内海の梅原猛先生の本家と温泉、玉三郎 | 猫とバラ、演劇、美術、ガーデン、動物園のブログ

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内海海岸正面の松濤

 

 

昔、金沢や九州の友人を案内しこのサンセットが美しい旅館に泊まりました。

7階の大浴場。露天風呂

 

 

信じられないぐらいまばらな海水浴客

 

 

 

前回、内海駅で貝塚の紹介を見つけたのですが、

 

今回は今存続が危ぶまれてるスーパー歌舞伎の原作者梅原猛氏の本家を見つけましたびっくりマーク

 

先代猿之助が梅原先生に書いてもらった「ヤマトタケル」

初演時には内海から、町総出のように中日劇場に観劇に行きました。

 

今はその2階のてっぺんでも観やすかった中日劇場もない悲しい悲しい

 

玉三郎丈も出演されてました。

 

草刈正雄との黒蜥蜴やふっくら可愛かったころの宮沢りえも出ていた天守物語など。

 

黒蜥蜴は残念、観ていません。

 

地下の売店でポスター見ただけ。

 

 

 

勿論スーパー歌舞伎が面白くないわけでなく皆さまご存じ、猿之助の事件で悲しい

 

 

昔から内海では梅原さんは有名だったのに、私は子供だったので引き取られた家がどこにあるのか知りませんでした。

 

 

 

西洋哲学から日本の芸能や文学の笑いまで幅広く研究し、日本文化の本質を探究する。大胆で独創的な梅原日本学を確立。『隠された十字架』(1972年)、『水底の歌』(1973年)、『人類哲学序説』(2013年)など著作多数。

 

『隠された十字架』(1972年)、『水底の歌』(1973年)など若い時に読みました。

 

京都の友人宅の庭師が梅原さんの庭園も担当されていたとか。

 

 

宮城県仙台市で生まれ、愛知県知多郡で育つ。

実父は愛知県立第一中学校第八高等学校を経て、梅原の出生当時は東北帝大の学生であった梅原半二。実母は、半二が下宿していた仙台の魚問屋の娘・石川千代。ともに学生であった実父母の結婚を梅原家、石川家が認めなかったため、私生児として誕生した

 

乳児期に実母を亡くし、生後1年9か月の時に知多半島の名士で、梅原一族の頭領である伯父夫婦(梅原半兵衛・俊)に引き取られて養子となる。実父の梅原半二(工学博士)は、大学講師を退職後、3軒のバーキャバレーを経営していたが、豊田喜一郎に誘われ、太平洋戦争後、トヨタ自動車に入社、トヨタ自動車常務や豊田中央研究所所長などを務めた。

私立東海中学校には、南知多町(当時は内海町)の実家から2時間半びっくりマークをかけて通学した。1942年、広島高等師範学校に入学する[5]が2か月で退学、翌年第八高等学校文科に入学する[6]。理科系の父に似て数学が得意であったため、父や周囲から文科進学に反対されたのを押し切っての進学であった。

第八高等学校1年次に在学中の1943年10月、文科系学生への徴兵猶予が停止され、学徒出陣が開始された。徴兵猶予の対象となるために理科系へ転向したり、陸軍経理学校へ入って主計将校となる道を目指す級友がいる中、梅原は「いっそ早く死んだ方が良い」という思いから、特攻隊員養成機関といわれていた甲種幹部候補生へ志願した。筆記試験は満点近くの点数を取ったが、口頭試問で「日本の戦闘機の名前を挙げよ」と言われた際に、「」としか答えられず、試験官から「もっとあるだろう」「子供でも5機くらい知っている。非国民だ」びっくりマークと叱責され、不合格になったという[7][8]

 

非国民でかたずける、本当は頭は空っぽびっくりマーク

 

 

なかには入れません。

 

 

海からは離れています。

 

 

昔は考えられなかった人出のなさ

子供の頃はこの広い砂浜は人であふれていました。

花火大会もあり寝ころん見た気持ちよさ。

 

 

今は外国人が多い。

 

外国人のほうがこの自然を満喫びっくりマークはてなマーク

 

情けない気持ちです。