子ども達は、自然の中に生まれ、自然の中で育つ準備をして生まれてきます。生命誕生以来ズーッとそうだったからです。いくら社会が変わったからといって、ほんの数十年や数百年の変化に35億年かかって出来上がってきた人間の遺伝子が対応できるわけがないのです。

その状態は7才頃まで続くのですが、この時期の子ども達の意識や、感覚や、心や、からだははまだ、人間界ではなく、自然界に属しています。そのため、まだ「あるがまま」の世界の住人なので、大人が作り上げた人工的なルールを理解することが出来ません。

「早くしなさい」も、「ゴメンナサイ」も、「きれいにしなさい」も、食事の時にはちゃんと座って食事をするということも、約束を守るということも、時計も地図もお金も分かりません。どんなに易しく説明しても理解することが出来ません。なぜなら、それらは体験できないことばかりだからです。

そして、この時期の子ども達は「客観的論理」や「知識」によってではなく、「模倣」によって学び、「体験」によって考えています。

逆に言えば、模倣する対象がいなければ、「人間性」というものを学ぶことが出来ないため非常に動物的な状態になり、体験がなければ論理的に考えることが出来なくなるということです。ただし、その思考は大人の思考とは違い客観性はありません。でも、それは成長の過程で客観的思考の基礎になるものです。
 
幼い子ども達は、熱いヤカンに触ってやけどをすると、熱くないヤカンも触ろうとはしなくなります。「ヤカン=触ると熱い」という論理回路が出来上がるからです。そんな時、「熱くないから大丈夫だよ」と言っても理解出来ません。そんな時は、冷たいヤカンに触らせてみるしかないのです。そうやって子どもは「論理」を体験していくのです。

子どもが危ないことをしている時、大人は「危ないからやめなさい」といいますが、実際に痛い体験をしたことのない子は、大人がどんなに説明しても、それが危ないことだということを理解することが出来ません。
また逆に、だから「サンタクロース」のような存在を素直に信じるのです。クリスマスの朝、プレゼントが置いてあれば、子どもにとってはそれが「サンタクロースの存在証明」なのです。子どもは「物理的に考えておかしい」などとは決して考えないのです。
だからこそ、7才までの子どもにとっては「どういう体験をするのか」ということが非常に重要になるのです。

その、子どもの育ちに必要な「模倣」と「体験」という二つの学びのうち、「模倣による学び」の方は、室内や人工的な施設でも可能なのですが、「体験による学び」の方は室内や人工的な施設では非常に困難です。なぜなら、人工的な環境は大人の発想によって作られているため、子ども目線に立った多様性も、危険性も、驚きも、不思議もないからです。

さらに決定的なのは、「子どもの生命」に響かないのです。だから、子どもの感性や、心や、からだが活性化しないのです。そのような状態では、子どもはただ受け身的に「楽しさ」を求めるばかりで、能動的に遊びを工夫したり、探索行動をしたりしないのです。
それどころか、幼い子ども達を室内に入れたままにしておくと、おもちゃを投げる、走り回る、突き飛ばす、奪い合う、噛みつくなど「あるがまま」に行動します。そのような状態では、子どもの成長を支えるような「体験による学び」を得るのは困難です。

でも、面白いことにそのような子ども達を自然の中に連れ出すと、急にトラブルが激減するのです。そして、生き生きとしてきます。さらには遊びを工夫し始めたり、助け合ったりまでします。なぜなら、自然の中こそが、7才前の、まだ自然との結びつきが強い時期の「子ども本来の居場所」だからです。7才前の子ども達は、人工的な環境の中にいると受け身的になり、自然の中にいると生命の働きが活性化して能動的になるのです。