あゆみです
3月11日。
わたしにとってあの出来事は
死生観が明確になった出来事だった。
わたしは当時
「一日一生」
という言葉をブログに書いた。
そう、1日を一生のように生きる。
それはひとことで言えば
いつ死んでも後悔しないこと。
このいつ死んでも後悔しないというのは
やりたいことを全部やったら
そうなるというものではない。
道半ばだったとしても
いや、道半ばで、生涯を終えるのは
むしろしあわせなことじゃないかと
わたしは思う。
わたしは、ウェッジウッドのワイルドストロベリーの
食器が大好きで、全部揃えたいと思ったことがある。
ウェッジウッド貯金とかしてね。
だけど、震災からしばらくしたとき
まさにウェッジウッドの食器が
フルセット並んでいるのを百貨店で見て
震災前とは思いが違った。
「こんなの買って、明日震災がきたら意味ないよね」
ものを所有することに虚しさを感じた。
だけどね、いまは
ウェッジウッドを買って翌日全部割れてしまっても
たとえば印税でそれをオトナ買いする経験なんて出来たら
すごくしあわせじゃないかなと思う。
ウェッジウッド貯金とかしてて
災害に遭ってそんなの買ってる場合じゃなくなった。
人生が、終わってしまった。
それは無念なことか?
よし!手に入れよう!と思えることは
しあわせじゃないかなとやっぱり思う。
わたしは、いつ人生が終わってもいいと思ってる。
いろんなひとと話してると
原発が怖いとか
また地震が起こるかも知れないのが怖いとか
聞くことがあるけど。
わたしは、こう思ってる。
そのときはそのとき。
もちろん、今終わったら
志半ばのことばかりだけど。
なにかを成し遂げたから
悔いはなくなるわけではないってことをわたしは知った。
志半ば、それこそが未来であり希望。
ただ、自分に恥じない自分でありたいと思う。
「あなたは、いまもしあわせに向かってる」
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この本の最後にそう書いてる。
わたし自身もいつもそう思ってる。
こうなりたいってしあわせは
心の中にあるけど
道半ばというのは
そこへ向かうしあわせロードなんだ。
それはある意味しあわせまっただ中。
だから、この1秒も今の一瞬も
誰かにとって意味がある言葉を
生み出せる自分だといいな。
きれいごとに聞こえるかもしれないけど
そう思うんだ。
本を書いてることは
とってもしあわせだと思う。
自分がそのひとの目の前にいなくても
自分の本をどこかで手に取ってくれてるひとが
いまもいるかもしれないのだから。
いつ終わってもいいように一日一生で生きる。
それは、いまを、自分を生き切ること。
そうしたらね。
最後にはありがとうしか残らないと思うんだ。
あなたの死生観は、どんな感じ?
読んでくれてありがとう、またね