夢が叶う時間術と習慣化  君塚由佳

夢が叶う時間術と習慣化  君塚由佳

お金のこと 仕事のこと 暮らしのこと
豊かに幸せに 最高の人生を創りましょ

地縛霊になってるキモチの画像
 

昨年末、家を建てました。


お正月が過ぎた頃、気づいたんです。
私はずっと、待機していたんだな、と。

「誰かに 何があってもだいじょうぶ!」なように。
 

息子たちはとっくに成人して、姑を見送ったのは震災の前。
 緊急事態は10年以上前に終わっていたのに。

産んだ以上は守らねば。 選ばれた以上は応えねば。


もう誰も言っていないのに、そう私が私に言い続けていました。

家を建てる打ち合わせで、当たり前にそれぞれのプライベートスペースを設計して、
私はうろたえてしまったのです。


しがみついていたのは、私だけでした。

でも、気づいたとき——痛くも寂しくもなく、どうしようもなく解放されたんです。

いまは責任でも義務でもなく、一緒にいたいから一緒に暮らしています。

こんなに身軽なことがあるでしょうか。

 

こういうものを、私は「未処理データ」と呼んでいます。

自分では見えません。 私だって、10年以上見えなかった。
 30年この仕事をしていても、です。


続きは、noteに書きました。

 

 

この夏だけ、潜在意識の未処理データをクリアリングするサブリミナル・レポートを開きます。
定員15名/締切8月6日(土用明け)

 

 

夕焼けと紅茶を楽しむ女性

ご存じの方も多いと思うけれど

私の心の中には、ひとり、審査員が住んでいるのです。
 

それも、めちゃくちゃ厳しいやつです。

どのくらい厳しいかというと、目の前にやってきた幸せを、片っ端から審査落ちにするレベル。

たとえば、です。
 

朝、淹れたお茶が、やたら美味しい。
「あ、しあわせ」
そう思った瞬間、心の奥から、その審査員が出てきます。

「お待ちください。それ、本当に幸せですか?」

メガネをくいっと上げて、こう言うんです。

「お茶が美味しい程度で、幸せと申請されても困りますねェ。
もっと・・・・こう、大きな手柄はないんですか。昇進とか、結婚とか、表彰とか」


そうやって、せっかく応募してきた小さな幸せは、門前払いされていきます。

夕焼けがきれいだった日も。
道ばたの花が、かわいかった日も。
ぜんぶ、ぜんぶ、書類審査で弾かれていく。

「不採用」
「不採用」
「該当者なし」

審査員のハンコが、ぽん、ぽん、と押されていく音だけが、
心の中に響いています。


ところが、です。

この塩対応の審査員が、ごくたま〜に、人格が変わる瞬間があります。

「昇進しました」みたいな、ごりっぱな幸せが申請されたとき。

突然、立ち上がって、こう叫ぶんです。

「エクセレーーーンツ!!
これこそがあなたの"本当の人生"です!!!」
 

……いや、声。

合格のときだけ、なんで、そんなにテンション高いの。

ふだんあんなに偉そうなのに、ごりっぱな幸せの前だけ、急にはしゃぐ。

——この審査員、ちょっと、苦手なタイプかもしれません。

でも、よく考えたら。

これ、私自身のことなんですよね。

 

 

私たちは、いつから、こんなに審査が厳しくなったんでしょうね。

子どもの頃は、こうじゃなかったはずなんです。

水たまりを見つけただけで、世界一の幸せみたいな顔をして、バシャバシャ入っていったでしょう。

1本30円のチューチューアイスがもらえただけで、跳びはねて喜んだでしょう。
 

あの頃の私たちは、幸せの審査基準が、ゆるゆるだったんです。

それが、いつのまにか。

「自慢できる誇れる幸せ」じゃないと、認めなくなった。

成功しなきゃ。
結婚しなきゃ。
誰かに認めてもらわなきゃ。

そういう、立派な肩書きのついた幸せだけを心の門の中に入れるようになった。
 

そして、立派じゃない幸せたちは、門の外でしょんぼり立ち尽くしている。

お茶が美味しい、という幸せ。
夕焼けがきれい、という幸せ。
今日も、ごはんが食べられた、という幸せ。

門前払いにされた、その小さな幸せたちの数を——

私は数えたくありません。

きっととんでもない数になっているから。

 

ここで、ちょっと、想像してみてほしいんです。

もしも、です。

もしも、あなたの人生の目的が、成功することじゃなかったら。

もしも、あなたの人生の目的が、結婚することじゃなかったら。

もしも、あなたの人生の目的が、誰かに認めてもらうことじゃなかったら。
 

——どうなるでしょうね?
 

たとえば、人生の目的が。

ただ、友達とげらげら笑うことだったとしたら。

ただ、雨の日に温かいスープをふうふう飲むことだったとしたら。

ただ、誰のためでもなく自分のためにお花を一輪買うことだったとしたら。
 

そうだったとしたら——

私たちは、もうとっくに人生の目的を果たしているんじゃなかろうか。

何百回も、何千回も。

 

 

私たちは、ずっと思い込んでいます。

人生には大きな大きな意味があって。

それは 何かをなしとげることなんだ、と。

立派なものを その手につかむことなんだ、と。

だから、急いで、走って、学んで、成長して、比べて、
息を切らして、まだ足りない、まだ足りないって、自分を追い立ててきました。
 

でも、ね。

ほんとうは この一瞬一瞬をただ味わうために。

この世界の美しさに、ただ「きれいだね」と、拍手を送るために。

——生きているのかもしれない。


お茶の湯気に、ほっとするために。
夕焼けの色に、息をのむために。
スープの温かさに、生き返るために。

それが 人生の"ほんとうの目的"だったとしたら。

私たちは何者にもなれていなくても。

たいした肩書きがなくても。

——ちゃんと人生を生きている。

胸を張ってそう言っていいのだと。

 

だから、今日。

私の心の審査員に、辞表を出してもらおうと思います。
 

長いあいだお疲れさまでした。

でも、もう、あなたの厳しい審査は、いりません。

これからは応募してきた幸せを、ぜんぶ採用することにします。

いえ、採用なんて、堅苦しい言い方はやめましょう。

これからは、こう叫ぶんです。
 

お茶が美味しい。エクセレーーーンツ!!

夕焼けがきれい。エクセレーーーンツ!!
 

そして——ここまで読んでくれた、あなたがいる。

これはもう、文句なしの、満場一致で。

エクセレーーーンツ!!
 

門の外で、しょんぼりしていた、小さな幸せたちよ。

おかえりなさい。ずっと、待たせて、ごめんね。
 

さあ——

カッモーーーン!

ジョイナアアアアーーース!!!
 

 

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怒れるBBAが世界を創る

”かなしみは、人間の根本的な感情である”

そう言ったのは、詩人・谷川俊太郎だったか。正確な言葉はうろ覚えである。冷蔵庫のプリンは忘れないのに、偉大な詩人の言葉は「なんかそんな感じ」で済ませる。人間とは、つくづく都合のいい生き物である(遠い目)。

でも私は、この感覚がとても好きだ。

悲しみは、弱さではない。悲しめるということは、何かを大切にしていたということだ。誰かを愛していた。信じていた。期待していた。わかってほしかった。だから悲しい。

つまり悲しみとは、心がまだ干物になっていない証拠である。ちゃんと水分がある。カラカラの高野豆腐ではない。水で戻せば、まだ味噌汁に入れる。

そして私は思うのです。怒りも同じだと。

人間、怒りがなくなったら終わりだ。怒りは、ただの乱暴な感情ではない。変革のエネルギーそのものだ。人間の創造力の根源だ。

「これはおかしい」
「こんな扱いをされる筋合いはない」
「この世界、ちょっと雑につくられすぎていないか」
「誰だ設計者、出てこい。菓子折り持って土下座しろ」

この腹の底から湧き上がる熱が、世界を少しずつ動かしてきたのだと思う。怒りがなければ、誰も声を上げない。何も変わらない。文章も、芸術も、革命も、たぶん生まれない。

怒りがなければ、私は今日もおとなしく洗濯物をたたみながら、「まあ人生こんなもんよね」と言っていた。

いや、洗濯物はたたむ。でも、心までたたまれてたまるか。

だいたい、仏像だって怒り散らしている。不動明王なんて、完全に「話を聞かんかい」の顔である。ありがたいけど、町内会にいたらちょっと怖い。

あの怒りは、人を壊すための怒りではなく、目を覚まさせるための怒りだ。ぬるい自己憐憫に浸かっている背中を、「そこ、温泉ちゃうぞ。沼やぞ!!」と引っぱり上げる怒りだ。

怒りは、魂の火災報知器である。うるさい。かなりうるさい。でも鳴らなかったら終わりだ。家が燃えているのに、「近所迷惑になるから静かに燃えましょう」なんて言っている場合ではない。逃げろ。絶叫しろ。水をぶちまけろ。なんなら裏のドブ水でいいから。

でも私たちは、この怒りをずいぶん長いあいだ封じ込めるように自分たちを訓練してきた。

相手だって悪気はないのだから許してあげなさい。わかってあげられて、仲直りできる人でいなさい。大多数に交わり、空気を読みなさい。我慢できることが大人になるということです。

怒る女は怖い。

怒る母はみっともない。

怒る妻は面倒くさい。

怒るおばさんは老害。

はい、出ました。便利な言葉、老害。この二文字の雑さよ。

もちろん、本当に迷惑な人はいる。「俺の若い頃はな」と始まった瞬間、こちらの寿命が三分ほど引きちぎれる人。そういう人は、そっと妖怪図鑑に載せておきたい。

でも最近は、ただ年上の人が意見を言っただけで「老害」と呼ばれることもある。否定の言葉や鋭い指摘はハラスメント認定もされやすい。

都合の悪いことを言われた。痛いところを突かれた。見ないふりをしていた矛盾を指摘された。そのときに「老害」とラベルを貼れば、相手の言葉を聞かなくて済む。

それ、本当に老害なのか。

ただ都合が悪いだけなのか。

都合のいい置物として黙らされるくらいなら、怒れる老害でいい。かわいげのある沈黙より、扱いにくい正直さのほうが、よほど人間らしい。

変に丸くなって、ニコニコ微笑むだけの「かわいいおばあちゃん的マスコットガール」になるくらいなら、私はもっと扱いにくいBBAでいたい。殺しても死なない老害と、後ろ指をさされる人でいたい。

もちろん、本当に殺してはいけない。比喩である。コンプライアンスという名の見張り番が、こちらをじっと見ている。

でも、そういうことなのだ。

簡単には黙らない。雑に分類させない。都合よく消費されない。

怒りは、自分の境界線が踏まれたときに出る反応だ。

「そこから先は入ってくるな」
「その扱いは嫌だ」
「私は物ではない」
「便利な人間として消費するな」

そういう、心の警備員である。

ただし、怒りの使い方はとっても大事。自分の不機嫌を相手にぶつけるだけなら、それは怒りではなく八つ当たりである。怒り界のパチモンである。

本物の怒りには、悲しみがある。宇宙創世のエネルギーの根源であり、仏教界のレジェンド大日如来が宿す『慈悲』というやつですわ。

わかってもらえなかった悲しみ。大切にされなかった悲しみ。信じたかったのに裏切られた悲しみ。何度も我慢して、それでも届かなかった悲しみ。

怒りは、その悲しみが立ち上がった姿なのだと思う。泣いていた自分が、ある日むくっと起き上がり、

「いや、待てよ。なんで泣いてるばっかりじゃ 何も変わらねエ!!」と言い出す。

これが怒りだ。

つまり怒りは、悲しみの第二形態である。悲しみが進化して怒りになる。そして最終進化で、創造になる。

テレレレッテレー。

あなたの悲しみは怒りに進化した。
あなたの怒りは慈悲によって言葉を覚えた。
あなたの言葉は誰かの心をぶん殴った。

おめでとう。

年齢を重ねると、人は丸くなると言う。たしかに、どうでもいいことに腹を立てなくなる部分はある。それは成熟だ。

でも、なんでもかんでも流せるようになることが成熟ではない。流してはいけないものまで流すようになったら、それはただの排水溝である。

「大人になって世間を知り、やさしくなった」なんて無気力のお上手ないいわけじゃないか。

「若い時みたいになんでも嚙みつく時期は終わった」なんて あきらめるのがうまくなっただけじゃん。

「貴重な体力と気力を重要なものに集中することにした」とは見上げた根性だ。逃げ足早くなったな。

もちろん、全部に噛みつけと言っているのではない。電柱にも、レジ袋にも、天気予報にも怒っていたら、こちらの命が先に削れる。

けれど「怒らない私」を美しい成熟として飾り始めたら危ない。それはただ、自分の中の火を仏壇の線香くらいに小さくしているだけかもしれない。

人生後半の成熟とは、何でも許せる仏になることではない。

許すものと 許さないもの、 変えられないものと 変えるべきタイミングが来たものとを自分で選べるようになることだ。

「これはまあ、いい」
「これはもう、手放そう」
「でも、これは絶対に変わるべきタイミングが来ている」
そうやって、自分の中の基準がはっきりしていく。

だから私は、ただ丸い人になりたいとは思わない。まんまるの人は転がされやすい。私は少し角がほしい。雑に扱おうとした人が「痛っ」となるくらいの鋭利な角がほしい。

それは意地悪の角ではない。
自分をふちどる輪郭だ。

かわいいおばあちゃんにならなくていい。なりたい人はなればいい。でも全員がそこを目指さなくていい。

私は、よくしゃべる不動明王。回覧板を持った閻魔大王。
家庭用サイズの阿修羅。ママチャリで爆走する毘沙門天。
背中に業火、手には老眼鏡。
台所の煮物はコトコト弱火でも、思想は強火で行くぜ。

そんなBBAでいたい。更年期は覚醒期なのだ。

ただし、怒りというやつは扱いがむずかしい。そのまま投げると、だいたい火炎瓶になる。悲しみも同じだ。深いのはいい。でも、いきなり深海に連れていかれると、人は溺れる。

だから、重い話ほど軽い顔で始めたい。ただの雑談みたいに入ってきて、「わかるわかる、あるよね」なんて笑っていたら、気づいたときには、自分の胸の奥に置きっぱなしにしていた感情の前まで連れてこられている。

そんな対話がしたい。

笑いは、怒りを薄めるためのものではない。変化を届けるための乗り物だ。

怒り単体だと戦車みたいになる。でも笑いを乗せると、観光バスになる。

「右手に見えますのが、四十年分の我慢でございます」

「左手に見えますのが、いい人をやりすぎた結果できた心の廃墟でございます」

「この先、急カーブが続きますので、感情のシートベルトをお締めください」

そうやって案内しながら、共に谷底へ連れていく。

ひどい。

でも親切ではある。どんな人にも心からの敬意をもって関わりたいからだ。

感情を殺して丸くなるのではなく、感情を燃やして明るくなる。炎上ではなく、発光である。

扱いやすい人ばかりの世界は、たぶん静かだ。でも、その静けさは本当に平和だろうか。

誰も怒らない世界は、穏やかに見える。でもその下で、誰かが我慢している。誰かが「私さえ黙っていれば」と自分を消している。

そんな平和なら、私は少しうるさいほうがいい。

おかしいことには、おかしいと言いたい。悲しいことには、ちゃんと泣きたい。怒りが湧いたら、その炎と涙で言葉にしたい。そして最後には、関わる人を少し笑わせたい。笑いは生きる力だからだ。

だから、怒れ。

でも、ただ怒るな。

笑わせろ。

悲しめ。

でも、沈みっぱなしになるな。

言葉にしろ。

命の火を持て。

「老害」と言われたら、胸を張ればいい。上等です。こちらは、ただの老害ではないのだ。

悲しみを知り、怒りを燃やし、笑いまで添える、発火型老害です。

今日も元気に、炎上ではなく発光していきましょう。

世界を動かすのは、いつだって少し扱いにくい人間なのだから。

 

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わが家には 毎週、花屋さんが花を配達にくる。今日がその日で 家じゅうが花であふれてる。先週届いた花も 傷んだ部分はどんどん切り落とし 茎が折れてしまった花は水盆にうかべて最後までいっしょにいる。
窓辺の花と田園風景

私は昔・・・というか、けっこう最近まで 花束をもらっても全くうれしくない女だった。

いや、人が自分のために何かを選んでくれたことへの ありがたさはあった。そこまで人でなしではない。たぶん。

でも、花束そのものに対しては、かなり冷めていた。「食べられない植物はいらない」わりと本気でそう思っていた。

今思うと、なんということでしょう。心が完全に業務スーパーである。

花を前にして「きれい」より先に「可食部どこ?」が出てくる。バラを見ても、チューリップを見ても、心の中で成分表示を探している。こういう人間は花屋に行ってはいけない。青果コーナーにしか生息しない。

だって花束は、すぐ枯れる。食べられない。場所を取る。水を替えなきゃいけない。

それなら白菜のほうがいい。白菜は偉い。鍋になる。味噌汁になる。冬場の白菜なんて、もはや家庭内インフラである。

花束より白菜。バラより豚バラ。カスミソウより乾燥わかめ。そんなことを平気で言っていた。

だから今、そのころの自分を思い出すと、助走つけてぶん殴りたくなる。もちろん本当に殴りはしない。大人なので。ただ、胸ぐらくらいはつかみたい。

「おい、昔の私。お前は花束が嫌いだったんじゃない。美しいものを受け取る余裕がなかっただけだろ」そう言ってやりたい。

私は、役に立つものが好きだった。使える。食べられる。お金になる。効率がいい。損をしない。そういうものに安心していた。

逆に、ただきれいなだけのもの。ただうれしいだけのもの。ただその場を明るくするだけのものが怖かった。

花束は、その代表だった。

部屋に置くと、空気が変わる。テーブルの上に一輪あるだけで、昨日まで「とりあえず物を置く場所」だったところが、急に「暮らし」みたいな顔をしだす。

その感じが、私は落ち着かなかった。

花瓶?ありません。水替え?面倒です。感性?在庫切れです。そうやって、花を遠ざけていた。

でも本当は、花を遠ざけていたのではなく、自分の中の柔らかいところを遠ざけていたのだと思う。

きれいなものを見て、きれいだと思うこと。うれしいことを、うれしいと受け取ること。誰かが自分のために選んでくれたものを、素直に抱えること。

それが怖かった。

私はたぶん、長いこと「役に立つ私」でいようとしていたんだと思う。

ちゃんとできる信頼と実績の私。しっかり先読みして気が利く私。ウッカリバカなものに巻き込まれたり損をしない私。忙しい人に迷惑をかけたりしない私。調子に乗ってよけいなことをしない私。

そういう私でいないと、立っていられなかったのだと思う。

だから花束は困る。

花束は、こちらの武装をふわっとほどいてくる。「あなたは、ただ喜んでいいんですよ」みたいな顔をしてくる。

やめろ。急にそんな顔をするな。こっちはまだ戦闘服なんだよ。そういう人間に、急に花束を渡してはいけない。心の受け取り口が渋滞する。ありがたい。でも困る。でもどう扱えばいいかわからない。水に挿す?どのコップに?花瓶が発明される前は、人類はどうしてやりすごしていたの?

そんなことで頭がいっぱいになって、感動どころではない。

そして、感動できない自分をごまかすために、私は言っていたのだ。

「花束なんてもらっても、うれしくない」

ああ、かわいくない。かわいくないが、今ならわかる。あれは冷たさではなかった。受け取り下手だった。

花束を喜べない人は、感性がないのではない。疲れているだけかもしれない。美しいものを受け取ることに慣れていないだけかもしれない。

でも、だからこそ花なのかもしれない。花は、何も解決しない。でも、現実に押しつぶされている自分の視界を少しだけ変える。

朝起きて、花が目に入る。昨日より少し開いている。光の当たり方で、色が違って見える。それだけのことなのに、ほんの少し呼吸が戻る。

「あ、私の生活には、まだこういうものが入る隙間があるんだ」そう思える。

そういう、履歴書にも書けないし、請求書にも載らないし、ポイントもつかないものに、日々少しずつ救われている。

なのに昔の私は、そういうものをバカにしていた。「意味ある?」「それ、何になるの?」「食べられるの?」

うるさい。黙れ、昔の私。

全部を栄養価で測るな。人生はカロリー計算だけでできていない。人間は米と味噌汁だけで生きているようで、実はときどき、どうしようもなく美しいだけのものにも養われている。

美しいものを喜んでしまったら、自分が本当はずっと欲しかったものに気づいてしまう。

私は、大切にされたかった。私は、ただ喜びたかった。私は、役に立たなくてもここにいていいと思いたかった。私は、ちゃんとしていない日にも、何か美しいものを受け取ってよかった。

でもそれを認めるのが怖かった。

だから花束を雑に扱った。笑いにした。「食べられない植物はいらない」と言った。

本当は、食べられないからこそよかったのだ。

食べられるものは、身体を満たす。食べられない花は、身体ではない場所を満たす。

そこに花は、勝手に入ってくる。

やめてくれ。まぶしい。その無言の肯定、やめてくれ。

そう思うのに、見てしまう。

大変残念なことに 私は、花束をもらったら、簡単に泣ける人間になってしまった。(歳を取ると涙もろくなるよね・・・ね??!!!)

「ありがとう」と言いながら、いったん冷静な顔をする。そして帰り道で、花束を抱えた自分の姿がガラスに映った瞬間、急にくる。

ああ、私はこういうものを受け取ってよかったのか。

そう思って、たぶん少し泣く。

花束は、花だけではない。誰かが自分のために、時間を使ってくれたこと。色を選んでくれたこと。枯れるとわかっているものに、お金を使ってくれたこと。その全部を抱えて帰ることなのだ。

それを「食べられない」の一言で切り捨てていた。

でも、責めきれない。あの頃の私は、あの頃の私なりに必死だった。

「そんなもの、欲しくない」と言っておけば、もらえなかったときに悲しくならない。「花なんていらない」と言っておけば、大切にされたい自分を隠せる。

なんて不器用なんだろう。でも、人はだいたい不器用だ。

欲しいものほど「いらない」と言う。傷ついたところほど「平気」と言う。抱きしめてほしいところほど、腕を組む。

そういう謎の生き物である。

だからもし今、花束なんていらないと思っている人がいても、私は否定しない。

花束が苦手でもいい。花に興味がなくてもいい。米はうれしい。洗剤もうれしい。商品券はとてもいい。

でも、もし心のどこかに少しだけ引っかかるものがあるなら、一輪だけ買ってみてほしい。スーパーの端にある小さな花でいい。花瓶がなければコップでいい。

大事なのは、部屋をおしゃれにすることではない。

自分の生活に、美しいものをひとつ置くこと。

ちゃんとしている日ではなくても。自信がある日ではなくても。誰かに褒められた日ではなくても。何も達成していない日でも。

「私のそばに、これくらい美しいものがあってもいい」

そう許すこと。

花一本で人生は変わらない。でも、花一本を自分に許せるようになった人の明日は、今日と少し変わった1日を過ごすことになる。

だから私は今、花束なんてもらってもうれしくないと公言していた自分を、助走つけてぶん殴りたい。そしてそのあと、ちゃんと抱きしめたい。

「あんた、ほんとはずっと欲しかったんだよね」

そう言ってやりたい。花束そのものじゃない。自分のために差し出された美しさ。自分がそれを受け取っていいという許可。

それが欲しかった。

花は食べられない。すぐ枯れる。水替えも必要。実用性で言えば、白菜に負ける。

でも、白菜には白菜の仕事があるように、花には花の仕事がある。

白菜はダイレクトに胃袋を満たす。花は心のどこかを満たしてくれる。私は、白菜だけで人生を乗り切ろうとしていた。

それはそれで、よく頑張った。

でも、もういいのだ。

食べられない植物が、部屋にあってもいい。すぐ枯れるものに、お金を使ってもいい。役に立たないように見えるものに、救われてもいい。誰かの好意を、変に照れずに受け取ってもいい。

花束を抱えて帰る自分を、似合わないなんて笑わなくていい。受け取ると決めた瞬間から、似合っていくのだと思う。

私へ。

あなたが「花束なんてうれしくない」と言っていたことを、私はもう責めない。あれは生き延びるための、少し雑な鎧だった。でも、あなたが必死に守ってくれたおかげで 今となってはその鎧を少し脱いでもよくなったのだ。本当に感謝している。ちゃんと守り切ったな。

花は食べられない。だけど、あなたの心を飢えさせないために、ちゃんとそこに咲いている。今度、花束をもらったら、ちゃんと受け取ろう。自分でも、一輪買って帰ろう。

そして昔の私に見せびらかそう。

「見ろ。食べられないけど、けっこういいぞ」

たぶん昔の私は、まだ少しふてくされる。でも、ちょっとだけうれしそうに笑うんだ。

女性と、その背後に影のような顔。誰の声?

「人面疽(じんめんそ)」をご存じかしら?
 

体のどこかに、人の顔をしたおでき(腫瘍)ができる。
やがて その顔が言葉をしゃべる。 宿主と口論したり、勝手に笑ったり。
 

江戸時代の妖怪画家・鳥山石燕の作品にも描かれた、 日本の怪異の中でもなかなかブキミな存在なのだけれど、 私が一番ゾワッとするのは、 19世紀イギリスに実在したとされるエドワード・モードレイクの話。
 


彼はとあるイギリス貴族の後継ぎとして19世紀に生まれた美しい青年だった。
音楽の才能もあり、知性もあり、誰もが羨む人生を歩んでいた。 ただひとつの「それ」を除いては。
 

実は 生まれつき後頭部にもう1つの顔があったのだ。 後頭部の顔についている目は見えていないようだったし、 口は食べることもできなかった。
 ただ、モードレイクが「喜ぶ時には嘲笑を浮かべ」、 また「嘆き悲しむ時には微笑んだ」という。
 

さらには後頭部の顔が夜になると 「地獄でしか話されないような恐ろしいこと」を彼にささやく。 モードレイクはその耐えがたい苦痛で 毎日悩み苦しんだ。
 

彼は何度も医師に訴えた。「この顔を取り除いてくれ」と。 でも誰にもできなかった。
 苦しみの果てにエドワードは23歳で自ら命を絶った。
 

遺書にはこう書かれていたという。
「この悪魔の顔と、これ以上共に生きることができない」



これは1895年に発表されたフィクションが起源とされています。
長らく医学的記録として語られてきたけれど、創作でした。
 

でも私は、これが完全なフィクションだとは思えないのです。
 なぜなら私たちは全員、 目に見えない この「人面疽」を持って生きているから。
 

その"顔"は今日も、私たちにささやいている。

「このままじゃダメだ」

「私には価値がない」 

「こんなはずじゃなかった」

 

聞き覚えがあるでしょう?
私たちは この声を、自分の本音だと思ってきた。 正直な自己認識だと思ってきた。
 

でも待って。これ、本当にあなたの声なんだろうか?

 

人間には本能として ある行動原理が組み込まれている。
自分を追い込み、痛みを作り出す。そしてその痛みから逃れるために動く。
 不安と恐怖をエンジンにして 安心安全を求める気持ちを燃料に。
 

こうして 私たちはありもしない生きるか死ぬかの危機を頭の中に作り出して、 「劣等感」という痛みで自分を追い込む。 そしてその痛みから逃れるために、必死に動く。 これが私たちの中に生えた人面疽の、最初の顔。
 

でも面白いのはここから。

その痛みに疲れ果てると、今度は顔が表情を変える。

「待てよ?私が仕事で能力を発揮できないのは、 会社がクソすぎるからじゃないか?」
 「私はダイヤの原石なのに、親ガチャでハズレを引いたから輝けないんだ。 環境って大事だもの」
「うすっぺらいおしゃべりだけの主婦と話してても何の成長もない。 磨き合える仲間を探そう」

劣等感が、優越感に反転する。
でも顔は同じ顔だ。表情が変わっただけで、 体に生えた人面疽は何も変わっていない。
 

"劣等感"が限界を迎えて 同じ優劣の土俵で "優越感"に反転したということ。

 

同じように 自分に価値を見い出せない"無価値感"は 自分だけにしか特別な価値を見い出せない"選民意識"に。
 "罪悪感"で自分を責め続けたら 同じ正義で裁く土俵の上で 他人を悪者にする"ジャッジ"に振り切る。
 

左側に疲れると右側に逃げる。右側に疲れると左側に戻る。
私たちはこの振り子の上で、ずっとぐるぐるとさまよい、揺れ続けるのです。
 

でもよく見ると、左も右も同じ軸の上にあって。

 「優劣」という軸。「特別な価値があるかないか」という軸。「正しいか間違っているか」という軸。
この軸の上でどちらに振れても、人面疽はしゃべり続けるのです。軸が変わっていないから。


 

ここで一度、立ち止まってほしい。

「生きづらい」とか「楽になりたい」と思ったことがあるでしょう。
 私たちはその声を、自分の深い本音だと思ってきた。魂の叫びだと思ってきた。
 

自分を追い込み、痛みを作り出す。そしてその痛みから逃れるために動く生存本能なんだから、 苦しくて生きにくいのは当たり前なんだけど……

でも——この「生きづらい」という声。その「楽になりたい」という声。
それ、誰がしゃべってる? そう。

人面疽(生存本能)が、しゃべっているのですよ。
 

痛みを作り出した張本人が、「痛い、苦しい、助けてくれ」と宿主に訴えている。
 加害者と被害者が、同じ顔なのです。

 

こうして私たちはずっと、自分の体にできたおできの顔の言葉を信じて、 その声に従って生きてきた。
 

劣等感に追い込まれて動いて、疲れたら優越感に逃げ込んで、
また罪悪感にさいなまれながら 人を裁くことで正気を保って。
その混乱に満ちた繰り返しの中で「これが人生だ」と思ってきた。
 

これは 顔を切り取ればいいとか 声を無視すればいいのかという話ではないのがミソ。
 

だってエドワード・モードレイクは顔を取り除こうとして、 誰にも(本人も含めてあらゆる専門家でも)できなかったじゃないか。
 顔と戦っても意味がないし、顔を憎んでも意味がないのですよ。
 

必要なのは、軸ごと降りること。

「優劣」という軸の上で戦うのをやめること。
「価値があるかないか」という土俵から降りること。
その軸の上にいる限り、人面疽はしゃべり続ける。
表情を変えながら、永遠に。

軸を降りた瞬間、人面疽の声は初めてただの「音」になる。意味を持たない音に。

 

軸を降りたところで、 その先には何もない、と思うかもしれない。
優劣も、価値の証明も、正しさの確認もない世界なんて 空虚じゃないかと思うかもしれないけれど。
 

でも私たちが経験してきたことは、逆だった。

軸の上では、可能性はいつも「比較」の中にあった。
あの人よりできるか、できないか。
あいつは私が尊敬できることが1つでもあるのか。
去年の自分より成長したか、していないか。 

成長を止めるじゃま者はいないか。
社会の基準に届いているか、いないか。
社会を乱したり害を及ぼすふとどき者はないか。
その枠の中でしか、可能性を探せなかった。

 

軸を降りた先には、比較を必要としない可能性があるのですよ。
 誰かより優れている必要も、何かを証明する必要もない場所。
そこで初めて私たちは、本当の自分の声を聞く。
 

人面疽の声ではなく、比較の痛みから生まれた声でもなく、 もっと静かで、もっと遠いところから来る声を。



私はそれをヴィジョンと呼んでいます。 天啓(天の啓示・天のおぼしめし)、と言ってもいい。

人面疽がしゃべり続ける騒音の中でも、ほんとうはずっと届いていた声。
軸を降りて、なにもない空っぽのところでしか受け取れない声。
 

その声の先にしか、私たちの無限の可能性は、ない。
 


私たちはずっと、体にできたおできの顔の声を「自分」だと思って生きてきて。
確かにこの声は私の一部においては真実なのかもしれないけれど 全部でないし 私そのものの"実態"でもない。

私そのものが受け取っている声は、もっとずっと静かな場所にある。

 

人面疽は今日も、あなたにささやいている。

「生きづらい」「楽になりたい」

 「私はカフェでホッとするために生きている」

 「あいつさえいなくなれば」

「天職にめぐりあえたらうまくいくのに」

 「まともな会社はきっとある。死ぬ気で探せ」 

「私の人生の目的は死なないこと」 

「あの人に愛されることが わたしのすべて」
 

その声を聞くたびに、思い出してほしい。

これは、誰の声なのか?

そう問いかけることが、軸を降りる最初の一歩になる。

 

あなたの無限の可能性は、生きるか死ぬかの軸の外側にある。

人面疽の声が静かになったとき、初めてそれは聞こえてくる。


 

この「軸を降りる」練習を、31日間かけてじっくりやる講座を作りました。
 

インサイドビジョン・グランドオーダー

メール通信講座です。

人面疽の声——セルフイメージ、思い込み、過去のパターン——に気づき、
だまらせ、その奥にある静かな声を受け取っていく。
 

そのために必要な4つの感覚を、順番に養います。

毎日届くメールを読み、できる範囲でワークに取り組む。

それだけの、自学自習の講座です。
 

ただただ、「これは誰の声?」と問いかけることを、毎日続けていく。
 

その31日間が、人面疽の声に振り回されてきた人生から、グランド・オーダーと共に生きる人生への、静かな転換点になります。
 

現在の価格は、55,000円です。

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インサイドビジョン・グランドオーダー<通信講座>

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人面疽は、取り除けません。

でも、軸を降りることはできます。

その先に、あなたの声があります。
 

グランド・オーダーが、ずっとそこで待っています。

それでは。