また「からだ」のことについて書きます。話があちこち飛んで申し訳ありません。私は頭の中が多動のようで、本当はもっと飛びたいのですが押さえています。
からだのワークなどやっていると多くの人がからだをガチガチに固めています。特に、いつも悩んでいるような人のからだはガチガチです。
でも本人は、自分のからだがガチガチになっていることに気付きません。それが「日常の状態」だからです。
でもその「日常の状態」がその人の感覚や思考や意識の状態を決めているのです。「悩み」から抜け出せないのも、「からだの状態」が変わらないからです。「からだの状態」が変わらないから、「意識の状態」も変わらないのです。
そのような人に「もっとからだを緩めて」と言っても、何をどうしたらいいのか全く分かりません。
で、緩める練習として軽い関節技をかけて「これをといてみて」ということをやることがあります。からだがガチガチだと関節技を外せないからです。
からだが固まっている人は、まず戦おうとします。抑えられている力に抵抗し、それを押し戻そうとするのです。でも、関節を決められているとそれが出来ないのです。抵抗すると、さらに痛くなってしまうからです。
じゃあどうしたらいいのかというと、そこで「緩める」ということが必要になってくるのです。
「緩める」ということを「力を抜く」というように理解している人がいますが、関節技をかけられているときに力を抜いたらさらに深く技が決まってしまうだけです。
からだが固い木のような状態になっているから押さえられると動けなくなってしまうのです。でも、ヒモのような状態になれば自由に動けるのです。ゴムのヒモなら受けている力を相手に返すことも出来ます。それが「緩める」ということです。
つまり緩めることで自由になることが出来るのです。自由になるから外せるのです。
じゃあ実際にはどうしたらいいのかというと、からだ全体をチェックして、なるべく相手から遠いところから、つまり足から歪みを取っていくのです。
みんな押さえられている所ばかり気にして、そこだけを押し返そうとするから、余計にからだが歪み、固まって動けなくなってしまうのです。
人のからだは、歪みを取ると緩むのです。だから姿勢を整えるだけで緩むのです。そして緩むと気が通り始めます。だから気持ちがよくなるのです。
押さえられているとそこばかりが気になってしまうのは当然です。でも、そこばかり気にしているから問題が解決出来ないのです。
そんな時に必要なのは「自分の土台」を見直し整えることなんです。土台が歪んでしまっているから、問題を解決することが出来なくなってしまっているのですから。
具体的には、ゆがんで苦しくなってしまっているからだを、大地と接している足下から緩め、気持ちがいい状態に整えていくんです。
実は「緩める」というのは「気持ちがいい状態」に整えることなんです。それは「気が通った状態」とも言えます。
関節を決められているとからだが歪んで苦しいです。決められている関節部分も痛いですが、それは抵抗しているからです。
決められている腕のことなど気にしなくて、まず、歪んだ状態で苦しくなっているからだ全体の歪みを、末端から正して気持ちがいい状態に戻していくのです。
すると、関節技をほどこうとしなくても、自然とほどけてしまうのです。
ちなみに、力を抜いて楽にしていても、からだが歪んだままでは気持ちがよくなりません。そして、疲れます。からだが歪んでいると、気の通りが悪くなるので何もしていなくても疲れるのです。
ただし、上手な人はこちらの変化に合わせて技を変化させてくるので、それだけではそう簡単にはほどけませんが、これは「技の練習」ではなく「緩める」ということを感じるための練習なので深追いはしません。
言葉だけで「もっとからだを緩めて」と言っても、「緩んでいる」という状態を知らない人にはそれは無理なんです。そんな時、このようなワークが有効だったりするのです。
ちなみに、茅ヶ崎で「からだの会」という活動もやっています。月一で月曜日です。
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昨日は、
それまで一時間かけてやっていたことを、ボタンをピット押すだけで出来るようになったら59分以上得したことになりますよね。
でも本当は59分以上損してるのです。何を損しているのかというと、「感覚と思考とからだの体験」と「物語の記憶」です。だから何も学べないし、充実感も感じないし、記憶にも残らないのです。
と書きました。そしてこれがミヒャエル・エンデの「モモ」という作品の中に登場する「時間泥棒」がやっていることです。
みんな「得をした」と思っていますが、実はみんな損をしているのです。そのように人々をそそのかして得をしているのは、人々から奪った時間をお金に換えて儲けている人たちだけです。それが、時間泥棒の雇い主です。「Time is money」という言葉もそのような人たちが考え出したのでしょう。
私は2月に2週間ほどネパールに行ってきました。飛行機も長かったし、ネパールに着いてからも移動に色々と手間と時間がかかりなかなか大変でした。落ちたら確実に死ぬと思われるような崖のすぐ脇にあるものすごいデコボコ道を、すし詰め状態で何時間も揺られながらの移動でした。
途中何回もヒヤヒヤしました。帰ってきてしばらくしたら、「私たちが通った道で、実際にバスが転落して何人も死んだ」というニュースを聞きました。
ドラえもんの「どこでもドア」があれば、そんな苦労もせず、自分の家から簡単にネパールの村々を回ることが出来ます。2週間もあればネパール中を回ることが出来るでしょう。でもそれは「点の記憶」にしかなりません。線にも、面にも、立体にもなりません。当然、「大切な想い出」にもなりません。「時間の連続性」も「空間の連続性」もないのですから。
苦労したからこそ色々な発見と、学びと、気づきと、出会いがあったのです。そしてまただからこそ、それが「大切な想い出」になっているのです。簡単で便利な「どこでもドア」はそれらの全てを奪ってしまうのです。
子ども達は「ゲーム機」という簡単で便利な機械で遊ぶことで、「仮想空間の中で遊ぶ自由」を得ることが出来ますが、「自分の成長に必要な時間」は失います。
「生きているという実感を感じる時間」も、「自分の命やからだが存在している現実世界と関わり、現実世界での生き方や、現実世界の面白さを学ぶ時間」も失います。
その結果、ゲームの世界の中から出てこれなくなってしまう子もいます。そういう子と話をしていても話が通じません。「現実世界」を共有出来ないからです。
そのような子は、現実世界もゲームの中の世界と同じように扱えると思い込んでいるみたいです。でも、思い通りやろうとして「現実の壁」に突き当たるとすぐに挫折します。時間泥棒によって、「手間暇をかける」「工夫する」「努力する」ということを学ぶ時間と、それに伴う体験と喜びを奪われてしまっているからです。
子どもと買い物などに行くときに、歩いて行けば時間がかかりますが、子どもとお話ししたり、色々なものを発見したり、「子どもとの信頼関係を築く時間」を得ることが出来ます。
そしてその時間は子どもにとっても「自分の成長につながる大切な時間」になります。そしてその時間は「命が生きている時間」でもあります。だから、子どもの心とからだの中に残っていきます。「想い出」としても残ります。
自転車や車を使えば簡単で便利で、時間の有効活用が出来ますが、その「命が生きている時間」を失うことになります。そのため「想い出」として残りません。「子どもの成長を支える時間」も失います。
それはつまり、「命の価値」や「生きていることの意味」を失うということでもあります。
現代人が簡単で便利な機械の普及で失ったのは「時間の体験」です。それは「物語の体験」「感覚の体験」「感情の体験」を失うことです。それはつまり、「記憶」を失うことでもあります。記憶が心の中に生き生きと定着するためには、「物語の体験」「感覚の体験」「感情の体験」が必要だからです。
だから、簡単で便利になったのに、いやそれ故に「充実感」は失われ、「充実感」が失われた故に記憶も残らないのです。
それまで一時間かけてやっていたことを、ボタンをピット押すだけで出来るようになったら59分以上得したことになりますよね。
でも本当は59分以上損してるのです。何を損しているのかというと、「感覚と思考とからだの体験」と「物語の記憶」です。だから何も学べないし、充実感も感じないし、記憶にも残らないのです。
結果だけがすべての大人にとってはそれでもいいのでしょうけど、「感じ、考え、行動する能力」と「想い出」を育てている最中の幼い子ども達にとっては、これは致命的なんです。それらの能力が育つために必要な材料が消えてしまうのですから。
「感じる能力」が育つためには「感じる体験」が必要です。「考える能力」が育つためには「考える体験」が必要です。「行動する能力」が育つためには「行動する目的」と、実際に「行動する体験」と、「それに伴う喜び」が必要です。「想い出」が育つためには「感覚や感情とつながった物語の体験」が必要です。
「物語の体験」とは「過程の体験」のことです。それが「想い出」として残っていくのです。
例えば、お料理を、材料を買うところから、材料を処理するところから作れば、出来上がるまでの過程が全て「物語」になります。でも、「ピッ」だけでは「物語」になりません。それは「子育て」でも同じです。
「ザリガニを何匹捕まえた」という結果ではなく、「どのようにしてザリガニを捕まえたのか」という過程が記憶として残っていくのです。
ですから、「自分で森の中に入ってカブトムシを捕まえた記憶」は残りますが、「カブトムシを買ってもらった記憶」は残りません。それが「世話をした記憶」とつながれば、「買ってもらった記憶」も残りますけど・・・。
また、それらの体験は「子ども自身の意思に基づく能動的な体験」である必要があります。「大人に押しつけられた体験」は子どもの内側に入って行かないからです。
「自分の意思でやった活動」は記憶に残りますが、「言われて嫌々やった活動」の記憶は残らないということです。
だから子ども達には、便利や機械や道具に依存しない「自分の感覚で感じ、自分の頭で考え、自分のからだを使って色々なことにチャレンジする遊び」が必要なんです。そのような遊びが「子どもの能力」を育てるとともに、「子ども時代」を充実させてくれるのです。
昨日も書いたように、今、子育ての講座などで、お母さん達に「子どもの頃の想い出」を聞いても、あんまり覚えていない人が多いです。悲しいことに、「子ども時代」が消えてしまっている人が多いのです。だから、子どもの気持ちが分からないし、子どもと視点を共有できないし、子どもに共感できないのです。そういう状態のお母さんにとって「子育て」は「義務」であり「苦しい労働」に過ぎません。そのようなお母さんに育てられている子どももまた苦しいでしょう。
でも、便利な機械がそれほど普及していなかった時代に育った人や、子どもの頃それほど便利な機械に依存しない生活や遊びをしていた人に「子どもの頃の想い出」を聞くと次から次へと「想い出」が出てくるのです。
便利な機械に依存しない生活や遊びをしていた人の方が、「子ども時代」が充実していたようなのです。
現代人は「結果」ばかり大切にして「過程」を無視しますが、人の記憶は「過程」によって創られるのです。
「充実感」をもたらしてくれるのも「結果」ではなく「過程」です。なぜなら「過程」はそのまま「物語」でもあるからです。山登りでも、頂上に立ったから充実感を感じるのではなく、長い時間をかけて自分の足で登ったから充実感を感じるのです。
山登りが好きな人は「頂上に至るまでの物語」が好きなんです。感じる能力、考える能力、行動する能力が育つのも、ちゃんと過程を体験するからです。
「人生」の中身は「どう生きたのか」という過程です。「何歳まで生きたのか」という長さではありません。そして「充実した人生」を送って来た人は死を恐れないのではないかと思います。「生まれてきた目的」を達成したのですから。それに対して、「空っぽの人生」を送ってきた人ほど死を恐れるのではないかと思います。
そしてこれは勉強でも同じです。大切なのは「1+1=2」という式を覚えることではなく、「1と1と足すと2になる過程」を体験することなんです。
その過程の体験があるから「1+1=2」を理解することが出来るのです。理解することが出来るから「1+1が2なら、2+1は3だよね」と自分の頭で考えて導き出すことが出来るのです。また、色々と応用することも出来るのです。それに対して、結果を覚えただけの子は自分の頭で考えることが出来ないので応用できません。
勉強などでも、「色々な学者達が発見した結果(知識)」だけを学ばせる方が効率的かも知れませんが、「色々な学者がその結果に至るまでにたどった過程」を再体験させる方が、子どもの能力は育つのです。
本当に子どもの育ちを支えたいと思うのなら、幼稚園や小学校は、みんなが学者や芸術家になって、「発見する喜び」、「創造し、表現する喜び」を体験する場であるべきなんです。
でも実際には、「出来上がったもの」を覚えるだけの場になってしまっています。そこに喜びはありません。中身もありません。だったら行きたくなくなっても当然です。