)

翡翠の色、エメラルドグリーンの輝きに吸い込まれる様に見入いろうとした時、突然・・・ ピィンポォ~ン!ピィンポォ~ン! と来訪を告げる玄関チャイムの音が高鳴って無防備な薫に刺激を与えて現実に引き戻された。