昨日は「自由が苦手な子ども達」について書きましたが、でも、もしかしたら、日本人は昔から「自由が苦手で、不自由が当たり前な民族」だったのではないでしょうか。
なぜそう思うのかというと、日本人の感性では「人目を気にしながら生きること」が当たり前だからです。

私たちは子ども達に対して普通に「人に後ろ指を指されないように生きなさい」とか、「人に迷惑をかけてはいけない」とか、「出しゃばってはいけない」とか、「目立ってはいけない」とか、「和(調和)を乱してはいけない」とか言っていますよね。
たぶんこれは儒教による影響なのでしょう。

また、そういう感性があるため、電車の中などで子どもが泣いたりするだけでお母さんが謝ったり、周囲から冷たい目で見られたり、非難されたりすることがあるのでしょう。
また、ママ友グループの中でも、言いたいことがあっても言えなかったり、我慢してみんなに合わせたりするのでしょう。

その結果、子育てが辛くて苦しいものになり、お母さんが追い詰められたりするのでしょう。
そして、社会の中から多様性が失われるにつれ、この傾向は強くなってきているような気がします。
コロナ騒動の時も「マスクは嫌だ」「ワクチンは嫌だ」というようなことを言えば、「みんなに迷惑をかける困った人」扱いされましたよね。病気に対してどういう対応をするのかということはその人の生き方ともつながったデリケートな問題のはずなのに、そんなこと一切無視されました。

またそれが、「発達障害と呼ばれるような状態の子ども」の増加にもつながっているような気がします。

「子どもはジーッと出来ないのが当たり前だ」「子どもは動きながら学んでいる」という考え方に基づいた教育(学校)がいっぱいあれば、発達障害の子は簡単に減るのです。

そんな「人目を気にする生き方」をしている人は、「自分の意見」や「自分の考え」を持っていません。「みんなと同じこと」をして、「みんなと同じ生き方」をするだけならそういうものは必要がないからです。

むしろ、「みんなと一緒」が大切にされている社会では、「自分の意見」や「自分の考え」を持つと生きづらくなります。他の人とぶつかることも多くなります。自分の言葉で、自分の考えを説明しなければ行けない場面も増えます。

でも日本人は、「みんなと一緒」という教育は受けていますが、「自分の言葉で、自分の考えを説明する教育」を受けていません。
また、その「みんな一緒」が出来ない子は「発達障害」として扱われてしまいます。

もしかしたら、その「みんなと一緒」が出来ないのはその子の「個性」や「能力」故なのかも知れませんが、療育の場ではその子どもの特性は「個性」や「能力」としてではなく、病気のような「治療の対象」として扱われてしまいます。

他者とのつながりから切り離され、自分の感覚や心やからだで直接体験することなく、みんなと同じ知識を学び、みんなと同じ情報に触れ、みんなと同じ遊びをして、みんなと同じ体験しかしていない現代の子ども達が、自分独自の感性を育て、自分独自の考えを持ち、自分の言葉で説明できる能力を育てることは非常に困難なんです。