昨日、東京にある「和光小学校」の一年間を追った「あこがれの空の下」という映画を見てきました。
和光小学校での取り組みは大分以前にもテレビで見たことがありますが、なぜかピンと来ないのです。
同じような映画として「夢みる小学校」という長野県にある伊那小学校での活動を追った映画もあります。

ネットでは以下のように紹介されています。
学びの本質とこれからの教育のあり方を改めて問い直していくドキュメンタリー。宿題もテストもなく、子どもたちの個性を尊重し、本格的な体験学習を軸に子どもたちの主体的な学びを実践していく「きのくに子どもの村学園」。通知表のない伊那小学校や、校則や定期テストをやめた世田谷区立桜丘中学校など、公立学校の取り組みも紹介する。

私はこの映画の予告編は見ていますが、本編は見ていません。茅ヶ崎でも自主上映会は時々行われていますから評判はいいのでしょう。
予告編しか見ていないので断定的なことは言えませんが、でも、エッセンスは予告編の中に入っているのではないかと思います。

この両方の映画に共通しているメッセージは、「大人主体の教育から子ども主体の教育への転換」ということです。
そして、「子ども主体の教育をすることで子ども達はこんなにも素晴らしいことが出来るようになるのだ」とか、「こんなにも素晴らしい子ども達が育つのだ」ということが、映像の紹介と共に次から次へと出てきます。

でも、和光小学校を作ったのも、伊那小学校を作ったのも大人達です。運営しているのも大人達です。学びの方向を決めているのも、善悪の基準を与えているのも大人達です。

「子ども達を集めて自由にさせたら、勝手にこんな素晴らしいことを始めた、こんなに素晴らしい子ども達が育った」ということではありません。
大人から「自由にしていいよ」と言われたから自由に活動することが出来ているのです。大人から「失敗してもいいんだよ」と言われたから、失敗を恐れないでチャレンジすることが出来るようになるのです。

子どもは常に「大人の言うこと」や「大人がやっていること」を羅針盤にして、感じ、考え、行動しているからです。またそれが子どもの成長を支えている本能でもあるのです。
ですから、「子ども主体」という言葉に惑わされて、大人が大人の役割と責任を放棄してしまったら、子ども達は迷子になってしまうのです。

また、子ども達は大人達を羅針盤にしているのですから、大人達の無意識の要求も子ども達の状態の中に表れます。大人が頑張っている子を褒めれば、子ども達は「頑張ることはいいことだ」という価値観を持つようになります。それは一見いいことのように思えますが、それはまた、頑張れない子に対するプレッシャーにもなります。そして、頑張れない子はいっぱいいます。

「こんな素晴らしいことが出来る子がいる」とアピールすることで、その素晴らしいことが出来ない子が負い目を感じます。

映画の中では「子ども達はこんなに素晴らしいことをやっています」「こんなに素晴らしい子ども達が育っています」という事ばかりが出てきます。大人達はそれを見て感動するのでしょう。
でも、へそ曲がりの私は、その「子ども達はこんなに素晴らしいことをやっています」「こんなに素晴らしい状態に育ちました」というアピール自体に違和感を感じてしまうのです。

大人が光を当てれば、必然的に子どもの中に陰が生まれるのです。
でも、本来子どもは子ども自身が発光体であり、自ら光を発しているのです。そして、自ら光っているのですから陰は存在していないのです。


お母さん達に、子ども達の長所を聞くと、そのほとんどがお母さんの喜ぶようなことばかりです。言われなくてもちゃんと手を洗う、ちゃんと宿題をやる、ちゃんと片付けをする、ちゃんと下の子の面倒を見る、ちゃんと時間を守ってゲームをするなどなどです。
私はこれらの映画にそれと同じ視点を感じてしまうのです。ただ、大人による指示命令によってではなく、子ども自身に考えさせることでそれを実現しようとしているだけです。

私は、命の本能に従って、ムダなことや、役に立たないことや、大人の価値観(現代社会の価値観)から見たら意味がないことに夢中になっている子ども達が好きです。
言うことを聞かない子どもや、ダダをこねている子どもが好きです。
水たまりに入ってドロドロ、グチャグチャになっている子が好きです。
夢中になって描いたり、歌ったり、踊ったり、創ったり、遊んだりしている子が好きです。
お母さんに叱られることを忘れて遊びまくっている子どもが好きです。
勉強する子だけでなく勉強しない子も好きです。
また、そういう子ども達を肯定し一緒に遊ぶことが出来る大人も好きです。

多くの大人達はどうして「そのままの子ども」や「子どもらしさ全開の子ども」を肯定し褒めないのでしょうか。
でも子どもは、「ありのままの自分」を受け入れてくれる大人を受け入れ、そのような人から学びたいと思うのです。そこで初めて伝承や教育が可能になるのです。
「すごいこと」や「素晴らしいこと」が出来るようになるのはあくまでも結果であって、それを目的にしてしまったら「困ったこと」が起きてしまうのです。

以下の写真は「縄文土器」ですが、縄文土器は、ゴテゴテと無駄な飾りをいっぱいつけています。全く実用的ではありません。機能美は皆無です。
でも私は、この「無駄を楽しむ精神」の中に縄文時代の人の心の豊かさや素晴らしさを感じるのです。
そして、子ども達は様々な芸術的な活動の中で「無駄を楽しむ精神」を育てることが出来るのです。「遊び」もまた芸術的な活動です。

コロナの時はこのような活動は「不要不急」と呼ばれて否定されましたが、でも、これが人間らしさの原点でもあるのです。