◇ 大東亜戦争の遠因となった人種問題
◆ 支那人“移民排斥”から日本人“移民排斥”へ
昭和天皇が指摘された「加州移民拒否」、即ちカリフォルニア州における日本人移民の排斥には、実は前史がある。
日本人移民の前に、支那人や他のアジア人も同様にして排斥された歴史を持っているのである。
十九世紀中葉のゴールドラッシュによって、カリフォルニア州には人口の十%にも及ぶ支那人が、苦力として投入されていたが、ゴールド・ラッシュの終焉と共に白人労働者との摩擦が激しくなり、一八七〇年代から支那人排斥運動が始まった。
「西部の鉄道の枕木の下には、中国人の骨が一つずつ埋められている」と言はれるほど、彼らはカリフォルニア州の開発に貢献したにも拘らず、用済みになるといとも簡単に排斥されていったのである。
かうして一八八二年には「中国人移民排斥法」が成立、二十年後には米国は、新たな中国人移民を米国から悉く閉め出すに至った。
明治政府の積極的な海外移民奨励策もあつて、一八八〇年代以降、米国への日本人移民は入国を禁止された支那人とちょうど入れ替はるやうにして増加し、特に二十世紀に入ると毎年一万人単位で米国西海岸に流れ込んでいた。
これに対する排斥運動も、既に一八八七年(明治二十)頃から起きていたが、その最初の大きな事件となったのが、日露戦争に日本が勝利した翌年、一九〇六年(明治三十九)に起きたサンフランシスコ学童事件である。
白人の小学校に通学していた日本人・韓国人児童を、市教育委員会が東洋人隔離学校に強制転校させようとした事件である。
この時ルーズヴェルトは、市当局に対して、次のやうな説得を行った。
日本の文明は最近五十年間に著しく発達し、欧米の一等国と同一水準に到達した。
現にサンフランシスコ市はつい先日の大地震で日本より多額の見舞金を受け取ったばかりではないか。(この時の日本からの見舞金五十万円は、他国全てを合せた額よりも多かった。)「そのサンフランシスコが日本人学童を排斥するとは甚だしい愚挙であって、…人道および文明のため日本人を公平に取り扱う必要がある」。
このやうに大統領は述べ、必要とあらば武力を行使するとまで威嚇して、市当局に撤回を迫ったのであつた。
これだけ見ると、如何にもルーズヴェルトは日本に好意的であったやうに見える。
しかし、ルーズヴェルトの真意は別のところにあった。
市当局に対して、
「日本移民排斥に関しては同感である。
だが、日本人の感情を害しない方法をもってこれを排斥する方法もあろうではないか」。
まづ事件の生起した一九〇六年十月、日本より抗議を受くるや直ちに彼は、対日戦争について共同研究を開始した。
これこそ「オレンジ計画」と云はれる米国の対日戦争計画を始動させる端緒となったものに他ならない。
サンフランシスコ学童事件から一年ばかり経った一九〇八年三月、日本側は新規移民を自粛することを強ひられた。
しかし「日米紳士協定」によっても、排日運動は沈静化しなかった。
一九一三年(大正二)になると、カリフォルニア州議会は「排日土地法」を成立させ、日本人移民の土地所有を禁じ、借地も三年間に制限するに至った。
更に第一次世界大戦中の一九一七年には、連邦政府は中近東を除く全アジア人の入国を禁ずる新移民法を公布した。
日本だけはこれに抗議して同法の適用を免れたが、これによって中国に引き続いて今また、アジア諸国が皮肉なことに自由の国米国から閉め出される結果になったのである。
尚、第二次世界大戦中でも、独伊からの移民は排斥されなかった。