本日の名言

「自分のため」を怖れない。

「自分で」「自分を」「自分のため」といった発想を多くの人は恐れています。
なぜそうなるのでしょうか。
この社会では「自分のため」といえば「自分のためにしか行動しない人」を指すからなのです。それでは自己中心的といわれても仕方がなく、そういわれて喜べる人も少ないはずです。
だから「自分のため」というのを避け、「人のため」と自己弁護しているのですが、そのために自身がストレスを抱えてしまう場合があります。

まずは「自分のため」という恐れを解放してください。
まず、自分のために自分の心を大事にし、心を平和で安定した状態に保つことで、結局は人のために行動できる余裕が生まれるはずです。

自分がストレスにとらわれているとき、心から人に優しくできるでしょうか。
心の余裕があれば他人を大事にして、そのために行動することが簡単です。
周囲の人のために行動しようと思えば、自分の期限を保つことが何よりも大切だということを忘れてしまっていませんか。

「誰かのためにやらなきゃ」と考え、人のために一生懸命行動し、結果として自身の心にストレスを抱えている。
そうではなく、自分の心を大切にし、心の状態が平安になれば、自ずと誰かのために行動しようとする、と考えてみてはいかがでしょう。
自分を大事にすることからはじめて、誰かのために楽しくハッピーに生きられる。

by「心を磨く50の思考」辻
http://www.gentosha-edu.co.jp/products/post-166.html


(ダンカー教徒のお話。。。)
かような謙譲さを持つ宗派は、人類の歴史の上でおそらく唯一の例であろう。あらゆる他の宗派は、真理は全て自分にあるものと考え、自分と異なるものがあれば、異なるほうが誤っていると考えている。
それはちょうど霧の日に道をゆく旅人に似ている。少し先を行く人々も、あとからくる人々も、また左右の野原にいる人々も、全て彼には霧に包まれているように見え、自分も他の人々と同様にやはり霧に包まれているのに、ただ自分の周りだけが明るく見えると思いがちなものである。

「フランクリン自伝」by ベンジャミン フランクリン


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Todays wine.
引っ越し前の飲み納めもほぼ終盤に。今週末に向けて準備が進んでるのはこれだけかも(笑)


フランクリン13徳
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%B3

私が作った徳目の表は最初は12項目しかなかった。
ところが、クエーカー教徒の友人が親切に言ってくれたのだが、私は一般に高慢だと思われていて、その高慢なところが談話の際にたびたび出てくる。その実例をいくつも挙げたので、私もなるほどと思った。そこで私は他の悪徳や愚行と同時に、できることならこれを治したいと考え、謙譲 の徳を表に加え、その語に広い意味を持たせたのである。
私はこの徳を真に自分のものにしたと誇るわけにはいかないが、少なくともうわべだけは相当成功したと思う。間違いだと思われることを他人が主張したときでも、これに応えるに、まず最初に、時と場合によっては君も意見も正しいだろうが、現在の場合はどうも違うようだ、自分にはそう思えるが、などと述べるのであった。
かような態度は生まれながらの性質ではなく、初めは多少無理をして装ったものであるが、しまいには自然になり完全な習慣となったから、この50年間、私の口から独断的な言葉が出るのを聞いたものはおそらく一人もあるまい。
実際我々が持って生まれた感情の中でも、自負心ほど抑えがたいものはあるまい。どんなに包み隠そうが、それと戦おうが、依然として生き続けていて、ときどき頭をもたげ、姿を現すのである。なぜかといえば、私は完全にこれに打ち勝ったと思うことができるとしても、おそらく自分の謙譲を自負することがあるだろうから。

「Franklin Autobiography 1818」by Benjamin Franklin

野球の采配と同じように、人生のターニングポイントでは「左へ行くべきか、右へ行くべきか」という決断をしなければならない。そして、左右どちらの道を進もうとも、別の決断をした未来を見ることはできない。
あの時、別の道に進むべきだったか。
齢を重ねるほど、あるいは人生がうまくいっていないと感じた時ほど、そうやって自分の人生を振り返るものだろう。だが、自分が歩んできた道は、既に歴史になっているのだ。ならば、「これでいいんだ」と踏ん切りをつけることが、その先に進んでいくための原動力、次への一歩になるのではないか。私はそう考えている。

どうすれば成功するのか、どう生きたら幸せになれるのか、その答えが分かれば人生は簡単だ。しかし、常に自分の進むべき道を探し求めること、すなわち自分の人生を「采配」することにこそ、人生のだいご味があるのだと思う。

人や組織を動かす以上に、自分を動かすことが実は難しい。それは、「こうやったら人にどう思われるのか」を考えてしまうからである。だからこそ、「今の自分には何が必要なのか」を基本にして、勇気をもって行動に移すべきだろう。

from 「采配」 by 落合博満
選手の起用に関して、私は一つの信念を持っている
「痛い」といった選手は使わない、ということだ。

例えば優勝争いの真っ最中のペナントレースの終盤、四番打者が「腰が痛い」と言ってきたとする。そこで「悪いが無理をしてでも試合に出てくれ」と半ば業務命令でスタメン起用したとしよう。どうにか試合に勝てればよいが、四番打者が打てずに負けたとなると、話がややこしくなる。四番打者に愚痴を言われるのも気分が悪い。「腰の痛みを我慢したせいで他も痛めてしまった」と言われても責任の取りようがない。

だから、普段から選手にはこう言ってある
「痛いというやつを無理やり使うほど、チームは困っちゃいない。痛ければ何ぼでもいえ。すぐに二軍に落としてやるから」

誤解をしてほしくないのは、脅し文句で言っているのではないということ。選手のトレーナーからは、個々の選手がどういう状態かという報告は細かく入ってくる。それを踏まえたうえで、判断はあえて選手本人に任せているのだ。

デッドボールをぶつけられたときも同じだ。痛いに決まっている。だから私は「痛むか?」などとは聞かない。
「出るのか、引っ込むのか、どうする?俺だったら、ほかの選手にチャンスは与えないけどな」
ボソッとつぶやく。
選手にしてみれば、デッドボールは当たりたくて当たっているわけではない。不可抗力の負傷だ。だが、私に言わせれば、簡単にデッドボールを受けないのも一流の証なのだ。

食うか食われるかの勝負の世界は、誰がレギュラーになるのか、最終的には選手たちが自分で結論を出す。
そして、レギュラーを狙っている若手選手は、レギュラーの立居振る舞いを見て育っていく。
レギュラーがひ弱いチームは、次の世代に出てくる選手もひ弱くなる。

だからこそ、監督はレギュラー、すなわちチームにとって必要な人材からこそ、甘えを断ち切っておかねばならない。

from「采配」 by 落合博満


Bourgogne Pinot Noir, 2011. 
しばらくブルゴーニュ ピノノワール を続けて飲んでみよう、という企画。