正しくは、”報われなくても努力する”である... | 超絶メタアナリシス

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~女性アイドル論を中心に、政治・経済、スポーツ、芸能などなど、時事問題を独自の視点で分析~
☆☆☆ 都心(台東区)在住です ☆☆☆

昨日はじゃんけん大会をネタにしてAKBと乃木坂の違いを書きました。

  

今日は昨日のテーマをもう少し深く掘り下げて書きたいと思います。

  

乃木坂は、「みんなが平等」のような空気を持っている...
一方、AKBは、「格差社会の典型」のようだ...

  

このように書きました。

  

別の言い方をすれば、
AKBは、「努力は必ず報われる(べきだ)」...
乃木坂は、「報われても報われなくても、私は努力する」...

  

このように言いかえられるのではないか、と考えます。

  

  

昔の日本社会は、乃木坂風に、「報われても報われなくても、私は努力する」だったような気がします。

  

それが古き良き日本社会のモラルであったように思えます...

  

ところが、いつの頃からか、成果主義の社会になってしまった...

  

そして、”報われなきゃ努力しない”というような発想が強くなってしまった...

  

そうして古き良き社会が壊れていってしまった...

  

昭和の昔から世の中を見てきて、世の変化をこう感じています...

  

藤田奈那のじゃんけん1位獲得のことをさして、
「地道な努力が報われた」だとか、「やっぱり、努力はいつかは報われるんだ」とかネット上で言われていますが、私は違和感を感じます。

  

「努力は必ず報われる」という考え方は、”非道徳的”だと思うからです。

  

正しくは、「報われても報われなくても、私は努力する。世のため、人のために...」

  

これが正しいモラルではないか、と思うのです。

  

”良心”というものを持っている人間ならば、
別に他人が見ていなくても、また、誰かからほめられなくても、
「やるべきことはやる。それが普通だ」
という風潮が昔は確かにあったような気がします。

  

そして、何かをなしとげても、それを誇ることのない奥ゆかしさや遠慮といったものが、昔の日本文化にはあったように思えます...

  

大きなことをなしとげても、そのこと自体に満足し、それ以上のこと(=カネや名誉)を求めなかった”清貧さ”みたいなものも昔は確かにありました...

  

昨日、乃木坂で例えた、”みんなが貧しかった時代”や、”みんなが中流階級だった時代”には、報われる/報われないにかかわらず、みんな普通にがんばっていたような気がします...

  

なのに、”努力→報われるべきだ”、という「変てこ」な考え方は、いったいどこから出てきたんだろう...

  

そういう考え方の人は、ぜひ反省をして悔い改めていただき、本来の正しいモラルというものを取り戻してほしいと思います...

  

そして、気づいてほしいと思います...

  

努力などとわざわざ口にせずとも、真摯に生きるのが当たり前なのだということに...

  

・・・

  

さて、今回のじゃんけん大会では、昔の良き日本文化といったものを感じました。

  

決勝戦でのゆずり合いの姿は、”遠慮”や”奥ゆかしさ”を示し...

  

優勝した瞬間の藤田奈那の泣き崩れた姿は、何かをなしとげたこと自体に満足している様子を示していると思いました...

  

今回のじゃんけん大会は、努力が報われたんじゃない...

  

神様はセレブ(金持ちの特権メンバー)を選ばれず、一般庶民の「純真無垢な心」を選ばれた...

  

そういうことなんじゃないかと思います。

  

  
了