昔の職人や芸事をやっていた人は、弟子を育てる時にいちいち教えたりしませんでした。
ただ手本を見せ、ただそれを真似するように求めたのです。

間違ったことをした時は叱りましたが、だからといって、弟子が「どこが悪いんですか?」と聞いても「自分で考えろ」と言うだけで丁寧に教えはしませんでした。(私の太極拳の先生はこういう教え方をしていました。)
今こういう教え方をしたら、若者はすぐに辞めてしまうでしょうね。

今これをやると「不親切だ」とか「イジワルをしている」と言われてしまうでしょけど、実は、世の中には「言葉で教えることが出来ること」と「言葉では教えることが出来ないこと」があるのです。

そして、「本当に大切なこと」は言葉では教えることが出来ないのです。なぜなら、言葉で教えたことは「知識」として頭の中に留まるだけで、心や、感覚や、からだの中に落ちて行かないからです。当然、心や、感覚や、からだを育てる栄養にもなりません。

また、知識として知っているだけでは師匠がやっていることを再現できません。テストでは知識として知っているだけで充分ですが、職人や芸事や武術などの世界ではどんなに多くのことを知っていても、自分のからだで実際に再現出来なければ意味がないのです。

それに、感覚や、心や、からだの世界に属するものは、言葉では伝えることが出来ません。
どんなに食レポが上手でも「実際の味」を伝えることは出来ませんよね。そして、実際の味が伝わらなければ再現も出来ないのです。

感覚に属するものは感覚で受け取り、心に属するものは心で受け取り、からだに属するものはからだで受け取るしかないのです。
頭で受け取ることが出来るのは頭に属するものだけです。


そのため、「優しさとは何か」ということをいくらいっぱい知識として教えても、「優しい子」は育ちません。
教科書で道徳を教えても全く意味がありません。
「優しくしなさい」と怒鳴っても「優しくない子」が育つだけです。

「イジメは良くない」ということをいくら教えても、「仲間と仲良く遊ぶ楽しさ」を知らない子は、他の子をいじめたり、他の子にいじめられたりしてしまうでしょう。

そして、子どもの育ちに必要なものも「頭」ではなく「感覚」や、「心」や、「からだ」でしか学ぶことが出来ないのです。特に、思春期前の子ども達においては「感覚や、心や、からだでの体験を通した学び」が絶対的に必要になるのです。
思春期前の子どもの知性は、頭ではなく感覚や、心や、からだの中に宿っているのです。


でも、現代人は「感覚や、心や、からだでの体験を通した学び」は与えずに、「頭での学び」ばかりを子どもに与えています。そのため、今の子ども達は「感覚や、心や、からだで学ぶ能力」が非常に低くなってしまっているのです。

でも、その「感覚や、心や、からだを通して学んだこと」が、思春期頃から始まる「頭での学び」に必要になるのです。なぜなら、「感覚や、心や、からだを通して学んだこと」が「頭で学んだ知識」を理解する時に必要になるからです。

そもそも「感覚や、心や、からだを通して学んだこと」がなければ言葉を理解すること自体が出来ないのです。
でも、理解出来なくても暗記することは出来ます。そして、暗記すればテストではそれなりにいい点数を取ることは出来ます。だから親も先生も理解よりも暗記を求めるのでしょう。

でも、その「覚えたこと」は、学校という狭い世界の中でしか通用しません。