”白い羊”たちはココにいた!(欅8th『黒い羊』の追加考察) | 超絶メタアナリシス

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欅坂46の『黒い羊』は、そのMVの内容の重さにもかかわらず、反響はやはりスゴイみたいです。

 

それも、前作である7th『アンビバレント』をGoogle検索指数で上回っているとか。

 

昨日、まとめサイトに以下のような記事が出ておりました。

 

 

ただし、Google検索指数が大きいということ、イコ-ル、そのコンテンツが好きだということでは無いですからね。

 

人間の心の奥にある無意識の領域にある何かをただ刺激して振り向かせただけという場合もあるわけで、今回の『黒い羊』は特にその傾向があるのかな、と私は思います...

 

『黒い羊』の感想を書いた2月2日の記事とそのコメント返しで、「これは、”死”の表現になっている。いくら表現の自由があるといっても、死の表現だけはしちゃいけない」と私は主張しましたが、それは死への衝動をかきたててしまうからダメ出しをしたわけでして、”死”というものが持つ漠然とした「安楽」のイメージによって死後の世界へのあこがれが人間一般にはあるなどとも言われているからです。

 

将来への不安や、今ある辛さや苦しみから逃避したいという想いが人にそう思わせるのだとか...

 

最近封切られた映画『12人の死にたい子どもたち』も、自殺願望がテーマになっているようです(くわしくは知りません。自分はみたくないので)。

 

 

 

こういう映画が反響を呼ぶということは、あの世、とくに”天国”へのあこがれを漠然と心の奥底に持っているのが今の日本人なのかもしれません...

 

今の世の中の現実を見ると、いろんなネガティブなニュースが流れ過ぎて世の中にやり切れなさを感じる人が結構いるのだろうし、少子高齢化によって将来の日本の若者は負担が大きい(年金、介護、医療などの福祉負担)という予測が立っていますし、政治(特に外交関係。北のミサイル問題や中国の尖閣への威圧問題)をめぐる問題だったり、アメリカンドリームなどは日本にはなかったりで、閉塞感や不安感や少幸感、そして、やりがいの小ささなどを感じている人が多そうです。

 

欅坂46の齋藤冬優花さんも、2月5日の自身のブログ(ブログナンバー1024番)で、「なんか最近、神様はいないんだなーってたまに思ってしまう。悲しいニュースをみるたびに...」と書いています。

 

実際には、人間というものは、死への衝動を生への意志が上回っているので(生への意志 > 死への衝動)、暗いニュースやコンテンツに触れても、それが即行動にあらわれるということは無いようです。

 

”スイッチ”が入らない限りは...


そういう意味では、『黒い羊』は、逆に、死んでも救われないよ的な表現をしているので、自殺願望などをかきたてることは無く、そこはこのMVの救いと言いえる点なのかもしれません。

 

あの世にさそってはいない、という意味で...


『黒い羊』の反響の大きさをきっかけに、あらためていろいろと考えてしまいました。

 

それにしても、こんな見解(↓)まで出てきて、漢字欅の路線は差別化という意味では非常にユニークになってきましたね。

 

 

 

 

 

 

さて、”黒い羊”と”白い羊”というワードについては、1月20日の記事の中で、これらはキリスト教思想から来ていると書きました。

 

ここで再掲すると、

”白い羊”:イエス・キリストのみ。

”黒い羊”:われわれ人間一般。すべて罪深いから

です。

 

しかしこれに補足しておくと、人間は死んだあと、その魂の”質(クオリティー)”が天国に行くに足りるだけのものであるのなら、天国に迎えられてイエス・キリストと共にいることができる、という考え方がキリスト教にはあります。

 

つまり、天国に行けた人は、”白い羊”になれるわけです。

 

それが新約聖書の『ヨハネの黙示録』のなかに出てくる、”艱難をくぐり抜けてきた、神の御座の前にいる人たち”で、人生の困難さに耐えて天寿をまっとうし、天国に行けた人々のことを指しています。

 

長老たちのひとりが、わたしにむかって言った、「この白い衣を身にまとっている人々は、だれか。また、どこからきたのか」。 
わたしは彼に答えた、「わたしの主よ、それはあなたがご存じです」。すると、彼はわたしに言った、「彼らは大きな艱難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである。それだから彼らは、神の御座の前におり、昼も夜もその聖所で神に仕えているのである。御座にいます方は、彼らの上に幕屋を張って共に住まわれるであろう。(新約聖書『ヨハネの黙示録』第7章より引用)

 

つまり、この世で人生のいろんな試練に耐え、それを苦労して乗り越えるように生きないと天国には行けませんよ、と言っているわけです。

 

自殺したりして、人生を途中であきらめたりしたら、決して天国には行けないということも言っています。

 

そして、無事に天国に行けたなら、美しくも素晴らしい天国での生活が待っているよ、とも...

 

その天国に行けた人たちのイメージは、こんな様子だと私は思います。

 

 

 

 

 

そう...

 

知っている人はすぐにわかるでしょうが、これは、乃木坂46の『シンクロニシティ』のMVのなかのシーン群です。

 

おととい『うたコン』の観覧に行き、その前のうたコン参戦がアンビバレントの披露だったこともあり、そのときのイメージが頭の中に思い浮かんで、漢字欅の白と黒のアンビバ衣装から連想して、私はあらためて気づきました。

 

やっぱり、『シンクロニシティ』はキリスト教の価値観をふまえた曲であって、それも、欅の『アンビバレント』や『黒い羊』の姉妹曲だろうと思います。

 

まさに、1月26日の記事に書いた通りでした。

 

1月26日の記事では、歌詞からの考察で、『シンクロニシティ』は漢字欅の主題歌の中に出てくる「僕」の最終到達点だという答えにたどり着きましたが、歌詞以外によってもそのことを示唆していたんです。

 

要は、乃木坂のメンバーたちが『シンクロニシティ』で踊る姿は、天国における”白い羊”たちを模していたということです。

 

次の2つの特徴がこの事を明白に示してます。

①純白の衣装であること

②はだしであること

 

明らかですよね?

 

馬の蹄鉄は例外として、この世界で靴をはく動物は人間だけなわけですが、その靴をはかないということは、これは人間ではないということを意味しているわけです。

 

裸足(はだし) = 人間以外の動物(たとえば羊) 

を示しているというわけ。


”白い羊”は、ここにいたんだよ...

 

これで、なぜ『シンクロニシティ』のパフォーマンスが裸足なのかも、これが謎が解けました。

 

”愛”に共鳴しあっている「僕」のことを謳うその歌詞が示す世界観と天上の音楽かと思わせるようなステキなメロディーともあいまって、救われた魂を意味する”白い羊”を模しているのがシンクロニシティのMVなんでしょう。

 

「シンクロは裸足でやれ」が、おそらく秋元康氏からの指示で出ていたんだろうなぁ...