豊田湖畔にはなかなか面白いところがあり、いつかしっかり調べてみたい。
それは、安徳天皇の御陵墓の参考地。
しっかりと宮内庁が、入ってはいけません、と言っている。
きっとそれなりに管理しなくてはいけない重要な史実があるのだろう。
小ぶりな前方後円墳(なのか?)が描かれていて、
こんなふうに、
確かに、墳丘のへりにも見えて、それっぽい。
昔はもっときちんとした形を保っていたそう。
安徳天皇と前方後円墳では時代が違い過ぎるので、
興味を持っていろんな方のブログなどを読みまくった。
本当に古墳時代から存在している墳墓なのか、はたまた、本当に安徳天皇を埋葬し、その際に当時の人が墳墓として、あえてこの形に造ったのか??
豊田湖のある地吉には、大石という地名があるが、おおいしにはもう一つ、王居止、天皇様、という地名がある。
豊田湖は人造湖で、地吉の平野は1955年に沈んでしまった。観音寺という地も沈むが、その付近には天台宗の寺院が多く点在していた。桓武天皇が806年に国の宗教にし、皇族に縁のある天台宗。この地域も昔から何か関係があるのかな?
安徳天皇は、1185年(寿永4年)3月24日に源平合戦最後の舞台、壇ノ浦でおばあさんの二位の尼に抱かれて入水。源氏方は、三種の神器の内、神剣だけが見つからない。きっと安徳天皇と共にあるのだろう、と長門国の漁師達を使い大捜索。
大津郡(長門市)の漁師の網に安徳天皇の遺骸がかかった。でも、神剣はない。
漁師さん一向は、密かに安徳天皇を埋葬するべく、陸路で大津郡三隅まで帰ることになった。
その途中、ここ地吉(当時丸尾山)を適地として御陵墓を造ったらしい。
もし昔からの古墳があったのなら、街道を行く人々は丸尾山の古墳を眺めていただろうし、高貴な方の伝説もこの土地にはあったのだろうなぁ。
地吉は1080年頃に豊田氏が開いたらしいのだけど、もし本当に、前方後円墳があったのだとすれば、倭国と協議し同盟を結べるほどの国、あるいは高貴な方がいたのだろう。口伝でその伝説もあったのかもしれないなぁ。
なので、ここを適地としたのかな?
御陵墓のすぐ近くに、光雲寺という寺院があり、永く御陵墓を大切にしていたのだそうだ。
御陵墓と光雲寺の前の街道は、長門深川(ふかわ)の正明市(しょうみょういち)から小月への赤間関街道北道筋で、当然、当時は安徳天皇西市御陵墓もそれなりに有名だったのだろうなぁ。
木戸孝允の詩碑があり、
渓流捲巨石
山岳横半空
寿永陵辺路
断腸杜宇声
とある。
ダムに沈む前の、木屋川の逞しく清い流れや、地吉を囲む深い山々と青空が目に浮かぶようだねぇ。
治水も大切だけど、失われた史跡や生活は実に勿体ない。