『マジムリ学園』の最終回が語るものとは... | 超絶メタアナリシス

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☆☆☆ 都心(台東区)在住です ☆☆☆

AKB48グループメンバーが多数出演していたテレビの『マジムリ学園』が木曜深夜に最終回を迎えて終わりましたね。

 

でも、終わり方の”不完全燃焼感”がハンパなかったと感じた人が以下のように多数いたみたいです。

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、ツイートしている人もいますが、これは「舞台」へ話しが続くのかな?、と私も思っていたところ、公式がまさにその通りのツイートをしていました。

 

「舞台」にて”新たな展開”をするというアナウンスが...

 

 

結局、テレビ番組を「舞台」の前宣伝みたいに使ったようですが、運営も大胆なことをしますね。

 

また、「舞台」に出るメンバーを公式サイトで見てみたところ、AKBメンバーをキャストにして、姉妹グループのメンバーはゲスト扱いのようです。

 

 

まあ、これは、舞台を東京でやる以上、交通費とスケジュール上の都合で地方のメンバーが常連では出にくいからでしょうけど、反面、テレビ番組を、姉妹グループメンバーの知名度向上と外仕事の割り当てと演技の練習台に使ったということになるのでしょうか...

 

日テレはよくいろいろとガマンしましたね、こういうふうに放送枠を使われて...

 

まあ、持ちつ持たれつということなんですかね...

 

 

 

さて、テレビでは敵役で準主役でもあったカイザー(NGT本間日陽)は退き、「舞台」では岡田奈々演じるネロが敵役のようです。

 

”ネロ”というのは古代ローマ帝国の独裁的な暴君の皇帝だったネロをイメージしているようで、古代の人物を使うことで、政治的・道義的な面で批判されたり物議をかもすことを避けたと思われます。

 

要するに、やっぱりナチス系の設定はダメだということに気づいたみたい(と思います)。

 

「カイザー」というドイツ語にしろ、カイザーに仕えるのが「親衛隊」だとか、その親衛隊の隊長をドイツ語で「アインツ」,「ツヴァイ」と呼称したりだとか、親衛隊の黒い制服やムチというアイテム、そして「選民」という言葉は、明らかにヒトラー政権をイメージさせていましたからね。

 

2016年に欅坂46でナチス風衣装騒動事件がありましたが、総合プロデューサーの某氏は同じ失敗を二度やっちゃったということになるのかな。

 

でも、今までよく途中でストップがかからなかったな...

 

 

 

こうしてみると、なんかいろいろとグダグダしたドラマでしたね。

 

制作者(脚本家 or 秋元康氏?)が最終回で伝えたかったことも、上に挙げたツイートを見ればわかるように、視聴者によく伝わってないみたいですし。

 

ただ、私としては、このドラマが伝えたかったことは理解したつもりです。

 

わたしの解釈としては、制作側が視聴者に伝えたかったことは、①カイザー率いる現生徒会が辞めさせられたこと、②リリィーが最後に放った長ゼリフの内容、③カイザー側(=富裕層)と荒地側(=貧民サイド)の争いをリリィーが身を挺して止めること、④新しい生徒会長候補が掲示されて終わるシーン、⑤リリィーは死なないこと、などにしっかりと込められているように思います。

 

 

すなわち、次のようなメッセージです。

 

一、全体主義はダメ  ←生徒会長カイザーの失脚

二、金持ちと貧民との格差は、暴力でくつがえしてはならない

三、徒党を組んで戦ったりするな

四、革命とは、金持ちを力で打倒することではなく、心構えを変えること

五、個々人が幸せを目指して各々自由に生きるのが正解

 

内容が高尚すぎたことと、リリィーの最後のセリフが長すぎたこと、最終回に詰め込みすぎたこと、などからわかりにくかったのかな、と...

 

ただ、こうしてみると、今の現実の世の中を肯定している感じでしょうか。

 

すなわち、資本主義社会の肯定(=貧富の格差の肯定)、直接民主主義の否定、個人主義の肯定、です。

 

主題歌(『百合を咲かせるか?』)の歌詞でも、♪大勢に囲まれてすごまれてもはやらないよ、♪ヤンキードラマなんか時代遅れさ...と言っています。

 

秋元康氏の若い頃は、まだ学園闘争とか安保闘争といった民衆のデモ的な要素が残っていた社会でした。

 

が、今の21世紀では”闘争”,”デモ”なんかは時代遅れなんだ、、もうそんな古い時代は終わったんだ、と歌詞を使って言わんとしているような気がします。