最近のネット記事を読んでいると「辛いんです、この辛さを分かって下さい」という文章をよく見かけます。
子育てに苦しんでいる人でも、性差別や、人種差別に苦しんでいる人でも、貧困やイジメに苦しんでいる人でも、人とつながれないで苦しんでいる人でも同じです。

でも、はっきり言います。どんなに辛さや苦しさを訴えても、その辛さや苦しさは当事者にしか分かりません。「どう辛いのか」「どう苦しいのか」を説明したとしても、全く異なった立場にいる人に当事者が感じていることをそのまま伝えることは不可能なんです。

どんなにまずい料理を食べて「このまずさを分かって下さい」と、その料理を食べたことがない人に訴えてもムリですよね。
その逆も同じです。どんなに美味しい料理を食べて「このおいしさを分かって下さい」と言っても、実際に食べないことには分からないのです。

食べたとしても味覚は人それぞれですから、分かるかどうかは不明です。ある人にとっては「まずい」ものでも、それを「美味しい」と感じる人だっているかも知れないのですから。
人に見られることを嫌がる人もいれば、人に見られて喜ぶ人もいるのです。
ホームレスになって苦しんでいる人もいれば、望んでホームレスになる人もいるのです。

ただ、苦しい時には「苦しい」と、辛い時には「辛い」と声を上げることは非常に大切です。黙って一人で我慢しているだけではもっと辛く苦しくなってしまうし、そのような人を抱えている社会もおかしくなってしまいますから。

私が問題視しているのは「辛いんです、分かって下さい。」と、一方的にその問題を相手に丸投げしてしまう人です。そのような人は、責任や解決方法も相手に丸投げしてしまいます。
でもそれは、自分の人生を他者に預けてしまうのと同じ事なんです。

でもその一方で、「自分が苦しかったから」と同じような問題で苦しんでいる人を手助けする活動を始める人もいます。「受け取る側」から「与える側」になることが出来る人です。

そのような人は「苦しみ」が消えていなくても、苦しみに押しつぶされずにそれを背負って自分の人生を歩いて行くことが出来るでしょう。

大事なのは「苦しみ」を取り去ることではなく、その苦しみを抱えたままでも前に進むことなんです。前に進み続けていればやがて状況は変わるのです。でも、「苦しいんです助けて下さい」とその場から動こうとしなければ、状況はいつまで経っても変わりません。

私は「幸せを求めているだけの人」は幸せになることが出来ないと考えています。そのような人は「ないもの探し」ばかりしているのですから。それに、「幸せになりたい」という発想自体が「自分は不幸だ」という前提から始まっています。

でも、「ないもの」ではなく「すでに持っているものに気付き、感謝し、喜ぶことが出来る人は幸せな人です。そのような人は「与える人」になることが出来ます。

天国と地獄の違いを言い表した昔話があります。

ある人が地獄と天国の見学に行きました。案内役の霊が「あそこが地獄だよ」と指し示した方を見ると、テーブルの上にはごちそうが並んでいます。それで、「これが地獄?」って思ったのですが、近寄ってみるとみんな怒鳴り、怒り、苦しんでいます。それはみんなが長い箸を持っているのですが、箸が長すぎて食べ物を自分の口に運ぶことが出来ないからです。それで食べ物はいっぱいあるのにみんなが飢えて苦しんでいるのです。

次に、天国に行きました。天国でもやはり同じようにごちそうが並び、みんなが長い箸を持っています。でも、みんな嬉しそうです。どうしてなのかとよく見ると、地獄ではみんな箸で取ったものを自分の口に運ぼうとしているのに、天国では隣の人や前の人の口に運んでいるのです。そうやってお互いに食べさせ合っているので、長い箸でもみんなお腹いっぱい食べることが出来ているのです。

昔の人は天国と地獄の違いをこのように言い表したのですが、私もその通りだと思います。
でも、今の日本の状況はこのいずれでもありません。昔の人はこんな時代が来るなんて思いもよらなかったのでしょう。

今の日本では、自分で箸を持つことさえしないで、(赤ちゃんのように)ただ口を開けて待っているだけの人がいっぱいいるのです。

「お腹が空いた 苦しいよ」と言いながら、誰かが口に食べ物を運んでくれるのを待っているのですが、みんながその状態なのでいくら待っても食べ物をもらえません。それで、「みんな薄情だ」「弱者に優しくない社会だ」「誰も私を助けてくれない」と嘆き悲しんでいるのです。

時々、天国にいるような人が来て食べ物を口に運んでくれるのですが、「それはやだ」、「肉をもっとくれ」、「味付けがまずい」、「なんでもっと早く取ってくれないんだ」と言うばかりで、自分は相手の口に食べ物を運ぼうとはしません。

時には「あんたじゃだめだ」とその相手を追い出して、文句を言いながら別の人を待つこともあります。

それで、その善良な人も諦めてしまうのですが、でも、口を開けているだけの人は、「私には食べる権利があり、これは正当な要求」だと言うばかりで、自分には何の問題もないと思っています。

天国のように、お互いに食べさせ合えばいいのですが、自分が食べさせても、相手が自分に食べさせてくれるかどうかを疑っているので、「損をしたくない」と、自分からは動かないのです。また、「飢えているのは自分だけだ」と思い込んでいる人もいっぱいいます。

そして、自分は食べないでも他の人のために一生懸命に食べ物を運んでくれる善良な人を待ち続けているのです。

また、「あなたのことを信用できない」、「人を受け入れるのが怖い」と言って、そのような人に対してさえ口を開けない人もいっぱいいます。それでいながら飢えに苦しんでいるのです。

そのような人が少数のうちは善良な人にも対処できたのですが、現代ではあまりにもそのような人が増えてしまったので、みんなが飢えている社会になってしまっているのです。

これは、昔の人も想定しなかった新しい形の地獄です。「依存地獄」とでもいうのでしょうか。

この「依存地獄」から脱却するためには、「自分がして欲しいこと」を積極的に他の人にしてあげることです。それだけです。

そうすれば巡り巡ってそれが自分の所に帰ってくるのです。よしんば帰ってこなくても誰かが喜んでいるのですから、それでいいのです。