この週末は大阪国際女子マラソンのサポートと応援でしたが、その裏で僕自身は久しぶりに人生の選択について考えていました。

 それは「アメリカ移籍」でした。



 僕が日本の将来に不安を感じて英語を学ぶようになったのは2008年のことでした。日本でしか仕事ができないのではなく、海外でも仕事ができるようになってほしいと思いました。そして、子供達に海外を見させたいと家族で海外を旅行するようになりました。

 でも、子供達に海外で働いてほしいと思うのに、自分が働いたことがないのは足りない!と思いました。



 そして、自分が海外で働いてみようと思った時に、道が分かりませんでした。

 その道を子供達に切り拓けと言うのは親として間違っていると考えていました。



 その頃の僕は、海外での採用募集に応募する?知っている企業にアプローチする?そこが分からないのです。

 一緒に仕事をする、いくつかの企業と話してみましたが、採用したいポストがある訳ではないので、会話は進みませんでした。

 また、開発なら博士号が必要と考えて、2018年に山梨大学大学院の博士課程に入学しました。



 意外な処から、2021年にアメリカ企業の日本支社に転職しました。

 なるほど、こうやって外国企業に就職するのか、と初めて分かりました。この時は一切迷うことなく転職を決めましたが、外国企業は「クビになるんじゃない?」「年金とかどうなの?」とか分からない面も多いですよね。

 働いてみないと分からないことは多い!と思いますし、日本企業とは様々な点が違います。



 そんな今、僕は「アメリカ移籍」を悩んでいました。

 初めてアメリカで働きたいと思ったのは25歳のこと。

 今、思うと英語をまともに話せないクセによく考えたもんです。その時の上司から、頼むから希望を取り下げてくれと言われて、取り下げました。結局、その時は他の同期が海外支社に行きました。


 アメリカ企業で働いてみると、僕は日本語より英語の方が気楽に話せますし、間を読むのが苦手ですからストレートに言う文化は僕に向いています。

 子供達には外国企業で働く道を伝えたり、外国企業がとんな点で違うのか?を話せる処まで来ましたが、海外での生活は経験がありません。

 ここをどうするか?は僕に残された課題です。



 今回、社内で求められるポジションがあり、僕自身の経験(ビジネス立上げや運営、デバイス技術の開発のマネジメント経験、あるいは新技術調査、光学設計者としてのキャリア)が活かせることもありました。それに、ここが今の事業部の弱点です。

 すぐに事業部長にメールしました。

 そして、答えをもらって週末を迎えました。

 質問したのは「日本にいても良いか?アメリカで働く必要があるか?」でした。



 その答えはサンフランシスコのオフィスとのこと。

 幸いにも、近くにはIT企業が多く、何人かの友人がいます。ツーベッドルームだと月80万円位の高級エリアです。スゴいエリアです。

 手を挙げたら決まると思うだけに、その前にちゃんと考えるべきと思い、週末は上手く1人で考える時間が持てました。


 オレの中にある「リトルmotoyuki」に聞いてみました。

 「人生最後のチャンスかもね」「64歳の定年以降も海外で働いちゃえば」というイケイケの声と、「病気になった時、1人でどうする?」「64歳で定年を迎えたら日本で働ける?」というネガティブな声が聞こえます。

 それでも、自分の答えは決まり、昨晩、事業部長には一報を入れました。


 また、今日も1日が始まります!

 事業部長との会話が進んだら、また書こうと思います。




(僕の好きな写真の1枚です)