先日京都で集団登校時に無免許の若者が居眠り運転をして、大きな事故を起こしたことが報道されたが、また今日2件の小学生の登校時の事故があり、一件は、小学生の死亡者を出す事故
であった。

集団登校の通学路をより安全なところに変える等の対策をしたらしい。それに同調するように、テレビでは、随分通学路の柵の設置等を声高に主張するキャスターやコメンテイターを見た。

しかし、危険な場所というのはどこにでも存在する。すべて道路に柵付きの歩道を設置することはできないし、設置したとしても、通学路以外の道を子供達が通ることもあるだろう。もちろん対策としてある程度有効であるとは思うが、それが教訓だとすると、なにか釈然としない。

これらの事件の背景に二つのことを思う。

一つは車の陰の部分への認識不足である。
自動車は年間数千人を殺すのであるから、凶器であると言っても過言でない。原発であろうが、手抜き工事であろうが、覚醒剤であろうが、どれだけの社会悪であろうが、結果的に車ほどの負を生み出すものはない。自動車はメリットも大きいがそれに伴う、デメリットも抜群だ。

車の運転者は、ある意味凶器を振り回しているという自覚が足りなすぎるのではないか。慎重に運転していても人を殺める道具を扱っていることを忘れるべきではない。私もあなたも、もちろんいつでも加害者側になりうる。

もう一つこれらの事件の背後に感じるものは、自動車を運転する人の道徳の欠如である。無免許で運転をしないというのは道徳などとはかなり離れた低次元のことなので、それには言及しない。

忘れがちであるが、運転している時点で、歩行者と比較にならないほど、強者である。仮に、いくら車側が交通ルールを遵守して歩行者に非があった事故であったとしても、歩行者が助かり運転者が死亡することはない。物理的に圧倒的に強いのである。

社会の道徳として、強いものは弱いものを助けるべきであろう。これに異を唱える人たちが増えているが、もはや異を唱える時点で問題である(このことについてはいつか書いてみたい)。

歩行者が横断歩道で待っていても停まらない、狭い路地で歩行者を怖がらせるような運転をする、ハンディーキャップのマークがあるスペースに駐車するなどは、すべて、事件とまでは言えないが、延長線上に今回の事件があると思ってしまう。
少し前のことだが、24歳のシングルマザーが男友達との遊行などを理由に、3歳(桜子ちゃん)と1歳(楓くん)の幼い我が子をマンションに置いたまま、50日間帰宅せずに餓死させた「大阪2児虐待死事件」の判決公判が大きく報道された。エアコンも電気も水も食料も無い環境で、母を求め、しかし叶わず、餓死に至った幼い命達の苦痛や無念さは想像を絶する。未熟な被告の社会的責任や生い立ちに言及する報道が多かった一方、この家族以外にも当事者がいることを、そのときの報道で知った。事件が起きた同じマンションの住民たちである。

幼児の鳴き声などを耳にしながら、結局幼い命を救えなかったという自責の念を共有したマンションの住民たちは、事件の後、それまで名前を知らないどころか挨拶さえ交わさなかった人たちと、定期的に交流会を開いているとのことだった。

亡くなった小さな命達にちなんで桜楓会と名づけられたという。

事件やもめ事、いや、もっと小さな気分を害する程度の些事は、日常的に起きうるが、周囲とのコミュニケーションで、多少は予防できるのではないかと問題提起されたような気分になる。欧米由来の個人主義と、日本古来の村社会分化との狭間に立たされているようでもある。
特に原発のコラムではないのだが、今日ももう少しこの話題を続けてみたい。

日進市の対応は事大主義だったと批判されても仕方がないが、彼ら自身が潔く「判断ミス」だったと結論づけたようだ(朝日新聞の記事)。

本心は「花火をやっておくべきだった」とのことだとすれば、単なる辻褄合わせの謝罪以上の誠実さを感じる。


一方、市民の反応を考えたい。

京都や福岡で同じ事件があったことを思えば、西日本に住む住人のいくらかは、放射線とは無関係で暮らしたい。放射線というやっかいなものを持ち込んで欲しくないと考えていると断定しても不合理な解釈ではないだろう。

この件に関して、昨日、「蔓延する自己中心的な考え方」と書いた。

米国の資本主義的思想は、今完全に日本に侵食している。
資本主義とはつまるところ、共同体的な利益の追求より、個人の利益の追求を求める構造にならざるを得ない。日本経済は、バブル以後の弱体化の中で完全に米国にマネとまではいかないが、その思想の延長線上にあるといえるだろう。

少し例を挙げてみよう。

米国では、クレームなどを引き受けるカスタマーサービスは充実していない。不満足な商品やサービスに対しては、嫌と言うほどたらい回しにされ、とても時間がかかる。かつての日本は、顧客がクレームをするために電話して待つことなどなかった。それなりの人的経済的投与があったはずである。しかし、最近極めて米国的になったと感じる。顧客の満足より、はるかに、営利の追求は重要であると言わんばかりである。

つまり、我々の今住んでいる社会は、もう戻れないほどの資本主義に浸かっていて、その資本主義も完全にアメリカに存在するそれである。その結果、都会では既に個人主義が蔓延しており、今後、地方にも波及するであろう。


今回の西日本の住民の原発への対応は、蔓延するアメリカ主義とも云うべき資本主義を軸とした個人主義と無関係ではないと言いたくなるのである。