竜之介の妄想野球論

竜之介の妄想野球論

プロ野球(特にドラゴンズ)についての妄想に基づいた野球論を語る事を目的にしてます

Amebaでブログを始めよう!
目前だった昨日のゲーム

菊池も成長しましたね。期待されまくっただけにね、つっても一昨年からの2年間で通算8勝してたんやね。知らなかった

ただ、この快投を消しかねない出来事が試合中にありましたね

そうです。NPBコミッショナー事務局の会見です

前日のプロ野球選手会の折衝で嶋会長(楽天)との折衝で判明した事実ですけど

その場での下田事務局長は加藤良三コミッショナーと決めた事と話していましたが

当日になって加藤コミッショナーは関係無いと言い放つ始末

トカゲの尻尾切りにも近いこのやり方に批判はありますよな

ただ、はたらく魔王さま!(電撃文庫)の魔王サタンもこう言ってました

「下のもんの失態は上のもんの責任だ」と

ただ、真奥貞夫と加藤良三では人間としての器に差があり過ぎますな

辞めてくれ加藤良三

菊池快投と加藤良三

6月12日は良くも悪くも野球ファンの心に残りそうですな

(完)
2005年、高校一年の頃だったか

セ・リーグはドラゴンズと阪神のデットヒートながら、阪神がやや優勢だった頃

パ・リーグではロッテが謎の強さを発揮していた。まだこの頃は野球の歴史とか全然調べてなかったし、ドラゴンズの歴史も多少齧ったくらいだから、パ・リーグの球団の歴史とか全然知らなかった

それでも99年から野球は観ていたから、日本シリーズの結果くらいはチェックしていた程度だったりするんだけど

それでも、ドラゴンズ以外のチームでも何となくセ・リーグのチームを応援していたりする

ただ、05年は事情が変わったのかな

すぽるとを何気なく見てたら4番サブローというのに驚いた

交流戦でのロッテ戦でレフトへのスリーベースを打ったバッターだというのは記憶していたけど

何となく4番を打つようなバッターでは無いかなと言う認識であった

オレがこの年、ロッテに惚れこんだ最大の理由はサブローが理由だったのかもしれない

レギュラーシーズンが終了し、セ・リーグは阪神がドラゴンズとのデットヒートを抜け出して優勝

パ・リーグはホークスが猛追するロッテを振り切って、1位通過。ロッテも10年ぶりのAクラス、続いて西武

プレーオフ第一ステージはロッテが快勝、第二ステージもロッテが先に王手を掛けるも、小林雅(現オリックス二軍コーチ)を攻め立て逆王手

しかし、ロッテは最終第5戦でこの年限りの引退が決まっている初芝の内野安打から一気に勝ち越して、そのまま31年ぶりのリーグ優勝を決めた

日本シリーズも勢いそのままで4連勝で日本一を決めたのだが、8月13日からレギュラーシーズン最終戦を除く全ての試合でサブローは4番に座り続けた

「つなぎの4番」という新しい表現をされたサブローだったが、翌年以降は07年と10年に目立った活躍をしたといえばしたのかな

07年はチームの2年ぶりの2位に貢献、10年は言うまでもなく史上最高の下克上に貢献

07年はホークスとのクライマックスシリーズ第3戦でスタンドリッジ(現阪神・スタンリッジ)から走者一掃のタイムリースリーベース

10年は3位通過が掛かった残り3戦から全試合4番に座り、レギュラーシーズン、クライマックスシリーズ、日本シリーズと印象的な活躍

特に日本シリーズはドラゴンズキラーぷりを如何なく発揮、第3戦に初打点を挙げると、第5戦から3戦連続で打点を挙げる活躍。第5戦はホームラン、第6戦は先制点と浅尾から放った同点タイムリー、第7戦も先制打とドラゴンズキラーの名を欲しいままにして、打率.300・1HR・6打点の成績を残すも、MVPは4割バッターの今江、優秀選手賞も3ホールドの内、ルーキーのタイ記録を樹立した2番打者清田、同じくルーキーで印象に残る活躍をしたドラゴンズの大島に譲った

翌年も打線の核として期待されたが、ケガやフロントとの対立もあり6月末に巨人へトレード、オレはその時ロッテは再び歴史を繰り返すと予感して、その通りになった。それについては後日語るとしよう

11年オフにロッテへFA移籍で戻ってきたサブローは期待通りの活躍とまではいかなかったが、ベテランらしいプレーを今も見せている

そして、私は今年、サブローの05~07年ユニをとある手段で手に入れている

(完)
2007年11月1日、日本シリーズ第5戦

ドラゴンズとファイターズの2年連続による日本シリーズはその前の92~93年の西武-ヤクルトと同じように前年敗れたドラゴンズがリベンジを果たす形で53年ぶりの日本一、更に山井-岩瀬による日本プロ野球初となるポストシーズンゲームでの継投による完全試合(参考記録)という最高の勝ち方を収めた

この日ファイターズは第1戦以来、中4日で「エース」のダルビッシュを先発に立て、対するドラゴンズはポストシーズンの登板が無かった山井が9月30日以来、中31日を空けての登板

試合はエースダルビッシュの主導権で進むと思われた矢先の2回、ウッズ・中村紀の連打で作ったチャンスから平田の犠牲フライを山井が守りきる予想外の展開

王手を掛けられた形のファイターズとしては決して落とせない1戦でもあったが、この時のファイターズの空気は決して良いとは言えなかった。監督を勤めていたトレイ・ヒルマンがこのシーズンをもって退団する事が決まっていたからなのだが、退任理由がロイヤルズの監督になる事とあって、選手達から半ば白けた空気になっていたという

そんな中で行なわれたシリーズは前年のシリーズでいいようにされたドラゴンズがクライマックスシリーズを5連勝した勢いそのままに投打ともにファイターズを圧倒、第1戦こそ敗れはしたものの、8回を投げきったエース川上の力投もあり、次戦以降はドラゴンズの打線がファイターズ投手陣を打ち込んだ

この年のファイターズのシリーズ先発投手は第1・5戦がエースダルビッシュ、第2戦がライアン・グリン、第3戦が左のエース武田勝、第4戦が高卒ルーキーながら4勝の吉川であった

相手側の落合監督は第6戦以降の開催があれば危なかったと後に語っているが、これは自分もそう思っていた。おそらく第6戦以降のどちらかで金村が出てくるのでは無いかと考えていたからだ

今回のテーマ、実はこの金村である

金村暁、94年にファイターズからドラフト指名を受け入団、入団後3年間はこれといった成績は残せていなかったが、4年目の98年に最優秀防御率のタイトルを獲得

その後3年間はケガに苦しむ事があったものの、02年から4年連続で2ケタ勝利を記録、ファイターズのエースの名を欲しいものにする

そんな金村に悲劇が起きたのは06年の事である。この年も開幕投手を務めた金村だが、登板4試合目の4月16日の福岡ソフトバンクホークス戦、フリオ・ズレータに与えた死球により、ズレータから暴行を受けてしまった。この試合こそ6回無失点で勝利投手(2勝目)を挙げたものの、1ヶ月の離脱を強いられてる状態になってしまう。交流戦突入前の楽天戦で復帰を果たすも、この登板時の影響もあってか、9勝6敗、防御率4.48の成績に終わり、5年連続の2ケタ勝利を達成する事は出来なかったというのはよくある話

最後の登板となった9月24日のロッテ戦、先発だった金村は立ち上がりから投球が安定せず、5回裏の2死満塁という所で交代を命じられてしまう。ファイターズはこの試合の次はホークスとの2連戦という事もあり、先発ローテの金村に登板機会が与えられる事は無い。金村にしてみれば、5年連続の2ケタ勝利と6年連続の規定投球回へのラストチャンス。試合後金村は激昂した。ただの激昂で収まれば良かったのだが、監督批判という最悪の失態を犯してしまったのだ。

当然、金村には球団からは、「登録抹消」「チーム練習参加の禁止」「罰金200万円」「プレーオフ終了までの出場停止」の処分が言い渡された。プレーオフ終了までという事はヘタすれば金村のシーズン中の登板機会が無くなるも同然であったが、その後のヒルマン監督の寛大なる措置もあり、金村は日本シリーズ第4戦に登板、この一件でエースの座を事実上ダルビッシュに譲ってしまった金村であったが、力投を見せ、勝利投手と日本一に王手を掛けたのであった。

しかし、翌年は開幕から調子が上がらず5勝6敗、防御率4.73の大不振に終わり、クライマックスシリーズ、日本シリーズの登板機会も無かった

とは言え、この年の日本シリーズの投手陣を考えれば、第6戦以降の登板機会が無いわけでは無かった。この年、交流戦でのドラゴンズ戦の登板が無かったのと、前年の日本シリーズで押さえ込んでる事を考えれば、第6戦を中6日でグリンで回し、勝利して迎える第7戦の先発の可能性もあったという事である

ただあくまで仮説と推測にしかならないのだが

その後金村は阪神、独立リーグの信濃グランセローズと渡り歩いて、2011年に引退した。

(完)
落合はドラゴンズの監督時代、選手・コーチらの編成権にも介入できる「全権監督」として契約を交わした。これは同時期にロッテで監督を務めたボビー・バレンタイン監督も結んでいた事で知られている

日本球界において、全権監督というのは非常に珍しいスタイルであり、トレードなどに関しても現場の「希望」に沿った選手をフロントが獲得するというのがそれまでのスタイルであった

落合はどちらかと言えば、トレードやFAでの選手獲得は控えていたように思える。ドラフトやシーズンオフのトライアウトで選手を獲得する事の方を重要視していたように思える

それと同じように落合はコーチ人事も大事にしていた

そして、コーチ人事から落合のやりたかった野球というものが見えてくるように思える

04年~06年(念のため03年)のコーチを見比べてみよう(ドラおた様参照)

04年コーチ
森繁和、佐藤道郎(二軍監督)、鈴木孝政、高橋三千丈、近藤真市、長谷部裕、金田進、高代延博、山田和利、音重鎮、宇野勝、石嶺和彦、川又米利、長嶋清幸、仁村徹、仁村薫、早川和夫、勝崎耕世、三木安司、塚本洋、宮前岳巳

05年~06年コーチ
森繁和、佐藤道郎(二軍監督)、小林聖始、高橋三千丈、近藤真市、長谷部裕、秦真司、古久保健二、高代延博、高柳秀樹、音重鎮、宇野勝、石嶺和彦、原伸次、長嶋清幸、風岡尚幸、仁村薫、早川和夫、勝崎耕世、三木安司、塚本洋、宮前岳巳、山崎章弘

03年コーチ(山田久志監督)
佐々木恭介、二宮至、高橋三千丈、近藤真市、芹澤裕二、川又米利、仁村徹、音重鎮、三木安司、大橋譲(二軍監督、以下二軍コーチ)、河村健一郎、都裕次郎、鹿島忠、加藤安雄、金田進、山田和利、豊田誠佑、早川和夫、塚本洋

03年20人→04年22人→05年24人とコーチを年々増やしている事が目に見えてわかる

また、毎年のようにコーチが変わっている事も目に見える。これは落合が適材適所で起用していく為に外部招聘を行なっていたという事が理解出来る。03年も外様で元阪急の山田久志だったからこそ、阪急OBの大橋や河村といったコーチが居るのも頷けるが、落合時代になってからは元居た阪急だけではなく、落合がロッテ時代から辛酸を舐めた西武、また解説者時代から度々話題にしてきた広島OBらの人材も見え隠れする。

06年は05年のコーチ陣のまま、変更はない。おそらくキャンプの日程(05年は優勝へ褒美の意味も込めて4勤1休だった)のみが悪かったのだと推測したのであろう

07年以降からその顔ぶれは毎年のようにガラッと変わった

07年コーチ
森繁和、辻発彦(二軍監督)、高代延博、高橋三千丈、小林聖始、近藤真市、田村藤夫、古久保健二、長谷部裕、高柳秀樹、宇野勝、石嶺和彦、風岡尚幸、川相昌弘、奈良原浩、音重鎮、仁村薫、早川和夫、勝崎耕世、三木安司、塚本洋、宮前岳巳

辻発彦を二軍監督に招聘、06年限りで現役を引退した川相を一軍、奈良原を二軍の内野守備コーチに配置し、更なる内野守備の強化に努めた。また、日本ハムで一時代を築いた田村藤夫を招聘、前任の秦は主に谷繁のケアという立場を任されていた事から田村による更なるポスト谷繁育成への期待感も見て取れた。

08年コーチ
森繁和、辻発彦(二軍監督)、高代延博、高橋三千丈、小林聖始、近藤真市、田村藤夫、古久保健二、長谷部裕、高柳秀樹、宇野勝、石嶺和彦、風岡尚幸、川相昌弘、奈良原浩、音重鎮、笘篠誠治、早川和夫、勝崎耕世、三木安司、塚本洋、宮前岳巳、住田ワタリ、立浪和義(選手兼任打撃コーチ)

西武を退団した笘篠誠治を高代に代わる三塁コーチャーとして、また代打での出番が増えた立浪を選手兼任の打撃コーチとしてコーチ陣に加えてる。1軍打撃コーチはこの年のみ3人だった。また元ラグビー選手でアメリカでスポーツ医学を学び、ドミニカのウィンターリーグのトレーニングコーチを務めていた異色の経歴を持つ住田ワタリが仁村薫の後任として入団している。

09年コーチ
森繁和、辻発彦(二軍監督)、稲葉光雄、小林聖始、近藤真市、高木宣宏、田村藤夫、中村武志、長谷部裕、高柳秀樹、石嶺和彦、風岡尚幸、川相昌弘、奈良原浩、渡邊博幸、上田佳範、笘篠誠治、早川和夫、勝崎耕世、三木安司、塚本洋、宮前岳巳、住田ワタリ、立浪和義(選手兼任打撃コーチ)

07年で現役を引退し裏方に回っていた渡邊博幸が内野守備コーチに、08年限りで現役を引退した上田が外野守備コーチに転身、稲葉光雄が日ハムのコーチ時代となる01年以来、同じく01年限りでドラゴンズを退団した中村武志の2人が8年ぶりにドラゴンズにコーチとして復帰、また森繁和の要請で会社員を務めていた高木宣宏が16年ぶりに球界復帰、新任のコーチ5人はいずれも二軍を任され、ファームの優勝・日本一に貢献している。

10年コーチ
森繁和、川相昌弘(二軍監督)、辻発彦、稲葉光雄、小林聖始、近藤真市、高木宣宏、田村藤夫、中村武志、長谷部裕、井上一樹、高柳秀樹、石嶺和彦、風岡尚幸、奈良原浩、渡邊博幸、上田佳範、笘篠誠治、早川和夫、垣内哲也、勝崎耕世、三木安司、塚本洋、宮前岳巳、住田ワタリ

09年限りで引退した井上一樹が打撃コーチに、06年にロッテで現役を終えた垣内哲也が打撃・外野守備走塁コーチに就任、また川相昌弘が前年までの二軍監督であった辻発彦と入れ替えで二軍監督に就任した。辻は一軍の総合コーチ、森繁和はヘッドコーチになっている。

11年コーチ
森繁和、井上一樹(二軍監督)、辻発彦、稲葉光雄、小林聖始、近藤真市、高木宣宏、田村藤夫、中村武志、長谷部裕、高柳秀樹、石嶺和彦、奈良原浩、渡邊博幸、上田佳範、笘篠誠治、早川和夫、垣内哲也、勝崎耕世、三木安司、塚本洋、宮前岳巳、住田ワタリ

川相二軍監督、風岡コーチがそれぞれ退団、川相の後任には前年1軍の打撃コーチだった井上一樹が就任、落合は川相と井上の2人を事実上の後継者として見ていた事が解る。

落合の目指した野球はある意味で言えば、「黄金期」の西武野球だったのかもしれない。80~90年代の西武で活躍した森繁和、辻発彦らをコーチとして迎え入れている辺りがよく見て取れる。その分、ドラゴンズOBからの起用が減ったように見えるがそうでもない。稲葉光雄や中村武志といった往年の名選手を招聘しているのだから、この辺の批判というのは実は的外れだったとも言える。11年で落合が退任したのを受け、約半分のコーチも退団したが、この優秀なコーチ陣に支えられたドラゴンズが強かったのは事実であって、今もなお残っているコーチはそのイズムを忘れる事なく今日もなお指導に当たっている(と信じたい)

(完)
落合は監督就任後、それまでのプロ野球界における春季キャンプの常識を打ち破った

「2月1日、キャンプ初日に紅白戦を行なう」

それまでの春季キャンプといえば、自主トレで動かしていた体を徐々に慣らしていく

中盤・終盤辺りから本格的に試合をしていくというのが定説

この試みにはドラゴンズOBを中心として否定的な意見が集まった

「いきなり体を動かして、選手を壊す気か」

ただ、この発言の裏にあるメッセージを選手達は聞き逃してなかった

おそらくこの発言をそのまま受け取ってしまっている選手は居なかった筈だ

今まで通りの自主トレをしてからの紅白戦だと故障してしまうだろうという見方が殆どだった筈

その「固定観念」から脱却させる事が落合の狙いだったのでは無いかと思っている

落合曰く、それまでのドラゴンズは練習しなさすぎだったと後に話している事から解るように強い契約通りにドラゴンズを勝たせるチームを作るには徹底した練習が必要だと考えていた

それは落合の現役時代からも理解出来る事である

落合にはまず「オレ流」という選手時代から自由な調整、練習法をしてきたとされる風潮があり、それで結果を残してきた

しかし、マスコミには何も語らない事から、それでは仕事にならないと腹を立てた新聞記者によって好き放題に書かれ、落合自身の性格も「一匹狼」だ「ファン無視」だの捉えられてきたとされている

しかし、実際は背中で語るタイプだったとされ、星野監督は「優しい男」、かつては4・5番コンビとして優勝に貢献し打撃コーチでタッグを組んだ宇野勝(現ドラゴンズ2軍コーチ)も「落合さんが居たからこそチームバッティングを理解出来た」と語っている

他にも中村紀洋など、落合の打撃センスに惚れこんだスラッガーと呼ばれるバッターは多い

そんな練習の虫である落合を語る上で欠かせないのは、86年まで監督と4番打者という師弟関係にあった故・稲尾和久氏との数々のエピソードであろう

打撃練習の最中、指がバットから離れなくなった落合に手を差し伸べ、バットから指を離したエピソードや、稲尾自身もそんな落合に対し、不振であって4番で使い続けるという心意気に似たものがあった

話は逸れてしまったが、落合のこのキャンプのやり方は成功であったのは言うまでもない

選手も何より監督業を初めて務める落合にしてみれば初となるやり方

けが人も沢山出たが、選手自身、キャンプでケガする事により、後のケガ防止に対するヒントを得たと考えている

勝つために大事な事を落合はやっているにしか過ぎない

04年のシーズンは開幕してから苦境の戦いが続いた

だが、エース川上の奮闘からチームの快進撃が始まったのだ

04年6月、札幌ドームの巨人3連戦をスイープすると、そこから首位を独走し続けゴールテープを切った

惜しくも西武との日本シリーズでは50年ぶりの日本一こそならなかったものの、このオフ、落合が目指していた野球が少しずつ見えてきたように思える

ただ、ファンがその事に気付くのには時間が掛かりすぎた

次回はそんな落合の目指した野球について語ろうと思います

(続)