菅原文太氏と加藤剛氏、ツシマヤマネコ | 猫とバラ、演劇、美術、ガーデン、動物園のブログ

猫とバラ、演劇、美術、ガーデン、動物園のブログ

闘病中、18才、16才の母娘猫と暮らし美術や動物、演劇、旅、ガーデンが好きです

前の記事に続き、菅原文太さんのことを。

 

 

 

 

 

 

 

自由民権運動を描いた本作、大河の中でも

私には格別の作品です。

 

加藤剛さんも日本国憲法制定過程の「日本の青空」や「郡上一揆」など

 

1962年10月1日放映開始のテレビドラマ『人間の條件』びっくりマークTBS、全26話)で主人公の梶役に抜擢された。出演のため1年「休学」。同作品では「ぼくという裸身の素材にこの男(主人公の梶)の一生を忠実に刻み込んでゆくこと」で演じきり、原作者の五味川純平より「テレビ映画の優れた主演者」と評された[11]

同期の横内正は、養成所で加藤と初めて会った際、その美男子ぶりに驚いたといい「欠点のない男。こんな二枚目がいるんじゃ、かなわないと思った」と振り返り、「(俳優座の先輩の)平幹二朗さんは、仲代達矢がいる限り劇団で上にいけない、と思ったように、僕も加藤剛がいる限り上にはあがれないだろう」びっくりマークと、横内が後に俳優座を退団する決意をするほど存在が大きかった。 また、不思議な縁だが、加藤は「大岡越前」(TBS)を主演、横内は「暴れん坊将軍」(テレビ朝日)で同じ大岡役をレギュラー出演、「同じ役で“競演”しているつもりで演じていましたよ」と回想していた[13]

映画作品の遺作は2018年公開の「今夜、ロマンス劇場でラブであった。

 

  • たばこは吸わず、酒も飲まず、ギャンブルとは無縁である[18]
  • 戦争反対の一心で俳優を続けてきた[18]びっくりマーク
  • 高校時代、実家でチェーホフの戯曲を読んで俳優を志した[18]
  • 映画『砂の器』に出演した際、後に芸能レポーターとなった石川敏男が「僕は当時、宣伝部の助手だったので、宣伝のキャンペーンをお願いすることが多かったんです。10歳も年下の僕に対して、何でも“はい、はい”と聞いてくれましたね。決してイヤだとは言いませんでした。どんなに忙しくても、きちんと人の話を聞く方でしたよ」と語っている[19]
  • 家族でいる時間をとても大切にしており、京都で撮影があっても、必ず週末には自宅に帰り、子供を肩車をして家の中を回ったり、庭でかけっこをしていた[19]
  • 長男・諒は「声を荒らげて怒ったことは1度もありません。いい俳優になるということよりも、“人間として上質であること”、“人間として美しい生き方をすること”、“人に恥じない生き方をすること”を常に優先していたんじゃないかと思います。あれだけ嘘がない人はいないですね。人の悪口を言ったことは1度もなく、常にいい部分を見ていました。だから僕も怒られたことがなかったのかもしれません」「自分のやっていることと役のキャラクターが見事に一致した稀有な例ですよね。いい人の役をやっている人が、本当にいい人とは限らない世界ですから。父は大岡越前そのものでしたよ」と人柄を伝えている[19]
  • 長男・諒が独立して一人暮らしを始めた時、加藤は普段はしない買い物をして息子の家を訪ね「珍しいものがあったから買ってきたよ」「これは焼かないのに焼きそばができるらしいんだ。おもしろいからちょっと一緒に食ってみよう」とペヤングカップ焼きそばを見せた。諒は「珍しくないよ」と言いにくく、「ああ、そうなんだね」と2人でしみじみと食べた[19]
お父様は教育者。
厳格な明治の男ながら、家事を分担するリベラルさと進取の気性に富む人物だったびっくりマーク
 
大河で将門も演じた。出る作品もリベラルで大好きでした。
 
 

 

 

 

 

 

仙台市河北新報社記者をしていた菅原芳助(なお「狭間二郎」として洋画家詩人としても活動していた[† 1][† 2])を父に、1933年(昭和8年)8月16日水曜日)、宮城県仙台市に生まれた[8]。4歳から小学校4年までは東京府(現・東京都)育ち[9]

 

太陽を盗んだ男』の演技により、1980年、第3回日本アカデミー賞助演男優賞を受賞。テレビドラマでも活躍し、NHKの大河ドラマにも複数出演(#テレビドラマ)、『獅子の時代[4]では主人公の平沼銑次を演じた。劇場版アニメ『千と千尋の神隠し』や『ゲド戦記』にも声で出演。

 

 

早稲田大学第二法学部法学科に進学。在学中に中原淳一のモデルとなり、1954年(昭和29年)、旗揚げしたばかりの劇団四季に1期生として入団、初期の作品に端役として多数出演した。1955年(昭和30年)、早稲田大学を中退[11]。同年、KR劇団4期生の採用試験を受けるが落選[15]1956年(昭和31年)に東宝の映画『哀愁の街に霧が降る』でデビュー。1957年(昭和32年)に岡田眞澄・旗昭二・池田二郎ら総勢8名で、日本初の男性専門モデルクラブ・SOSモデルエージェンシー(ソサエティ・オブ・スタイル)を設立し、雑誌やショーのファッション・モデルをしながら1958年(昭和33年)に喫茶店で新東宝の宣伝部員にスカウトされ[9]、映画俳優になる決心をし、新東宝に入社。同年『白線秘密地帯』で本格映画出演。

長身の新人二枚目スターの一団「ハンサムタワーズ」の一人として、吉田輝雄高宮敬二寺島達夫らと共に売り出された。主演作も多かったが、当時の新東宝は経営不振で低予算映画が主力路線だったため、世間的な知名度はそれほど高くなかった。この時代の映画としては『九十九本目の生娘』や1960年(昭和35年)の正月映画『女奴隷船』に主演して丹波哲郎とのアクション対決を演じた。

1960年に入ると、新東宝の経営が傾き、組合争議によって2回にわたり24時間ストが行われる。菅原はこの組合争議では陣頭で交渉役を任じている[16]

 

2007年(平成19年)に膀胱癌が判明し、筑波大学附属病院にて手術せずに放射線陽子線治療による膀胱温存療法を受けた[21][22]

東京への嫌悪と田舎暮らし[編集]

1980年代ごろに日本映画界、特に東映がアクション映画やポルノやテレビに乗り出してゴタゴタしているのを見ているうちに、そんな混乱を生み出している原因である、すっかり都会化し商業主義的になった東京が嫌いになり、消費社会というものに強い疑問を感じるようになり、一方でもともと岐阜には別荘を買って持っていたので、東京から離れるために、1998年にその岐阜県清見村に妻と一緒に移住し、田舎暮らしを始めた[23]

 

2009年(平成21年)より山梨県韮崎市耕作放棄地を使って農業を始める。当時、俳優業は「半分引退した」と語った。

2012年(平成24年)2月初旬、2013年1月に公開予定の『東京家族』(監督・山田洋次)主演から既に降板したことを発表。2月23日に都内で行われた「第64回日本消防協会定例表彰式」に出席した際にプレスインタビューに応じて映画を降板した理由として、クランクイン直前に東日本大震災が発生。故郷の宮城県をはじめ被災地で、公私ともに苦しい生活の続く人々が多いなか「どういうテーマであれ、今は映画を撮っている時じゃない。それは(山田洋次)監督も同じ考えだった」と語った。菅原はこの席で震災以後、劇映画の存在理由が見いだせないことを語った上で、自身が震災直前まで都内の病院に入院していたことも告白している[24]

 

入院直前の11月1日には、沖縄知事選候補の翁長雄志の応援演説に出席していた[27][28]。 また、自分の「がん完治」体験を元に、「がん克服」をテーマにした講演を入院直前まで度々行っている[29]第46回衆議院議員総選挙(12月16日投票)にあたっては、小沢一郎らが結党した日本未来の党の賛同者に名を連ねたほか、松本龍の個人演説会で応援演説を行なった[30]

 

  • 自民党議員や著名人との会食中、武藤貴也が「法律を改正し、自衛隊を送り、武力を以てしても、中国船舶を追い返し、国土(尖閣諸島)を守らなくてはいけない。これでは、日本の名誉が損なわれる」と発言したのに対して「君が行くのか。びっくりマークびっくりマークそこで一発でも銃弾が飛んだら戦争に発展し自衛官の命が失われる。それでもいいのか? はてなマーク名誉など後でいくらでも取り返せるが人命はそうは行かない。君は何も分かっていないんだ。帰れ」と一喝ラブ。武藤は席を立ってそのまま戻らなかったという[46]