『論語』の中から好きな言葉をピックアップし、
思いつくままに感想を添えてまいります。
読み下し文と現代語訳は、
『論語』金谷治訳注(岩波文庫)から引用します。
読みづらいと思われる漢字には括弧でルビを挿入します。
旧漢字に変換できない場合は新字体に置き換えます。
ネット上での読みやすさを考慮し、適宜改行します。
……◇……◇……◇……◇……◇……◇……◇……◇……
『論語』巻第二
里仁第四
子の曰(のたま)わく、朝(あした)に道を聞きては、夕べに死すとも可なり。
先生がいわれた。「朝〔正しい真実の〕道が聞けたら、
その晩に死んでもよろしいね。」
……◇……◇……◇……◇……◇……◇……◇……◇……
ここでいう「道」とは、物事の真理とか、道理とか、
あるいは真理に基づいた生き方とか、
そのような意味にあたるのでしょうか。
真理がいったいどういうものなのか、
何をもって真理と考えればいいのか、
そもそも真理というものは存在するのかどうか、
人間の観念の中だけの問題ではないのか、
あるいは宇宙を貫く法則は本当にあるのかないのか、
知恵の浅い私にははっきりとは分かりません。
しかし、「何が本当なのか?」と問いかける気持ちは、
少年時代から現在に至るまで、
ずっと心の片隅にあり続けている気がします。
生きている間にどこまで知ることができるのか、
あるいはできないのか、
どこまで知れば納得できるのか、
あるいは納得できないのか、
とにかく考え続け、勉強し続け、
行動し続けていくしかないのでしょう。
さて、最近、角川書店がかつて発行していた
「鑑賞 中国の古典」シリーズ第2巻の『論語』を借りて読みました。
私がブログを書くのに使用している岩波文庫版には申し訳ないのですが、
読み下し文のリズムの良さは、角川版が勝っているような気がします。
口語訳の文章もまた、角川版のほうがしっくりきます。
もちろん、私の好みの問題でもあるのですが、
読んでいて「気持ち良さ」を感じるのです。
同じ節をそちらからも引用してみます。
子曰(いわ)く、「朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり。」
先生が言われた、「朝に〔正しい〕道を聞くことができたら、
その晩に死んでも心残りはない」
〈参考〉として、五十沢二郎という方の訳も併記されていました。
「真理に生きることを知れば、肉体の死の如きはもはや何物でもありはしない。」
いかがでしょうか?
少しの違いといったらそれまでのことです。
「子の曰(のたま)わく」も決して悪くはありません。
しかし、「子曰(いわ)く」とすっきり言い切ったほうが、
声に出して読んだときに気持ち良く感じられます。
また、角川版のほうは「音読」することを意識しているのか、
読み下し文の部分に関しては、すべての漢字に「振り仮名」が打たれています。
『論語』には難しい漢字が出てきますし、
(これはどっちの読み方をすればいいのかな?)と、
一瞬迷うこともちょくちょくあるので、
振り仮名があるのは非常にありがたく思います。
というわけで、さっそくアマゾンで角川版を注文しました(笑)。
絶版になっているようですが、
中古本が出品されていたので安く購入できました。
届くのが楽しみです。