余土村郷土館を偲ぶ
郷土愛、第十代余土村長、初代郷土館長、雅号光風文化的で進歩的な村民の郷土愛と和の結晶とも言うべき文化財郷土館が遠大な理想と精魂こめて造られた。その創立者の意志を無視し文化財保護の心なき一部の人々によって取り壊されてしまったことは誠に残念である。 旧郷土館、高松宮様、余土村お迎えする。1954,7,13 S,29撮影:林住夫それで私は小春日の一日創立者の本田元余土村長を訪ね、郷土館創設の由来や目的、その郷土館にまつわる諸々の事を記事にしたいと氏に寄稿を頼んだのであるが、今更死児の年を数えるようなことはしたくないと言って辞退された。そこで郷土館の創立者本田九郎氏の人間像、趣味と生活のあらましを見てみよう。 氏は元余土村助役在任中五十才で亡くなった道太郎氏嫡子として明治37年4月1日柳井田に生まれ、旧郷土館にて・・・・・余土小、県立松山中学校を経て松山高等商業(現松山大学)第一期卒業愛媛銀行に就職後、昭和13年35才で余土村長に推され戦時中二期8年間在職、公職追放となって農業に従事、追放解除後は県社会保険診療報酬支払基金に奉職、定年六十にして退職、爾来悠々自適、優雅で多趣味な生活を送ってこられた。 お訪ねして玄関に入ると正面に不折の「立徳存至公」と書かれた扁額があり、中の間には米山の 「知美」とある額がひそかにかかり、客間には能成 「整而暇」の扁額が恰も氏の生活振りを示すかように、氏の先代への為書で犬養木堂の「山光澄我心」と古色をおびかけた額がかかり、床の間には水原秋桜子の「水仙に来る客ありて茶の煙」の軸がかかり、客を迎える主の心情が覗われ、氏の為人も偲ばれるばかりである。水仙と言えば氏のお好きな花と見え、裏庭には水仙が群生し、今を盛りと咲き乱れている。表庭の露地門をくぐって、飛石伝いに内庭へ這入ると、つくばいがあり、向うに冬枯の広庭が静かに息づいている。座敷の違棚の下には柴檀茶棚があって、茶の湯を楽しんでおられる。 客間や書斎、応接室の調度から見て書画、骨董に深い趣味の或ることが覗われる。更に壁間の雲板には為山の風竹の扇面が入れてあり、棚下の朱丹の小文机には虚子、碧梧桐を始め霽月、極堂から近くは草田男、波郷等の郷土の俳人はもとより数多くの収めた短冊帳が置かれ、書院には草田男の代表作「振る雪や明治は遠くなりにけり」の名句の色紙を入れた硯屏がおかれ、古き時代の明治を偲ばせている。氏は曽て光風と号して句に親しまれていた。郷土にちなんだ句を所望したところ、抽いですがと言って次のような句をあげて寸言を添えられた。 あらぬ方に鳰浮き出でし渡舟かな、このような風景は今は見る由もない出合の川となった。 春の水泡生まれてゆれのぼる、このような風物も今はどこにも見当たらない。 土筆摘み勅使の橋のあたりまで菅原道真の悲しい伝説の橋もやがてなくなるかもしれない。 新開の街迫り来る畑を打つ、曽て天下の模範農村として誇った村も今や市街化の一途辿るのみである。 氏は観世流の謡曲、囲碁もたのしまれ、庭木、果樹、園芸から読書、一と頃は釣、写真、小鳥等にも親しまれると言った。旧郷土館にて・・・・ 氏は自らを褒めるかのように淡々として云うには、地方、農村にも文化の保護、開発と多くの目的をもった郷土博物館図書館、美術、娯楽場、会館等の総合文化施設の草創けとして創立した郷土館が恰池中に投げた一石の如く千波万波を呼び相次いで、所々方々に郷土館が生まれ、名も公民館として今では全国自治体になくてはならぬ機関となり、全国的な公民館活動の源泉となったことを思えば心暖まる思いがする。郷土館建設当時は時局柄諸事困難な折りにもかかわらず建設計画から実現までの間に寄せられた村内は固より県関係機関、郷土出身者の方々からのご支援とご協力を戴いたことである。戦時下にあった当時の国民感情からすれば、自治細胞活動を掌る立場にある者が時代に逆行するかに見える文化活動に没頭するとは、何事かと非難を浴びても巳むを得なかったであろうに、その実に軍国主義よりは平和な文化国家を心に密かに望んでいる人の多かったことは郷土館創立の意義、目的を述べた基金募集の趣意書に対する反響の大きく共鳴の声の高かったことからも明らかであって、私は之に力を得、意を強うして内心期するところがあった。私は当時大政翼賛会愛媛県協会議員として文化委員に挙げられたのを幸いに、ここを郷土館建設の全国普及宣伝の場にとばかり機会ある毎に之を提唱した。落葉、暖流等の名作で知られる当時翼賛会の本部の文化部長であった岸田国士氏を迎え高松で四国文化委員会が開かれたことがあった。その時本件支部から出席した。堀本、藤谷、両部長や鮒田、篠永委員等と共に私も出席し同僚からは激励されたり、又おさらいですかとひやかされたりしながら全国の自治体に郷土館の建設普及を勧奬したこともあった。幸か不幸か敗戦後の文化国家建設の波に乗って文化活動の中心機関が全国津々浦々にまで実現を見るに至ったことは誠に感無量である。役場吏委員もきゅじつを利用して郷土館建設資金の募集に遠く県外まで出てもらった。私も亦休み密かに自費で九州方面へ寄付勧誘に出向いた確か山下汽船の系列で若松炭鉱を経営してた郷土の出身の旧友天羽薫氏を訪ねた。彼らは陰に陽に支援と協力をしてくれた。郷土館建設にまつわる秘話は数多く、全村挙って勤労奉仕、部落交代で建設敷地の盛上整地に連日汗を流して下さったことである。村校医の千賀先生が地下足袋でトロッコの土運びに積出しておられたようすは今尚眼の前に彷彿として浮かんでくる。このような郷土の古く良き風土と伝統に培われた美風も今や地に堕ちた感じがして心淋しい。