地面の高さが一様だったら降った雨はどこにも流れません。
ボールを置いても転がりません。
世界中で気圧が一定だったら風は出来ません。波も出来ません。波乗りも出来ません。

世界中の人間を同じ顔、同じ性別、同じ能力にしたら、人類はあっという間に滅亡します。
お店に行って同じものしか並んでいなかったら、経済は止まります。
子どもたちの能力がみんな同じだったら、社会から多様性は失われ、社会の変化も進歩も止まります。

みんなが同じ考えと同じ知識を持ち、みんなが同じ体験しかしていなかったら会話も対話も生まれません。
人間の顔が皆同じだったら、人間関係も社会も崩壊します。

「違い」が「動き」を作りだしているのです。そして、その「動き」の違いが多様性を生み出しているのです。
だから、「違い」を否定したら「多様性」も消えます。「多様性」が消えれば「進化」も「進歩」も止まります。

気候の変化が自然を生み出し、自然がさらなる違いを生み出し、その違いがお互いにつながり合い、支え合う関係を作ることで生き生きとした多様性が生まれたのです。

でも、人間は「違い」を嫌い「みんな同じ」を好みます。「みんな同じ」の方が効率もいいし、安心も出来るからなのでしょう。
「正解」があるから、工場生産も一斉教育も可能になるのです。

特に、憂鬱質が強く不安が強い現代の日本人は「正解」を決めたがります。「正解」を決めることで安心を得ようとするのです。
でもその結果、杓子定規的な考え方や行動しか出来なくなってしまっています。
「違い」は否定され、「みんな一緒」や「みんな同じ」を押しつけ合っています。
「同調圧力」や「忖度」も生まれています。

みんながアルコールで手を消毒し、みんながマスクをしていると安心するのです。
アルコール消毒やマスクには「コロナの感染を防ぐため」という目的もあるのでしょうが、それだけでは、「こんな所(状況)で感染するわけがないじゃん」という所でもマスクをしている人が多いことの理由を説明出来ません。

そのような人は「アルコールの害」や「マスクの害」には目を向けないのです。

コロナの感染を防ぐことも大切ですが、アルコールやマスクにも害があるのです。それは「コロナにかかるかも知れない」というような「可能性としての害」ではなく、「誰にでも確実に起きる害」です。特に幼い子どもや老人には大きな害をもたらします。そして、もうその結果が出て来ています。

だから、いつマスクを付けていつマスクを外すかと言うことを自分の頭で判断する必要があるのです。自分の状況は自分にしか分からないことだからです。

でも、正解にしがみつこうとする人は思考を停止することで不安から逃れようとするので「みんな同じ」でないと安心出来ないのです。その結果、平気で、「自分に害のあること」でもやってしまうのです。

またそのため、多数派と違うことを言ったり、やったりしている人がいるとみんなで非難します。自分の近くに「自分と違うこと」を考え、「違うこと」をやっている人がいると不安を感じるからです。

ちなみに、江戸時代までの日本人はもっと多血質が強かったような気がします。明治に入って、強大な力を持つ西洋と出会う事で安心が失われ、憂鬱質が強くなったような気がします。

それは、憂鬱質の子が家の中で楽しく遊んでいた時に、急に知らない人がやって来て固まってしまう状況と似ています。

現代人は、多様性の大切さは説くくせに、その多様性を生み出している「違い」は肯定しないのです。「みんな違ってみんないい」とは言うくせに、自分は「みんなと同じ」を求めます。
「みんな違ってみんないい」は、みんなと違う子を慰める言葉になってしまっています。

顔も、能力も、性格も、価値観も、感覚も、性別も違う子どもたちに、その違いを全く無視して同じ教科書を与えて、同じ知識と、能力と、成長を求めています。
自分の子と、他の子は違うのに、他の子と同じ能力を自分の子どもにも求めています。

平気で「自分の子」と「他の子」を比較します。兄弟も比較します。違いを肯定していないから比較が出来るのです。

簡単に「自分」と「他の人」を比較するのも、「自分」と「他の人」との違いを肯定することが出来ていないからです。そういう教育を受けてきたからです。

だから、「ほら、○○ちゃんはちゃんとゴメンネが言えるのに、なんであんたは言えないの」などと、子どもを非難したりするのです。

ちなみに、我が子と他の子を比較するのも良くないですが、兄弟同士を比較することはもっとやめた方がいいです。

親としては、比較することでやる気を目覚めさせようと思うのでしょうが、比較された子どもたちは、自分らしさを見失います。そして、兄弟が競争相手になります。そして次第に敵になり、憎しみも生まれます。

子どもは一人一人唯一無二の存在です。
自分もまた唯一無二の存在です。


本来は、唯一無二の存在を比較することなど出来ないはずなのです。そしてみんなが「唯一無二の存在」だからこそ、みんなで意見を出し合って、みんなで助け合う必要があるのです。

でも、唯一無二の存在であることを否定されて育った人にはそれが出来ないのです。