
「人面疽(じんめんそ)」をご存じかしら?
体のどこかに、人の顔をしたおでき(腫瘍)ができる。
やがて その顔が言葉をしゃべる。 宿主と口論したり、勝手に笑ったり。
江戸時代の妖怪画家・鳥山石燕の作品にも描かれた、 日本の怪異の中でもなかなかブキミな存在なのだけれど、 私が一番ゾワッとするのは、 19世紀イギリスに実在したとされるエドワード・モードレイクの話。
彼はとあるイギリス貴族の後継ぎとして19世紀に生まれた美しい青年だった。
音楽の才能もあり、知性もあり、誰もが羨む人生を歩んでいた。 ただひとつの「それ」を除いては。
実は 生まれつき後頭部にもう1つの顔があったのだ。 後頭部の顔についている目は見えていないようだったし、 口は食べることもできなかった。
ただ、モードレイクが「喜ぶ時には嘲笑を浮かべ」、 また「嘆き悲しむ時には微笑んだ」という。
さらには後頭部の顔が夜になると 「地獄でしか話されないような恐ろしいこと」を彼にささやく。 モードレイクはその耐えがたい苦痛で 毎日悩み苦しんだ。
彼は何度も医師に訴えた。「この顔を取り除いてくれ」と。 でも誰にもできなかった。
苦しみの果てにエドワードは23歳で自ら命を絶った。
遺書にはこう書かれていたという。
「この悪魔の顔と、これ以上共に生きることができない」
これは1895年に発表されたフィクションが起源とされています。
長らく医学的記録として語られてきたけれど、創作でした。
でも私は、これが完全なフィクションだとは思えないのです。
なぜなら私たちは全員、 目に見えない この「人面疽」を持って生きているから。
その"顔"は今日も、私たちにささやいている。
「このままじゃダメだ」
「私には価値がない」
「こんなはずじゃなかった」
聞き覚えがあるでしょう?
私たちは この声を、自分の本音だと思ってきた。 正直な自己認識だと思ってきた。
でも待って。これ、本当にあなたの声なんだろうか?
人間には本能として ある行動原理が組み込まれている。
自分を追い込み、痛みを作り出す。そしてその痛みから逃れるために動く。
不安と恐怖をエンジンにして 安心安全を求める気持ちを燃料に。
こうして 私たちはありもしない生きるか死ぬかの危機を頭の中に作り出して、 「劣等感」という痛みで自分を追い込む。 そしてその痛みから逃れるために、必死に動く。 これが私たちの中に生えた人面疽の、最初の顔。
でも面白いのはここから。
その痛みに疲れ果てると、今度は顔が表情を変える。
「待てよ?私が仕事で能力を発揮できないのは、 会社がクソすぎるからじゃないか?」
「私はダイヤの原石なのに、親ガチャでハズレを引いたから輝けないんだ。 環境って大事だもの」
「うすっぺらいおしゃべりだけの主婦と話してても何の成長もない。 磨き合える仲間を探そう」
劣等感が、優越感に反転する。
でも顔は同じ顔だ。表情が変わっただけで、 体に生えた人面疽は何も変わっていない。
"劣等感"が限界を迎えて 同じ優劣の土俵で "優越感"に反転したということ。
同じように 自分に価値を見い出せない"無価値感"は 自分だけにしか特別な価値を見い出せない"選民意識"に。
"罪悪感"で自分を責め続けたら 同じ正義で裁く土俵の上で 他人を悪者にする"ジャッジ"に振り切る。
左側に疲れると右側に逃げる。右側に疲れると左側に戻る。
私たちはこの振り子の上で、ずっとぐるぐるとさまよい、揺れ続けるのです。
でもよく見ると、左も右も同じ軸の上にあって。
「優劣」という軸。「特別な価値があるかないか」という軸。「正しいか間違っているか」という軸。
この軸の上でどちらに振れても、人面疽はしゃべり続けるのです。軸が変わっていないから。
ここで一度、立ち止まってほしい。
「生きづらい」とか「楽になりたい」と思ったことがあるでしょう。
私たちはその声を、自分の深い本音だと思ってきた。魂の叫びだと思ってきた。
自分を追い込み、痛みを作り出す。そしてその痛みから逃れるために動く生存本能なんだから、 苦しくて生きにくいのは当たり前なんだけど……
でも——この「生きづらい」という声。その「楽になりたい」という声。
それ、誰がしゃべってる? そう。
人面疽(生存本能)が、しゃべっているのですよ。
痛みを作り出した張本人が、「痛い、苦しい、助けてくれ」と宿主に訴えている。
加害者と被害者が、同じ顔なのです。
こうして私たちはずっと、自分の体にできたおできの顔の言葉を信じて、 その声に従って生きてきた。
劣等感に追い込まれて動いて、疲れたら優越感に逃げ込んで、
また罪悪感にさいなまれながら 人を裁くことで正気を保って。
その混乱に満ちた繰り返しの中で「これが人生だ」と思ってきた。
これは 顔を切り取ればいいとか 声を無視すればいいのかという話ではないのがミソ。
だってエドワード・モードレイクは顔を取り除こうとして、 誰にも(本人も含めてあらゆる専門家でも)できなかったじゃないか。
顔と戦っても意味がないし、顔を憎んでも意味がないのですよ。
必要なのは、軸ごと降りること。
「優劣」という軸の上で戦うのをやめること。
「価値があるかないか」という土俵から降りること。
その軸の上にいる限り、人面疽はしゃべり続ける。
表情を変えながら、永遠に。
軸を降りた瞬間、人面疽の声は初めてただの「音」になる。意味を持たない音に。
軸を降りたところで、 その先には何もない、と思うかもしれない。
優劣も、価値の証明も、正しさの確認もない世界なんて 空虚じゃないかと思うかもしれないけれど。
でも私たちが経験してきたことは、逆だった。
軸の上では、可能性はいつも「比較」の中にあった。
あの人よりできるか、できないか。
あいつは私が尊敬できることが1つでもあるのか。
去年の自分より成長したか、していないか。
成長を止めるじゃま者はいないか。
社会の基準に届いているか、いないか。
社会を乱したり害を及ぼすふとどき者はないか。
その枠の中でしか、可能性を探せなかった。
軸を降りた先には、比較を必要としない可能性があるのですよ。
誰かより優れている必要も、何かを証明する必要もない場所。
そこで初めて私たちは、本当の自分の声を聞く。
人面疽の声ではなく、比較の痛みから生まれた声でもなく、 もっと静かで、もっと遠いところから来る声を。
私はそれをヴィジョンと呼んでいます。 天啓(天の啓示・天のおぼしめし)、と言ってもいい。
人面疽がしゃべり続ける騒音の中でも、ほんとうはずっと届いていた声。
軸を降りて、なにもない空っぽのところでしか受け取れない声。
その声の先にしか、私たちの無限の可能性は、ない。
私たちはずっと、体にできたおできの顔の声を「自分」だと思って生きてきて。
確かにこの声は私の一部においては真実なのかもしれないけれど 全部でないし 私そのものの"実態"でもない。
私そのものが受け取っている声は、もっとずっと静かな場所にある。
人面疽は今日も、あなたにささやいている。
「生きづらい」「楽になりたい」
「私はカフェでホッとするために生きている」
「あいつさえいなくなれば」
「天職にめぐりあえたらうまくいくのに」
「まともな会社はきっとある。死ぬ気で探せ」
「私の人生の目的は死なないこと」
「あの人に愛されることが わたしのすべて」
その声を聞くたびに、思い出してほしい。
これは、誰の声なのか?
そう問いかけることが、軸を降りる最初の一歩になる。
あなたの無限の可能性は、生きるか死ぬかの軸の外側にある。
人面疽の声が静かになったとき、初めてそれは聞こえてくる。
この「軸を降りる」練習を、31日間かけてじっくりやる講座を作りました。
インサイドビジョン・グランドオーダー
メール通信講座です。
人面疽の声——セルフイメージ、思い込み、過去のパターン——に気づき、
だまらせ、その奥にある静かな声を受け取っていく。
そのために必要な4つの感覚を、順番に養います。
毎日届くメールを読み、できる範囲でワークに取り組む。
それだけの、自学自習の講座です。
ただただ、「これは誰の声?」と問いかけることを、毎日続けていく。
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人面疽は、取り除けません。
でも、軸を降りることはできます。
その先に、あなたの声があります。
グランド・オーダーが、ずっとそこで待っています。
それでは。