マヌルネコ・弾圧された俳人の名誉回復を!   | 猫とバラ、演劇、美術、ガーデン、動物園のブログ

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前の記事の続編です。

 

 

 

 

弾圧された俳人の名誉回復と弾圧に協力した俳人の責任追及を - 一人ひとりが声をあげて平和を創る メールマガジン「オルタ広場」 (alter-magazine.jp)

一部引用

 

 そして1970年代からフランス政府は少しずつ過去の過ちを認めるようになり、同時に植民地の独立を認めたりして、国内でもより開放的な民主主義社会に向かうようになったといわれている。案ずるには、どんな国でも、将来の平和や民主主義の健全な発展を望むのであれば、まずは過去の軍国主義の暴走を、それに協力した公職や知識人の役割を、そしてその土台である表現の自由の弾圧というシステムを客観的に省みる必要がある。

 

 日本についても同じであろう。第二次世界大戦前の日本においては、表現の自由を無くしてしまい、軍国主義の暴走を可能にしたシステムの法的な要は「治安維持法」である。1925年に公布されたこの法律は次第に範囲が拡大され、1933年に小説家・小林多喜二の拷問による死をもたらし、1940年からはいわゆる「昭和俳句弾圧事件」を可能にした。当時は、俳句実作において、季語を使わなかったり、自由律を試したり、社会を詠んだりしたというだけで

 

(つまり日本の俳句の王道と定められていた「花鳥諷詠」の掟に従わなかったというだけでびっくりマークびっくりマーク)、新体制(軍事政権)に反する考えをもっていると疑われ、その結果、多くの俳人が「治安維持法違反容疑」で特高警察に検挙されることになった。

 

44名が検挙されびっくりマークびっくりマーク、ほとんどは留置所で数ヵ月に及ぶ尋問あるいは拷問を受けたり、無理矢理に自白手記を書かされたりして、うち13人が懲役2年(執行猶予3年ないし5年)の刑を受けたのである

 

なお、45人目として、日本在住のスイス人画家兼俳人コンラット・メイリ(Conrad Meili, 1895-1969)を付け足してもよいかもしれない。このメイリ氏の妻は、日本人外交官とフランス人女性の間に生まれた「キク・ヤマタ」というフランス20世紀半ばの著名な女性小説家である。びっくりマーク

 

「メイリは40日にわたる拘置期間中に暴力を受け、また関節リューマチと脚気を患ったため、釈放された後も長い間、歩くことすらままならなかった」という。以下一句を挙げよう。
   帰国又いく日遅るゝ落花かな
      C・メイリ、「ホトトギス」1947年4月

 

女性ならではの“レジスタンス魂”に心を打たれる。
   戦死せり三十二枚の歯をそろへ
      藤木清子  1939年

藤木清子はどんな人? わかりやすく解説 Weblio辞書

戦争と女はべつでありたくなし

 

当代の日本では、軍国主義や戦争の暴走を若干否定的に描いただけで、大変な覚悟が必要だった。例えば、「京大俳句」の旗手の一人・渡辺白泉びっくりマークは1938年から1939年にかけて反戦的と思われるような無季俳句を数句発表した。
   銃後といふ不思議な町を丘で見た  1938年
   戦争が廊下の奥に立つてゐた びっくりマーク   1939年
      渡辺白泉

 

 上記の虚子の聖戦俳句びっくりマークびっくりマークを検証すれば、ホトトギス主宰が小野蕪子を巧妙に操って密かに指示・発動許可などを出していたのか、それとも蕪子がただ師匠の機嫌をとろうとして動いていただけなのか、それがもっとも大事な問題ではないということ。弾圧事件が進行中でも、かつての俳友や才能ある俳人が次々と犠牲になっていく最中でも、一貫して虚子はその弾圧を行っていた軍部に対して、自発的に礼賛しつづけたことが最大の問題である。

 

 

 結論として、弾圧の被害者であり、懲役2年の刑を受け辛酸な経験をした栗林一石路の、敗戦後の言葉を引用する。「かつて戦争に協力した俳壇の多くは、何等の反省も告白もない」びっくりマーク

 

 

「戦争が廊下の奥に立つてゐた 」びっくりマークはさすがに有名で私でさえどこかで読んでいましたがこれほどの大勢の方が逮捕や弾圧うけていたとは、

 

川柳の鶴彬は映画にまでなりましたが。

 

川柳界の小林多喜二〈屍(しかばね)のゐないニュース映画で勇ましい〉

 〈手と足をもいだ丸太にしてかへし〉ガーン

 〈胎内の動き知るころ骨がつき〉

 

 

 

 

芋虫

 

当初は改造社の雑誌『改造』の依頼で書かれたものであったが、内容が反軍国主義的であり、さらに金鵄勲章を侮蔑するような箇所があったため、当時、左翼的な総合雑誌として当局ににらまれていた『改造』誌からは、危なくて掲載できないとして拒否された。このため乱歩は本作を『新青年』に回したが、『新青年』側でも警戒して、伏字だらけでの掲載となった[3]。延原編集長は掲載号の編集後記で「あまりに描写が凄惨を極めたため、遺憾ながら伏字をせねばならなかつた」と釈明している[4]。なお、この代わりに『改造』に掲載されたのが『』(『改造』1929年9月号 - 10月号)である[5]。また、戦時中多くの乱歩作品は一部削除を命じられたが、本作は唯一、全編削除びっくりマークびっくりマークガーンを命ぜられた[6]

 

アズの赤ちゃん