人間にとって「美」とは何なのか。

これは私がいつも考えているテーマでもあります。もちろん正解がある話ではないのですが、「美とは何か」ということを考えることは、人間が人間らしく生きるためには必要なことなのではないかと思うのです。

確かに、「美」などを無視して、ひたすら、簡単、便利に依存して、合理的、効率的、能率的に生きることも可能です。そして、現代人はそのような生き方を求めています。

そんな現代人にとって、心を満たすために必要なのは「快楽」であって「美」ではないようです。でも快楽を得るためにはお金が必要です。でも、「美」は私たちの周りの至る所にあります。ただ気づくだけでそれに触れることが出来るのです。お金なんか必要がありません。
でも気付かない人には「美」は存在しません。

また、世の中には美味しい食べ物や快楽よりも「美」の方を求める人もいます。アウシュビッツの収容所での出来事を書いた「夜と霧」(フランクル著)という本の中に、貴重な夕食の時間に、夕食を食べずに夕焼けを見ていた人がいたと書いてありました。(フランクルの別の本だったかもしれません。なんせ、何十年も前に読んだので。)

自分の美学を完成させるために死を選ぶ人もいます。
数学の式に美を感じる人もいます。
命の働きの中に美を感じる人もいます。
話し方、歩き方、食べ方、生き方に美を求める人もいます。

「外側の美」を求める人もいれば、「内側の美」を求める人もいます。
歌人の会津八一は、知人に「美しき人になりたく候」と書き送ったそうです。
(私はこの言葉が大好きです。)
「死にざま 生きざま 美しき人になりたく候」(紀野一義著)という本がありますが、私はこの本を書いた紀野先生が大好きで、若い頃追っかけをしていました。

でも多くの現代人は、「外側の美」ばかりを求め「内側の美」には興味がないように見えます。
見栄えの美しさには興味があっても美しい生き方には興味がないように見えます。
「人間らしさ」というものに対する考え方に変化が起きているのでしょう。

本来、「美」は視覚的なものと言うよりも精神的なものなんです。人が「美」を求めるのは「美」に触れていると心が満たされるからなんです。

人間も人間以外の動物たちも「快楽」は求めますが、「美」を求める動物は人間だけです。ですから「美」について考えることは「人間とは何か」ということとつながってくるのです。そしてそれはまた、子どもを人間らしく育てるためにも必要なことなのではないかと思うのです。

日本人は世界の中でも特に「美」に対して高い感受性を持っている民族です。もちろん、「何を美しいと感じるのか」ということは、人によっても、文化によっても、時代によっても、国によっても異なります。そこに正解はありません。そして、それぞれの文化において「美」を大切にしているでしょう。

でも、日本人ほど「美」にこだわる民族は少ないと思います。
ただし、ここで言う「美」とは芸術的な美だけではありません。「見た目」や「体裁」にこだわるのも美意識の表れです。「汚れ」とか「清め」ということに敏感なのも美意識の表れです。
「台ぶきん」と「雑巾」を使い分けるのも美意識の表れです。(中国の人はそんなことこだわらないそうです。)

電車に乗るときなどにきちんと整列して静かに待っているのも、日本人の美意識の表れです。「躾」も美意識の表れです。「美味しい」(おいしい)というのは、「美しい味」と書きます。

日本人の民族宗教である神道も、日本人独自の美意識とつながっているのではないかと思います。古代の日本人は、「命の持つ美」の中に「神」を感じたのではないでしょうか。
だから、多くの日本人が信仰は持っているのに宗教は持っていないのです。

「日本人は無宗教」だと言われますが、宗教は持っていなくても信仰は持っているのです。でも、その信仰の説明が出来ません。思想によって作られた宗教は言葉化出来ますが、感覚の働きによって生まれた信仰は言葉化出来ないからです。

ちなみに、日本書紀には天照大神が伊勢の国がを「うましくに」と呼んだと書いてあるそうです。その「うましくに」は「美し国」と書きます。

そんな日本語もまた、日本人の美意識によって生まれたのではないかと思います。英語は「意味」に「音」を当てて作られています。「これをなんと名付けようか」という感じで言葉が作られてきたのではないかということです。

でも、日本語では、それを見たとき、それに触れたときの印象を「音」で表して言葉が作られてきたような気がするのです。光を見たときに感じた感覚が「ひ」という音だったので、光に「ひ」という音を当てたのではないかということです。そこに「か」が表すものと「り」が表すものが組み合わさって「ひかり」という言葉が生まれたのではないかということです。

日本語では「あ・い・う・え・お」などの単音だけでも、みんな意味を持っています。こういう言語は珍しいそうです。

私は、英語は「人間によって作られた言葉」で、日本語は「自然からもらった言葉」なのではないかと思っています。だから、日本語は感覚や感情を伝えるのは得意ですが、論理的な意味を伝えるのは不得意なんです。

また、人間が主人公の言葉ではないから主語がないのでしょう。
「おのまとぺ」という「意味ではなく感覚を伝えるだけの言葉」もその表れなのではないかと思います。

ただしこれらは全く私の勝手な推測ですから根拠を提示することは出来ません。「そう感じる」というだけのことです。
とりとめのない話しで申し訳ありません。