■BOOK「フェイスブック 若き天才の野望」


この本がとても分厚いので、まだ全部読んでいませんが、

途中思ったことを少しだけ書きます。


多くの人が、facebookについて

「ハーバード大学の学生が、美人がとっている授業が何か知りたくて開発した」

ということを聞いたことがあると思う。


だがそれは正しいニュアンスを含んでいない。

「英語以外に4ヶ国語を操るプログラミングの天才が『SNSとは何か』を追究しながら生みだしたもの」

という方がとてもしっくりくる。


というのも、ザッカーバーグにとって、

「裕福な家庭に生まれ、ハーバード大学に入学した」こと意外に、

偶然に似た受動的な行動はなく、その時々に将来を見据えた計算を経て

大事に育ててきたことが分かる。


ハーバード大学の外に展開する際にも、先方から要望を受けても断ることもした。


自分のSNSへの思いと、ユーザーの心理をうまく調整しながら、

もちろん優れた友人に恵まれたことも大きく功を奏して、結果的には

全世界の人のコミュニティーを構築することになる。


つまりは、例えば日本でこれと同じことが出来たかというと

非常に難しいと言わざるをえない。


一つは言葉の問題があり、また内向的な性格が打破するには分厚い壁に思える。


例えば、これからザッカーバーグのようなSEを目指す人は

まずは彼におけるSNSのような、自分の信念を見つけることが大事と思われる。

そして彼とは別の視点にたったシステム開発を望む。


また、ユーザーとしても「システムに使われない(=翻弄させられない)」ことを念頭において

「自分でどう使うか」というスタンスを持っていたいものだ。

ザッカーバーグは、「どう使おうがユーザーが決めてくれればいい」というスタンスで

開発を進めてきた。

だから、非常に自由度の高いシステムであって、だから自分の時間をそこで費やそうと思えば

いくらでも出来るだろうし(望んでも望んでいなくても)、

その方向性だって、自分で決めていかなくては、不必要に幅広くなる。


自戒をこめて。

今日は時間があったので、家で着物を着ています。

帯のお太鼓も、ちゃんと刺繍がずれないで着ることが出来ました◎


今日は、小沢一郎議員秘書の石川被告・池田被告の政治資金規正法違反についての

裁判傍聴をしてきました。

傍聴券配布事件だったのですが、傍聴希望者が定員に達しなかったので

抽選なしで傍聴することが出来ました。


これまでの民事事件と異なり、法廷には貴重品とメモ用品以外の持ち込みが禁止されており、

荷物を預けたあとに持ち物検査(両腕を肩まで上げて、身体にセンサーを当てられる検査)まである

厳重ぶり。


1/3の席は報道記者席となっており、また関係者用の席も多かった。


内容としては、今日は証人尋問だった。

当時検事として池田被告について調書をとっていた検事二人が午前と午後にわかれて

呼び出された。

なぜ二人かというと、その事件を追っている途中で担当替えがあったからだ。


話を聞いていて思うには、思った以上に検事は組織だっていた。


二人とも、とても話慣れているようで、整理して話すことは得意なようであったが

少し無機質に思ったのも事実。こういう環境で私たちの平和な環境が保持されていることは

認識しておくべきかもしれない。


また、弁護士とはまた可哀想な役まわりだとも思う。


検察と比べて、とても質問一つ一つに時間がかかり、また質問内容も細かい。

また若干の(=非常に弱い)脅迫的ニュアンスを含めた質問の仕方も多い。

似た質問を裁判官が言うのと弁護士が言うのではこんなに伝わり方が違うのか、と驚く。


よくも悪くも、裁判では裁判長が「長」である。

法廷は、とても幾何学的にもヒエラルキーをみるにも整っていて、

あくまでその中で議論が行われる。


これまで数回傍聴したが、いずれも個性的な弁護士・検察・裁判官を見てきた。

話下手な人もいたし、絵に描いたようにえらそうな人もいた。

それぞれが「自分」を出して、その時々の顧客を助けようとしている証拠だと思う。

(そう信じている)


今日の裁判の注目点は、弁護側の主張(=被疑者の主張)と証人の主張の相違だと思う。

検察官・弁護人ともに、これまでの被疑者の主張を証人に述べた上で

「本当にあなたはこう言ったのですか?」というスタンスの質問が多かった。


今日は全て「言ってません」あるいは「記憶にありません」という答え。

被疑者は、ずっと顔色を変えない。


次回については、よくわからなかったのですが、多分根拠が証明された証拠などを

検察側が提出し、その主張に対して弁護士側の反論の機会も経て

判決になるのではないかと思われる。


弁護士側の反論が来月半ば。

まだまだ長くかかるようだ。

今日は久しぶりに会った高校時代の友人と、銀座で待ち合わせ。

ランチを食べ、ライカ・ギャラリーをみて、その後少し買い物をして帰宅。


ずいぶん久しぶりだったが、それに気づかないくらい自然に話しができる関係に感謝。


今、日本は東北関東大震災の影響で、避難している方々の様子、原子力発電所の状態が

毎日私たちの興味を占める。


どこかのジャーナリストが言っていた。

人間には三重の立場が必要であると。


会社・家庭・地域。(表現は違ったかもしれないがご勘弁を)


これは、本当に実感していて、私は地震が起きたとき、「家庭」という社会にしか属していなかった。

だから私を取り巻く環境に起きた「動揺」は、おそらく少ない方だったはずで、

ある意味で良いことだったのかもしれないが、

その反面、ある種の「不安」を感じたのも事実だ。


私は、何かがあったとき、誰の助けを受けて、あるいは誰を助けることが出来るのか。


そして、住まいを変えて今、

会う度に私を気遣ってくれる大家さんにとても精神的に支えられていることを実感しているし、

近所に人同士が偶然会ったときに挨拶を交わしている周りの方々の様子をみて

「平穏」を感じている。(私はその仲間に入れてないけれど)


そして今日、昔、高校時代に味わった連帯感に似たものを感じることが出来た。


人は生きている中で、多くの人に出会う。

中には特に意図せずに接する機会をもった知人もいるだろうが、

それら全てがいかに自分の糧となるのか、

それを大人になってから知るのはとてももったいないことだと思う。