マルハラ=句点恐怖症ってなあ | 備忘録以上、評論未満。

 

 

 

 

マルハラなる言葉があるのを

 

つい最近知った。

 

文章の終わりに

 

「。」がついていると

 

恐怖

威圧感

冷淡さ

 

を感じるそうだ。

 

とくに若い層(女性多し)。

 

文章と言っても

 

メディアとか小説とかブログとか

 

その手のものではなく

 

「LINE」

「チャット」

 

など個別のやりとりで

 

戸惑いや嫌悪があるらしい。

 

弱った。

 

20代~50代まで30人以上いる

 

グループLINEで

 

俺いつも「。」つけてるぞ。

 

ちなみに

 

句点=「。」

読点=「、」

 

二つ合わせて句読点。

 

 

 

句読点の歴史をひも解くと

 

長くなるのでやめるが

 

大昔は漢字ばっかりの文章で

 

それを「訓読み」するために

 

いろんな記号が使われた。

 

 

・送り仮名

・返り点(レ点、一二点、上下点)

 

 

こういうやつね。

 

古文(古典)の授業で習ったやつ。

 

嫌いな人も多かったのでは?

 

なんでそんなことしたか?

 

漢字=漢文というのは

 

「音読み」で構成されているが

 

それは古代中国が開発した言語。

 

つまり当時の日本では通用せず

 

漢文を読めるようにするために

 

文中に記号を入れた経緯がある。

 

音読みというのは呉という

 

古代中国の大国で開発・発展した

 

読み方の技巧であり

(※漢という国の時代にも発展)

 

訓読みというのは

 

日本古来の「やまと言葉」。

 

だからその漢字本来の意味とは

 

ちょっと違うものも多く

 

「当て字」的な要素も強い。

 

妙な読み方(訓読み)をする漢字が

 

結構あると思うが

 

あれはそんな歴史の痕跡だ。

 

 

 

文章全体の句点や読点は

 

どうやら平安期にはあったらしい。

 

その句読点も漢字同様に

 

古代中国からの輸入という説が

 

もっぱら有力だ。

 

 

 

 

あの時代の世界の超大国だから

 

まあ仕方ない。

 

日本はなにからなにまで輸入し

 

なにからなにまで独自に改良した。

 

関係ないけど

 

みんながあたりまえに使う

 

ウォシュレット(洗浄便座)だって

 

アメリカが発明・輸出したんだが

 

日本人のお尻に合わないという理由で

 

TOTOがアレンジにアレンジを重ね

 

世界的な大ヒット商品になった。

 

なお漢字について

 

中には日本が独自に創った

 

「国字」というのがある。

 

中国の識者の多くが

 

国字に注目していることも書いておく。

 

 

 

 

 

人気アーティストの楽曲や

 

映画のタイトルにも

 

「。」がついていることがあって

 

じゃあ若い層はこういうものにも

 

嫌悪感や威圧感を感じているのか

 

と言えば

 

そうじゃないはず。

 

たぶんだが感覚として

 

 

・曲や映画=他人ごと(公的なもの)

・LINE=自分ごと(私的なもの)

 

 

こういう区分けじゃないかと。

 

意識の上で。

 

だからマンツーマンの

 

メッセージ性の高いやりとりで

 

「。」があるだけで

 

そう感じてしまう人々がいるんだろう。

 

 

なんで語尾を

もっと明るく楽しげにできんの?

 

なんで語尾に

余計なものをつけるの?

 

なんで語尾に

「顔文字(絵文字=LINE文字)」

を入れないの?

(※逆に入れると嫌な人もいる)

 

 

…と考える人が

 

意外と多くいるんだろうね。

 

口に出さないだけで。

 

 

 

一部のネット民が騒いでいる

 

ということなら

 

そのうち鎮火すると思ったが

 

先日このテーマが

 

わたしのいるグループLINEで議論され

 

わたしはただ眺めていたが

 

やっぱり「。」に嫌悪する人が

 

20代と30代に結構いた。

 

ああ

 

ホントにいるんだなあ

 

と確認できた。

 

では自分はどうするか?

 

そこについては考えていない。

 

あえて書かないが

 

自分なりに思うこともあるので。

 

 

 

そのやりとりを眺めながら

 

ふと思った。

 

漢文のレ点や上下点

 

あるいは送り仮名などが

 

文章から消えたとき

 

当時の人々(知識人中心)は

 

どう感じたのだろうか?

 

いまのように

 

漢字とひらがなとカタカナが

 

ゴチャゴチャに混在して

 

それが普通である時代の

 

ずっと前

 

すなわち

 

漢字一辺倒の文章から

 

徐々に文体が変化する過程を

 

彼らはどう受け取ったのだろうかと

 

想像してしまった。

 

いろいろ混乱しただろう。

 

でも

 

ひょっとしたら

 

「なんか端っこにチョコチョコ

 書くよりも

 バシッと文中に入れちゃったほうが

 わかりやすいんじゃね?」

 

って思う人々が

 

ある日突然

 

日記や資料の文体から

 

送り仮名や返り点を消し

 

そのまま

 

文中に入れちゃったのかも。

 

そのうち

 

カタカナを平仮名に修正し始め

 

いつの間にか

 

現在みたいな「使い分け」ルールが

 

作家や学者らの実践によって

 

暗黙のうちに

 

定着しちゃったのかもしれない。

 

想像の域を出ないので

 

真剣に受け止めないでね。