以下は、2019年11月7日のブログです。
「今日何を書こうか」と色々と考えていたのですが、今私が一番伝えたいことは「子どもの声に耳を傾けよう」ということなので、そのことを書いた過去のブログをそのまま転載させて頂きます。

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「子ども目線に立って子育てや教育を考えてみませんか」(声なきものの声を聴く)

子どもを何とかしようと思わなくても、お母さんが自分の考えをしっかりと持っていて、さらに、子どもとの信頼関係が築けているのなら、子どもは自分らしさに合わせてしっかりと育つものです。

それがうまく行かないのは、小手先の方法論で考えてしまうからです。


子育ての質問を受ける時には、ほとんどの場合「うちの子がこういう状態なんです、どうしたらいいのでしょうか?」と聞かれます。

でもこれは、見方を変えると「小手先の方法で何とかなりませんでしょうか」と聞いているのと同じ事です。

また、その質問の内容も「その子自身の悩みや苦しみを何とかしてあげたい」ということではなく、「思い通りにならない我が子、周囲から非難を受けるような行動を繰り返す我が子を、お母さんや周囲に迷惑をかけない子にするためにはどうしたらいいのでしょうか?」というものがほとんどです。

そこにあるのは「お母さん目線」や「大人目線」だけです。

「子ども目線」がないのです。

保育や教育の問題を考える時も同じです。みんな「お母さん目線」や「大人目線」だけで議論しています。そこで話し合われているのは「大人の都合」ばかりです。

保育園の問題も、「どう幸せな子どもを育てるか」という視点ではなく、「どうやってお母さんが仕事をしやすい環境を作るのか」という視点からの議論ばかりです。

「お母さんが幸せになれば子どもも幸せになる」ということを言う人もいますが、子どもをお母さんから切り離した状態でお母さんだけが幸せになっても、子どもは決して幸せにはなりません。そこは誤魔化さない方がいいです。

これは現代社会全体に見られる傾向です。
社会のあり方自体が「大人の都合」だけに合わせて作られているからです。

それでも昔は、社会の中に「大人の目の届かない場所」があったので、子どもたちはその「大人の目が届かない場所」で、子どもらしい遊びをしていました。

危険な遊び、汚い遊び、残酷な遊びもしました。

また大人達は、それに気付いても見て見ぬふりをしたり、大目にも見てくれていました。
子どもに対しての社会的な寛容があったのです。

今町の中でそのような場を探すとしたら「プレイパーク」しかないかも知れません。
町中で昔のような遊びをしたら通報されてしまいます。

「プレイパーク」は、大人が子どもたちの主体性や、権利や、子どもらしさを守るために町の中に作った、子どもたちのための解放区です。

でも、今では日常的にその「プレイパーク」で遊ぶことが出来る子は限られています。みんな習い事で忙しいからです。

「家でゲームで遊んでいる方が楽しい」という子も多いです。

「毎日習い事を習うほど経済的な余裕がない子」、「仕事で両親共が家を空けていて寂しい子」、「親子の関係にトラブルを抱えていて家庭の中に居場所がない子」などはちょくちょく来ているみたいですが、それはそれで問題です。

そのような子の受け皿としては大事な場になっていますが、それが「プレーパーク本来の目的」ではないはずです。
また、「受け皿があるから子どもを放っておいてもいいのか」という問題でもありません。


子育てや教育について議論する時には色々な視点があります。もちろん大人の視点も大事ですが、でも、肝心の「子どもの視点」を忘れてしまったら、子どもたちの悩みや苦しみが増えるばかりです。問題行動にもつながります。

そしてそれが、「子育ての悩みや、苦しみや、難しさ」としてお母さんに返ってきます。「子ども」や、「青年」や、「大人になれなかった大人達」の様々な非社会的な行動として、社会を苦しめるようにもなります。

昔は「反社会的な活動」をする若者が多かったですが、最近は「反社会な活動」ではなく「非社会的な活動」をする若者が多いのです。

それはつまり、「社会というもの」が理解出来ない若者が増えて来たと言うことです。だから「反対」も出来ないのです。

「子育て相談」の多くはお母さん目線に合わせた回答をしています。
国会の議論も選挙権を持った大人向けの議論ばかりです。
学校も大人目線だけで管理、運営されています。

でも、「子ども目線」を忘れてしまった社会に「幸せな未来」はやってこないと思います。

今は大変でも、ちょっと立ち止まって子どもの幸せを考えることが、巡り巡って結局は大人に幸せをもたらしてくれるのです。

今、一時の楽や幸せを得るために子どもを犠牲にしてしまったら、結局は巡り巡って大人に苦しみがやってくるのです。

これと同じ事が自然界においても起きています。

子どもや、物言わぬ生き物や、苦しくても声を上げない存在の声を聞こうとする努力を失ってしまったら、人間にも苦しみが返ってくるのです。