一見、人間は周囲にある自然から切り離されて存在しているように見えます。植物のように、周囲の自然と直接つながっているわけでもないし、人間以外の動物たちのように、直接自然に依存して生活しているわけでもないからです。

また人間は、一人一人が「個」として別々の存在であると思い込んでいます。
その「個」を「私」と呼びます。
その「私」は唯一無二であり、世界にたった一人しかいません。

その「私」を作りだしているのは「私の記憶とつながった私の意識」です。「記憶」や「意識」は他者と共有することが出来ません。だから、自分で「自分」を見たときには他者や自然から切り離されているように見えてしまうのです。

でも、その意識の働きが創り出している「私」という存在は、脳が作りだした錯覚に過ぎません。最近流行のAIは、人間を模倣することで人間に近い思考をすることができますが、でもまだ「私」という意識には目覚めていないようです。でもそれも時間の問題だと考えられています。

また、人はその意識の働きで自分や世界を見ているのですが、自分で自分の意識の状態を見ることは出来ません。それは「自分の目」で「自分の目」を見ることが出来ないのと同じ事です。
そのため、意識の状態が歪んでも自分ではその歪みに気づきません。だから酔っ払いは、周囲の人の目には明らかに酔っているのに「俺は酔ってなんかいない」なんて事が言えるのです。麻薬をやっている人も同じです。

でも、その「意識の働き」を支えているのは「命の働きとつながったからだの働き」です。そして、その「からだの働き」はダイレクトに自然や、自分が存在している周囲の環境の影響を受けています。「からだ」は自然の一部として創られてきたものですから。

周囲の環境が変われば「からだの働き」も変わります。すると、意識の状態も変わります。町の雑踏の中にいる時と、静かな森の中にいるときとではからだの状態が全く違います。
その結果、意識の状態も変わります。感覚の状態も、思考の状態も変わります。でも自分ではその変化に気づきません。

昼間と夜とでは意識の状態が異なります。それは何らかの表現行為をしてみればすぐに分かります。同じ人が描いても、「昼間描く絵」と「夜描く絵」は同じにはならないのです。
食べ物や、傍にいる人によっても「からだの状態」は大きく影響を受けます。それは、「意識の変化」として表れます。

そして、ここからが重要なんですが、もう「からだ」が出来上がってしまった大人の、「環境の変化に対するからだの変化」は一時的ですが、今、そのからだが育っている最中の子どもの場合は、自分の周囲の環境の影響がからだの中にまで組み込まれてしまうのです。
暑いところで育った子と寒いところで育った子とでは汗腺の数まで違ってしまうのですから。そしてこれは大人になってからでは変わらないのです。

静かな環境で育っている子は、感覚の働きも、思考の働きも、からだの働きも「静かな環境」に合わせた状態で育って行きます。
いつも自然と触れながら育っている子は、自然の中にいるときに一番落ち着くようなからだが育って行きます。

仲間に囲まれて生活している子は、仲間がいると落ち着くようなからだが育って行きます。

そしてそれが命の働きに一番即した育ち方でもあるのです。なぜなら、人間は何十万年もそういう環境で育ってきたからです。

でもつい最近になって、人間はそれまで人間が暮らしていた環境とは全く異なる環境を人工的に作り上げました。それは命の働きとは無関係に創り出された環境です。
そこには常に刺激があります。自然もなければ、仲間もいません。子どもの周囲にあるのは機械と物だけです。それは、子どもの育ちにとっては人類史上初めての環境です。

そして、現代の子ども達はその「人類史上初めての環境」の中で育ち、それに適応したからだを育てています。

いつも騒がしくて、刺激が多い環境で育っている子は、強い刺激に囲まれていないと落ち着かないからだが育って行きます。そのため、静かなところに行くと退屈してしまいます。

自然から隔離された環境で育っている子は、自然に対して違和感や嫌悪感を感じるからだが育って行きます。そのような子は、虫やばい菌を過度に怖がります。
そのような状態で育った人は、大人になって親になったとき、自然のままに行動する「子どもという自然」に対して違和感と嫌悪感を感じるようになります。

機械だけを相手にして、いつも一人で遊んで育った子は、周囲に他の人がいると落ち着かないからだが育っていきます。

そして、そのような不自然な環境で育った子の心とからだの状態は不自然になり、心も不安定になります。
それに対して自然と共に育った子のからだは、自然の働きに支えられているので安定しています。そしてそれは、心の安定にもつながっています。