『無上の町Ⅲ』(P-4) | 光の天地 《新しい文明の創造に向けて》

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現代文明の危機的な状況に対して、新たな社会、新たな文明の創造の
必要性を問う。

【新しい文明のビジョン(小説編)(P-4)】
 
                                         『無上の町』(第3巻)
                                       真珠の飾りを着けた都の果てに
 
                                                 《連載第 4 回》
 
淳平はふと、首を曲げて壁のカレンダーに目を凝らした。
「あと三日よ・・・・月末まで・・・・」
 ミキが淳平の肩越しに声をかけた。
「三日か・・・・」
 淳平はカレンダーから目をそらして、ため息交じりに煙草の煙を吐き出した。
 彼はいつも黒いスーツを着て、自然食の店や取引先に出かけたり、新しい商材の開拓のために
地方を飛び回ったりして、ほとんど一日中事務所にはいなかった。彼はよく取引先からの土産だと
いって、賞味期限ぎりぎりの商品を、いっぱい詰め込んだビニール袋をぶら下げて帰って来た。給湯
室には小型冷蔵庫が置いてあったため、それに入れておけば何日かは保存することができた。給
湯室には電子レンジも置いてあったため、ミキは毎日のように淳平が持ってきた食材を調理して食
べた。近くのコンビニで買ってきた米を電子レンジで炊き、インスタントの味噌汁をお盆にのせて社
長室に持っていくと、淳平は、「まさか、会社で炊き立てのご飯を食べられるとは思わなかったよ」
とびっくりしたように、紙製の小皿に盛られた米をまじまじと見つめた。
 しかし、仕事が忙しくなってくると、ミキは満足に食事の準備をする暇もなくなり、冷蔵庫にいっぱい
つまった土産物も、賞味期限の過ぎた順から捨てざるを得なかった。
「みんな、どうしてる?・・・・」
 淳平が田舎のことを尋ねたのは、それが始めてのことだった。
「みんな?・・・・ええ、みんな元気よ・・・・」
「ここからだと、ずい分遠く感じるよ。最初はそうでもなかったけどね・・・・」
 淳平は小学校の時からの健一の唯一の親友だった。父親の転勤に伴って東京からT町の小学校
に転校してきた健一は、東京と田舎町のあまりの文化の違いに慣れることができず、最初のうちは
誰とも口をきくこともなかった。しばらくすると、淳平とは馬が合ったのか、彼とだけは次第に親しい
間柄になっていった。
「あの町に帰る気はないかって、良介にはさんざん言われたよ」
 淳平がフッとため息をもらしながら口元に笑みを浮かべた。
「良介に?・・・・」
 ミキは驚いたように淳平の顔を覗き込んだ。
「今じゃないよ、まだ会社を立ち上げる前にね」
「そう・・・・じゃあ、今はどうなの?」
 ミキが微笑みながら尋ねた。
「今、帰ったら負け犬だろう」
 淳平が思わず笑いながらミキの方を見た。
「でも、まだつぶれたわけではないでしょう?」
 ミキは学校の帰り、よく健一と淳平の三人で、とりとめのない話をしながら、大川の土手を歩いた。
健一と淳平は、二人でいる時はほとんど言葉を交わすこともなかったが、ミキが二人の間に割って
入った時だけは、なぜか二人とも饒舌になった。
「明日から、私も外に出るわ」
 とミキが言うと、淳平は驚いたように彼女の顔を見つめた。
「いや、ミキ、もういいんだ。もう十分だよ・・・・」と言いながら、淳平はあわててミキを制した。
「何が十分なの?」
「ミキには申し訳ないと思っている・・・・今までのこと、感謝しているよ・・・・」
「今まで?・・・・」
「もう、これ以上迷惑はかけられないよ」
「私のことは、心配しなくてもいいわ」
「ミキには自分の仕事があるだろう」
「それで、ほんとにいいの?」
 工場が閉鎖になると、多くの仲間がこの町を去って行った。毎年開催される青年団主催の同窓会
には、去って行った昔の多くの仲間が参加した。淳平も父親が工場長だったため、両親はこの町に
はいなかったが、同窓会には起業する前に何度か参加したことがあった。ミキが淳平の姿を見つけ
ると、彼の傍らまで行って互いの近況を報告し合った。
「こっちに来て、どれくらいになるのかな・・・・」
 淳平は再びカレンダーの方に目をやった。
「まだ、仕事の方は覚え切れていないわね・・・・」
「もう、一年もいるような気がするよ」
「でも、帳簿の日付は三ヶ月前で止まったままよ」
「山に登るまでには時間がかかるけど、転落する時は一瞬だからね」
「自分の会社のことをいってるの?」
「ミキを巻き添えにするわけにはいかないよ」
「もう、この会社はだめだっていう意味?」
「いや、まだあきらめたわけじゃないさ」
「だったら・・・・」
「ミキの気持ちはわかってるよ」
「いや、わかってないのはあなたの方よ、ジュン」
 淳平は思わず苦笑しながら足元に視線を落とした。
 工場が閉鎖になって数年後に開催された同窓会の時、工場出身の仲間の依頼で、翌日、数台の
車に分乗して、その後の工場の状況がどうなったのかを見に行くことになった。同窓会に参加した
工場出身者の約半数ほどは、地元の高校を卒業した後、この町の工場に就職していた。淳平の父
親も自分の息子を、ゆくゆくは工場に就職させて経営者の道へ進ませるために、まだ子供の頃から
帝王学を授けた。淳平もまた将来自分は、父親の跡を継いで工場長になるものと信じて疑わなかっ
た。彼が、父親の会社が本社が東京にあって、全国に工場を持つ上場企業であり、父親もその会社
の一従業員にすぎないことを知ったのは、小学校に入学してからかなり経った後のことだった。
「この事務所にまだ社員がいっぱいいた頃は、会社を大きくすることだけしか考えていなかったよ」
 淳平が後ろを振り返って、誰もいない机を一つ一つ目で追った。
「会社が傾いて店が半分にまで減った時、やっと気がついたんだ・・・・」
 淳平は応接室の壁の横に置かれた、電源の入っていないタイムレコーダーをじっと見つめた。
「会社を大きくするのは何のためなのかってね・・・・自分のためなのか、社員のためなのか・・・・」
 淳平は視線を戻して、窓の外に広がる夜空に目を凝らした。
「店が半分に減って、社員も半分に減ったよ。おれが首を切ったんだけどね。辞めたくて辞めていった
わけじゃない・・・・いや、全員じゃない。自分から辞めていった人間もいるけどね」
「それは会社を存続させるためでしょう?」
「もちろん、それは全部おれの責任だよ。会社を大きくするのは自分の夢でもあるけど、会社を起業
すれば、経営者としての責任が生じてくるからね」
「だったら、余計頑張るべきじゃない、社員のためにも」
「会社を存続させることは、社員のためでもあるけど、その責任は社員に負わせることはできないと
いうことだよ」
「でも、仕事をしている以上、社員にも自分の仕事に対する責任というものがあるんじゃない?」
「ミキ、それがどんなに会社にとって必要な人間であっても、その社員が辞めていくのを引き止める
権利は、社長にはないんだよ」
 同窓会の翌日、ミキは自分の車に、同窓会に出席した工場出身の仲間を乗せて、工場の敷地へ
と向かった。工場を買い取った企業が、まだ操業の目処が立っていなかったため、敷地内に人影は
見当たらなかった。ミキは住宅街をゆっくり回りながら、淳平が住んでいた社宅の手前まで来て車を
止めた。住宅の庭や道路の周辺には、膝にかかるほどまで伸びた雑草が鬱蒼と生い茂っていた。
淳平は助手席の窓から、暫くの間住宅の回りを見つめていたが、車から降りることはなかった。
「会社は誰のもの?社長一人のものなの?・・・・会社の責任は社員全員が負うべきものじゃない?」
 ミキは窓ガラスにそっと指を触れながら、窓の外を見つめた。
「まだ、三日あるわ・・・・」
 ミキは一日中パソコンの画面を見ながら仕事をしていて目が疲れてくると、何度か目を休めるため
にこの窓辺に立った。ビルの正面には都心環状線が走り、その通りと交差する道路が都心の中心
部へと伸びていた。すでに何度も見慣れたこの東京の夜景も、今日はなぜか彼女の目に美しく輝き、
失い難いもののように思われた。
「まだ終わったわけじゃないわ・・・・」
 ミキは踵を返して、自分の机に向かって歩いて行った。
 
                       (以下次号)