人はいつでも考えています。寝ている時にも考えています。夢はその表れです。
幼い子どもだって、もっといえば赤ちゃんだって考えています。

でも、その幼い子どもの思考は「受動的な反射」に基づくものであって、「能動的な意志」に基づくものではありません。そのため、自分の考えを自分でコントロールすることが出来ません。
不安が強い人の思考も「反射」であって、「自分の意志」に基づくものではありません。

それは「夢の中の思考」と同じものです。人は夢の中でも色々と考えていますが、自分で自分の思考をコントロールすることが出来ませんよね。それは、夢の中の思考もまた反射によるものだからです。

ハイハイし始めた幼い子どもは自由に動き回りますが、その行動も「反射」です。色々な刺激に反応して動いているだけです。

反射ですから、その行動に「理由」はあっても「目的」がありません。「夢の中の思考」にも「理由」はありますが「目的」はありません。そして、子どもの思考もこれと似ているのです。幼い子どもの思考には「理由」はあっても「目的」がないのです。

でも、この「反射に基づく思考」では創造的な行為を行うことが出来ません。目的に応じて考えることも出来ません。学んだことを理解する時にも使えません。

学んだことを理解するためには、「理解するための思考」が必要になるのですが、「理解しなければという理由」があっても、「理解したいという目的」がない子にはその思考が出来ないのです。

子ども達にその「目的」を与えてくれるのが「遊び」です。
「セミを捕りたい」という目的がある子は、「どうやったらセミを捕ることが出来るのか」を能動的に考えます。
これは反射ではありません。ですから、試行錯誤を繰り返しながら色々な方法を自由に考えることも出来ます。

でも、自分はセミが捕りたくないのに、先生から「セミを捕ってこい」という課題を出された子は、嫌々アミを持って出かけても「捕まえるための工夫」をすることが出来ません。そのため、運が良くなければ捕まえることが出来ません。

子どもが能動的に考えるようになるためには、子ども自身の心の中に「考えるための目的」が必要になるのです。その多くは「あこがれ」から生まれます。セミ捕りが上手な子にあこがれて自分も色々なことを考え、色々と工夫し始めるのです。

子どもは大人が凄いことをやってもあこがれませんが、自分と年令が近い子がやっている「凄いこと」にはあこがれるのです。そして「どうやったらその子に近づけるのか」を能動的に考え始めるのです。
それは、コマ回しでも、竹馬でも同じです。それが、子どもの本能であり、「子どもの成長に必要な遊びの場」なんです。

それに対して、「ゲーム」をプレイする時に必要な思考は反射的な思考です。だから3才ぐらいの幼児でも遊ぶことが出来るのです。サルでもスマホゲームで遊ぶ事が出来ます。
また「○○ランド」のような場での遊びは「子どもの能動性」を必要としない「受動的な遊び」です。
確かにそのような遊びは楽しいかも知れませんが、「能動的に感じ、考え、行動することを必要としないような遊び」は、子どもの「能動的な意志の育ち」や、「自分の頭で考える能力の育ち」を阻害してしまうのです。

勉強も同じです。
子どもに「大人になったら必要だから」という理由だけで、「子ども自身には意味も、目的も、楽しさも分からない勉強」を押しつけたら、「自分の頭で考えない勉強が嫌いなだけの子」が育ってしまうだけです。

9才から10才頃までの子どもに必要なのは「遊びの場での学び」なんです。「遊びを通した学び」と言い換えることも出来ます。
そのような場では「楽しい」とか「出来るようになりたい」ということが、自分の意志で考える動機になるのです。考えることが楽しくなければ子どもは考えないのです。


そして子ども達は、その「遊びの場」で、「手を使って考える」「からだを使って考える」ということをやっています。

「理解し創造するための思考」には「自分自身との対話」が必要になるのですが、体験も乏しく、言葉が未成熟で、まだしっかりとした自我が目覚めていない状態の子どもは、頭の中だけで自分自身と対話することが出来ないからです。

だから、考えるためには「思いついたことを手やからだを使って実際にやってみる」という活動が必要になるのです。

自分の考えを一回、頭の中から外に出してみるのです。そして、「他者となった自分の考え」と対話するのです。頭の中だけでこれが出来るようになるのは、このような体験をいっぱい繰り返して大きくなった子だけです。

手を使っていっぱい絵を描いた子は、頭の中だけでも絵を描くことが出来るようになります。

手を使っていっぱいソロバンを練習した子は、頭の中にソロバンをイメージすることが出来ます。そしてそれを使って、頭の中だけで計算することが出来るようになります。

手を使っていっぱい工作をした子は、材料を見るだけで何が作れるかをイメージすることが出来るようになります。

ナイフ使って何回もケガをしたことがある子は、「どういう使い方をするとケガするのか」ということをやってみなくても分かるようになります。

そのように実際の体験を繰り返すことで、頭の中だけで「考える」ということが出来るようになるのです。そして、自分の考えに振り回されなくなるのです。

それが「子どもは遊びを通して成長している」とか、「子どもは遊びを通して学んでいる」ということの意味でもあるのです。

たしかに、いくらいっぱい遊んでも学校で教えているような「知識」は学べません。でも、遊びを通して、「自分の人生を豊かにし、自分の人生を自分らしく生きるために必要な智恵」は学ぶことが出来るのです。

そして知識は後からでも学べますが、智恵は「能動的な遊びが楽しい時期」にしか学べないのです。