◆ 日露戦争の与えた世界的影響

 レーニンの“お墨つき”は占領軍によって削除され、『前衛』誌上からはその部分だけが脱落し、日本人の目には触れることがなかった。

削除理由は「国家主義的宣伝」

 第四に、日本の勝利は全アジアの覚醒と、意識的政治的大衆闘争への決起の直接の発條となった。
 レーニンはいう……

 

 ヨーロッパ人はアジア諸国の植民地的掠奪によってその一つ、日本を、それに独立的国民的発展を保護せる偉大なる軍事的勝利に対して鍛えあげた。

イギリス人によるインドの一世紀に亘る掠奪が…、アジアにおける数千数百万のプロレアリアドを、抑圧者に対する同じ(日本人の様な)勝利的闘争に対して鍛え上げるであろう事は少しも疑いない。

 

 日露戦争の影響は、インドペルシャばかりでなく、中国、フィリピン、仏印、ジャヴア、およびビルマにおける民族解放運動の偉大な指導者孫文や国民党の長老胡適の諸文書はもとより、その他のアジア民族運動の指導者達の書簡や伝記からさえ立証されるのである。
 孫文はその最晩年(一九二四・大正十三年)に神戸で行った講演「大亜細亜主義」の中で次のやうに述べている。

 

 日本が露に勝ってからは、亜細亜全体の民族は、欧州を打被らうと考へ、盛に独立運動を起しました。

即ち、エジプト ペルシア、トルコ、アフガニスタン、アラビヤ等が相継いで独立運動を起し、やがて印度人も独立運動を起す様になりました。

即ち日本が露国に勝つた結果、亜細亜民族が独立に対する大なる希望を抱くに至ったのであります。

 

 孫文の秘書兼通訳であり、蒋介石の顧問でもあった載天仇は、次の如く論じている。

 

 …当時露国勢力の南下は日々に甚しかったから、若し日本にして北進に努力しなかったならば唇亡びて歯寒く、満洲を占領した露国は進んで朝鮮を取ることは必然であり、かの腐敗せる朝鮮王室と両班とは露国の一蹴に当り得べき筈はない

従って日本の北進は実際に於て止むを得なかったものと言ふことが出来やう。

(中略)
 …此の大事件[日露戦争]は全世界に絶大なる影響を与え、日本戦勝の結果東方民族は西方民族に勝つ能はずとの迷夢を打破したと共に全束方民族は溌剌たる活動を開始し、世界民族革命の新潮がここに湧起した。


 インドの英雄チャンドラ・ボーズは昭和十八年に来日し、次のやうな日本国民への挨拶を残して日本を後にした。

 

 今から約四十年前、私がようやく小学校に通い始めた頃、一東洋民族である日本が世界の最大強国のロシアと戦い、これを大敗させたというニュースが全インドに伝わり、興奮の波がたちまち全インドをおおった。

いたるところ、旅順攻撃や奉天会戦や、日本海海戦の勇壮な話で持ち切りであった。

私達インドの子供たちが、東郷元帥や乃木大将を思慕し尊敬し始めたのもその時からである。

また日本からは、岡倉天心のような先覚者がインドを訪れ全アジアを救うべき精神を説いた。

じつに岡倉氏こそ「アジアは一つなり」と道破した一大先覚者であった。

(中略)
 私は皆様の御厚情に対し、心から感謝している。

私は四億のインド人に代わり、皆様と同じ東洋民族であるインド人が、この恩を決して忘れるものでないことを確信をもって申し上げる。

 次にインドネシア。

独立運動家にしてインドネシア独立後の初代共和国外相に就任したスバルジョは、その回顧録の第一章冒頭を次のやうな印象深い記述で始めている。

 

 日本が一九〇五年に日露戦争で勝利をおさめて以来、アジア全域で民族主義的精神が広まった。

(中略)
 一六世紀初めから一九世紀末にかけての世界史は、西欧列強が“日の当る場所”を求めて際限のない争いを展開した恐るべき絵図でいろどられている。

(中略)
 そして四世紀にわたる政治的、経済的な拡張で手にしたすべての業績が、わずか半世紀の間に高まりをみせた民族主義の潮流によって滅亡に追いやられた。

(中略)

 ポーランドも第一次大戦後の一九一八年、やうやく独立を果すことになるのであるが、四年後の一九二二年、当時国際連盟事務局次長であつた新渡戸稲造は、ポーランド独立運動の志士にして、独立後は共和国の元首的地位にあったピウスッキから、意外な話を聞き出している。

 

 あの日露戦争はポーランドの今日をあらしめる重大なる階段でありました、私は日本が必ず勝つことを期待していた。

 

 実はピウスッキは明治三十七年(一九〇四)七月、日露戦争勃発直後に来日し、ポーランド独立軍を組織して背後からロシアを突く為の武器並びに財政援助を、日本軍に依頼していた。

この計画は失敗に終ったが、帰国後ピウスッキは日露戦争を徹底的に研究し、ポーランド独立のための私兵を全くの自力で組織し、第一次大戦勃発と同時にその一七二名の私兵で対ロシア独立闘争に決起した。

レルスキといふ人の『ポーランドと日露戦争』は、かういふ記述で結ばれているさうである。

 

 ピルスーツキイ元帥は、一九〇四年の日露戦争から二十年経過した時、それに参加してまだ存命の[日本人]高級将校たち二十一人に勲章を贈った。

(中略)
 彼の日本にたいする同情と尊敬の、永続的つながりは、まことに全ポーランド人がわかち持っているところである。
     

 フィンランドは、一見日本とは縁遠い国のやうでもあるが、北欧では唯一、アジア系(モンゴル、満州ツングース族)に属する民族である。

十九世紀初頭にロシアに占領されて以来、ロシア帝国内でフィンランド大公国として一応の自治を保障されていたが、次第に民族的覚醒が起り、一八九四年にはフィンランド民族の歴史と伝説を集大成した『カレワラ』が刊行され、十九世紀末には急激なロシア化政策に抵抗する民族独立運動が一気に高まった。

そんな折しも勃発した日露戦争における日本の勝利は、フィンランド人を狂喜させるものであった。

元大統領のパーシキビは自身の思ひ出を次のやうに綴つている。

 

 私の学生時代、日本がロシアの艦隊を攻撃したという最初のニュースが到着した時、友人が私の部屋に飛び込んできた。

(中略)

彼は身ぶり手ぶりをもってロシア艦隊がどのように攻撃されたかを熱狂的に話して聞かせた。フィンランド国民は満足し、また胸をときめかして、戦のなりゆきを追い、そして多くのことを期待した。

 ポーランドやフィンランドの現代史の教科書では、同国独立との関連で日露戦争に詳しく言及することが今日でも普通に行はれてをり(筆者監修「教科書から見た日露戦争」展転社を参照されたし)、当時は生れた子供にノギ、トーゴーと名前を付けるフィンランド人も多かった。

どうしてフィンランドでと首を傾げる日本人も多いのだが、かゝる歴史的経緯を知る者には、肯ける話なのである。
 また、日露戦争は遠くアフリカ諸国や米国のアフリカ系黒人にまでも影響を及ぼした。

自身、その一人であるレジナルド・カーニーは、日露戦争について次のやうに述べている。

 

 ただ単に、ロシアをやっつけたというだけではなくて、白人が有色人種を支配するという神話を完全に打ち砕き、「他の呪われた有色人種たち」の秘めた力を引き出すきっかけを作った。それが日本だったのだ。

(中略)
 …つまり「黒人のなかの、ヨーロッパによる略奪と搾取からアフリカ大陸を取り戻す意識をふたたび目覚めさせる」時代の到来を予期させるもの、それが日本の勝利だったのだ。

(中略)
 この戦争を契機に、黒人は日本人が自分たちと同じ有色人種だという同胞意識を、強く抱くようになった。


 かくして日露戦争は、単に東亜諸国の独立運動を促したといふに止まらず、欧米列強の醜に苦しむ全ての人々に、それに抗して立ち上がる勇気とカとを与へたのであった。