(四月以降の講座の案内を2/26のブログにまとめました。ご興味のある方はご覧になって下さい。)
************

最近の人は本を読まなくなったという話をよく聞きます。
教室の子ども達を見ていても、本を読みません。
うちの教室には造形関係の本がいっぱい置いてあるのですが、それを開いて読もうとする子はほとんどいません。

でも、教室を始めた20年、30年前の子ども達はその本をよく見ていたのです。本を読んで作りたいものを見つけ、作り方を調べ、自分で作ろうとしていたのです。私と家内はその手助けをしていただけです。

でも最近の子は、「作るものがない、退屈だ」とは言うのですが、すぐ側に置いてある本を見て調べようとはしないのです。
「作る」ということに対する好奇心自体が萎えてしまっているようなのです。

「じゃあ、自分で考えてみな」と言うのですけど、「手やからだを使って考える」ということをしないで、頭だけで考えようとします。

でも、頭の中に「考えるために必要なデータベース」がない状態では、考えることが出来るわけがないのです。
「手やからだを使って学んだこと」がデータベースとして頭の中に入っているから「考える」という行為が可能になるのです。


でも、最近の子はその「考える基礎となるデータベース」を作る機会も、時間も、場も与えられていません。それなのに大人は考えることを要求してきます。

それで自分の頭で考えることが出来ない子ども達は、他の子を見て真似したり、大人の顔色を見たり、正解を暗記することで何とかしようとします。
でも、いくら正解を覚えても、理解が出来ていないのですから子どもの成長にはつながりません。ただ「頭でっかち」の子どもが増えるだけです。

またそのような状態の子は、本を読むことを楽しむことが出来ません。大人達は「文字が読めれば本も読める」などと思い込んでいますが、「文字が読める」ことと「本が読めること」は全く別物なんです。
更に言えば「本を読めること」と、「本を楽しめること」も違います。そして、子どもの成長を支えてくれるのは「本を読む能力」ではなく、「本を楽しむことが出来る能力」の方なんです。

そして本を楽しむためにも「手やからだを使って学んだデータベース」が必要になるのです。

私はスペインに行く前にスペイン語を学びました。そのスペイン語は読み方のルールが単純なので、ちょっとした読み方さえ覚えれば、意味が分からない単語だって声に出して読めてしまいます。難しい本だって声に出して読めてしまいます。でも、声に出して読めても意味は不明です。でもそんなのは「読める」とは言えないですよね。

韓国語も同じです。読み方のルールが単純なので、そのルールを覚えてしまえばどんなに難しい内容の本でも声に出して読むことだけは出来てしまうのです。

でも子ども達は、家庭でも、学校でも、その「意味がないこと」ばかりをやらされています。

多くのお母さん達が、子どもが小さい時から文字を教え、自分で読めるように仕付けています。学校も同じです。
そして、文字が読めるようになると安心します。
絵本を自分で読ませて、その話の意味を子どもに説明させているお母さんもいます。でも、そういう学びを押しつけられた子は、本を読むことを楽しむことが出来なくなってしまうでしょう。

英語の学びでも同じです。いくら英単語や英会話を覚えさせても、「心やからだを通しての学び」がその言葉に伴っていなければ、子どもはその言葉を「自分の言葉」として使えるようにはならないのです。
素敵な日本語を話すことが出来る子が英語を学べば素敵な英語を話すことが出来るようになるでしょう。今の時代、翻訳機を使ったっていいのです。
でも、日本に住んでいながら日本語すらちゃんと話せない子が英語を学んでも、英語圏の人が耳を傾けてくれるような英語を話せるようにはならないのです。