好き嫌いを 正義と常識で語りたくなったら | 夢が実現するしくみがわかれば、私たちはもっと自由になる  君塚由佳

夢が実現するしくみがわかれば、私たちはもっと自由になる  君塚由佳

お金のこと 仕事のこと 暮らしのこと
豊かに幸せに 最高の人生を創りましょ

たまたま外出した先で 何度か出くわす人がいた。
席の関係で同じテーブルで食事をしたこともある。

でも、名刺の交換もしたことないし、まともに会話したのは数えるていどの間柄の人でした。

私は特に印象のあるお相手ではなかったのだけども。




ところがその方からメールが来て 

出版することになったから、読んで感想をSNSに投稿・拡散して欲しいという。
ある程度アクセス数のあるブログを運営している人にだけ声をかけてあるので、本をタダで贈ることは他言無用であり、
つきましては著書を送るので 至急住所を知らせたし、とのこと。




は?

そもそもメールアドレスは どこから調べたのかしら?

っていうか本いらないし。読まないし。ましてや感想書いて 拡散しないし。

アクセスのあるブロガーだけに的を絞ってこんなお願いをするのも、戦略としては賢いかもしれないけど 「利用してやる」感が  あからさますぎて気分は良くない。


いったい、どういう神経してるんだろ。
人として ありえなくないか?


他にメールもらっていそうな人に連絡取った方がいいかしら?
こういう無神経なことを平気でする人に抗議するなら、私と同じような意見の人を何人か集めて、みんなで抗議しないと通じないかもね。





ということが去年あったのだけど。





自分の好き嫌いがいつの間にかすり替わって
正義で語ってしまっていることに気がついたら、
とにかくいったん口と眼を閉じた方がいい。




きっと大きく間違うことにつながるから。






偏見は必ず正義の鎧をまとっていて

美しく輝く鎧をかぶせて、人は自分自身に自分の偏見を許すのです。

許した偏見には 武器を持たせます。

私の偏見を許さない者こそは不正義、非常識…つまり悪である。



悪は打ち負かすべきである。



鎧と武器を持った偏見に最初に支配されるのは、自分自身の良心です。



ただ、
「私は嫌い」
「私はイヤ」
そこで止められるか。


それは 自分の良心を守り抜くという
「自分を大切にする」行為そのもの。





で、けっきょくこの方に対して
どんなことをしたかというとね…

何もしなかった。
(メールには返信もしなかったし、そのまま削除)

嫌い。

そこで「どうして嫌いかって言うとね…」を始めると 私が偏見の鎧を身につけ始めてしまうので、

ただ、嫌い。
だから スルー。


で終わらせました。



好きなもの、好きな人、好きな場所は たくさんある。

嫌いなものに関わってるヒマなんてないのだ。