ヒロシもびっくりだが、家族もかれこれびっくりだった。

電話一本で「ヒロシともわかれ、仕事もなくした。来週からしばらくタイへいくので、いつ帰ってくるか分からない。が私は大丈夫。」と伝えた。

とても年頃の女の子が言うとは思えないくらい、親泣かせの台詞だ。

そんなことをしてる間に、あっというまに飛行機で東南アジアいり。
そこで私の孤独なアジアン生活がはじまる。

特に仕事をする訳でもなく、毎日を静かに過ごした。静かといっても、日本の静けさとはまたちがう。

誰も知っている人がいないなんてなんて静かで穏やかなんだろう。寂しさは着いたばかりの私にはしばらく必要なかった。

おまけに携帯も通じない。もってきた古いノートパソコンが唯一の私の日本との架け橋でもあったのだ。時々、さみしくなったらSKYPで日本の甥っ子と話をして盛り上がっていた。無料でテレビ電話ができるのだからいい時代だ。

日本とは画面が通じているのに、どこでもドアの向こうのような異国のわたし。

なんだか特別な場所へこっそり隠れている気分で、まだ当時3歳の甥っ子にさえ優越感を感じだ。


大切な人にしか私の居場所はおしえてなかった。それは、当時の私には心地の良いことであった。

なぜ東南アジアを目指したのか。一度リセットするには、蒸発できそうなくらいの暑さが必要だったのかもしれない。

その多くをタイで過ごした。


知っている人と言えば、人間の友達が現地に1人いただけで、あとはすれちがう自然の猿たちと会話もどきをする毎日だ。

東南アジアの熱帯地。そんなところでいったい毎日何をしていたかというと、ひたすら走る。泳ぐ。踊る。

うれしいことに、ネイルやマッサージなどの美容も料金がうんと安く、もちろん毎週かかさなかった。

しまいには、友達作りも必要かと、ジャズダンス教室にも通い始めていた。

環境の変化にすぐ対応できる性質のわたしだからなのか、だれでもそうなのか住むのには何一つ不自由しない。

これでもかというくらいの運動量と汗の量だった。みるみる日に焼け、そこには鏡に映る健康的な私がいた。筋肉も徐々に目立ってきて、気づけばたくましい足になっていた。

ほとんど毎日プールへはいり、常夏を十分楽しんだ。時計なんて必要なく、お腹がすけばご飯を食べるし、日が暮れたら床に着く。

まるで原始人のような生活をしていた。

こんな私でも、まだヒロシのことは気がかりだった。

尋常ではない暑さが多少は忘れさせてくれるが、それもずっとは続かない。
だから走って泳いで、なにか別のエネルギーにかえようとしていたのかもしれない。

実はヒロシの部屋を去る時、ヒロシへなにも手がかりをのこさなかった。
きっと私のいない部屋をみて、驚き、泣くだろう。

そしてヒロシは全く私がどこへ消えたか皆目わからなかっただろう。

用心深い私は、念のため、ヒロシをしっている私の友達には口止めをしておいたのだ。案の定、ヒロシは心配のあまり、私がどこへいったのか聞くために友達のひとりへ連絡をした。

その結果、私との約束を守り通した、なにも知らないふりをした友達は今でもヒロシに嫌われているらしい。


ヒロシのもとは離れたけれど、ここでこの地にきたことは十分意味があった。ヒロシへの感謝を再確認し、こんな現実逃避的な行動さえもさくっとこなしてしまう。





あのとき5年前ヒロシとであわなかったら、と思うとぞっとした。
どこかの農家に嫁にいき、畑を耕していたかもしれない。今年はみかんが豊作だ!とよろこんでいたかもしれない。

たった5年前の私には5年後こんなことが起きてるなんて想像もできるはずがなかった。だってまだ未熟だったもの。

ヒンズーの教えでこんな言葉がある。いろんな自己啓発で使われているが、まさにそうだ。

心が変われば、態度が変わる。
態度が変われば、行動が変わる。
行動が変われば、習慣が変わる。
習慣が変われば、人格が変わる。
人格が変われば、運命が変わる。
運命が変われば、人生が変わる

私はまさにこのすべてがヒロシにあって変わった。まずは心からだった。
そしてうれしいことにこの変化にプラスして私はヒロシのおおきな愛があった。

ヒロシは今までつきあった中でも、誰よりも一番私を愛してくれて、誰よりも成長させてくれた。
やはりなんといっても彼の愛が私を女にさせた。女に作り上げてくれたのだ。

だから今の私がある。

ヒロシ、本当にありがとう。ヒロシに会えて本当によかった。ヒロシという宝くじにあたったのだ。
これは大当たりだ。前後賞もついてきた。

今度恋するなら、こんな恋がいい。

思い出が星になるまで、まだまだ時間はかかりそうだ。







怪奇的な例のセミナーが終わったあと、興奮気味の私はなにか得体の知れない満足感に打ちひしがれていた。
そして、なんだかわからないがさっぱりとしたすがすがしい思いがしていた。

そんな頃、ちょうどヒロシの病院でもいろいろトラブルがあり、私自身、仕事を続けようかどうしようかと迷っていた。

セミナーが終わって、いろいろ自分のことを振り返ったのだ。
2週間後ふと「思い切った行動」がしてみたくなった。

私の人生、このままでいいの?

ともう一人の自分が私に声かける。

なんだか全部リセットしたい気持ちになった。家も、恋も、仕事もぜーんぶ。


そのときにはすでに行動に移していた。

ヒロシに別れを告げ、あっという間に引越し業者にまで移動を告げた。

このスピード感は今まで引越しを15回ほど行ってきたことがあったが、生まれてはじめだ。

もともとヒロシ名義の家なので、ヒロシの家具などはそのままおいて、自分の必要な荷物や家具などを一式夜逃げのようにヒロシのいない間にこっそり運び出した。

私の決意はそうとう硬かった。ヒロシがなんといおうと、私の決心はゆらがなかった。自分でも今までにこんな私見たこと無いというくらい、硬かった。

そして鍵とヒロシへの感謝の手紙だけを残して私は去った。

今まで5年近くものお付き合いをして別れはこんなにまであっさりなのかと、恋の不思議にまたひとつ成長したような気がした。それをなんとなく悲しくも思った。

ヒロシとおつあいをしていたという5年もの定義がなかなか、私の頭の中で変えられず何度も何度も泣いた。

決してヒロシと別れることを望んでいたわけではなかったが、そうするほうがいいのでは・・・と決断したのだ。

そして私は家も仕事もヒロシもなくした状態、体1個で再スタートの29歳だった。

どこへ去ったかというと、しばらく日本を離れ海外へ。
東南アジアへしばらく移住することにしたのは2006年8月のことだった。

ペンションなんて、私もヒロシも泊まったことがなく少しうきうきだった。ところがこんな気持ちも、到着するなりげんなりしてしまうことになる。

狭いベッドにとても清潔とは言えないお布団。隣の声も良く聞こえてくる。

唯一もの救いは、さすが湯布院。露天風呂だけは情緒あって素敵だった。

と考え直してみたものの、どう考えてもいい初夢は見られそうもなかった。

そして翌朝元旦をなじみのないペンションで迎える。

食事は部屋ではなく、もちろんペンションらしく食堂でみんなで頂く。
手作りの素朴な朝食とおばさんのつくり笑顔で微妙な気分だったが、雪のつもった道を歩けるように近所の人が整えてくれた歩道がなんとなく昔を思い出し、そのあたりを散歩したりするとなんだか不思議と癒されてきた。

そしてその日は偶然にもキャンセルがでた旅館で元旦の夜を過ごすことになる。昨日の今日で、苦労してとった宿だったので、余計にずいぶんいい旅館に感じる。

こうやって二人は、予約を何ヶ月も前にした他の宿泊客にまみれて、何事もなかったようにゆっくりと正月休みを楽しんだのであった。

この思い出は今でも忘れられない経験となった。
怪しいペンションも、旅館も死ぬまで忘れないだろう。

ここでは、私にもサバイバル精神が備わっていることに気づき、最初から無理と思わずに、やれば何でもできるということを学んだ。

思い切った行動もわるくないな。と心底思った。

こうやって、船でヒロシが眠っている間に、私は問題解決力を知らぬ間に体得させられた。

これからはヒロシ主将と呼んだほうがいいかもしれない。

弟子は主将が眠っている間に、ミッションを見事にやり遂げたのだ。これもヒロシの私を育てる計算なのだろうか。もしくはたまたま湯布院に行きたかっただけなのだろうか。

それは未だに謎である。