こんにちは、かなりお久しぶりですが最近駅のホームで見知らぬ人同士が喧嘩をしていて、仕方なくその仲裁に入ったのでその時に思ったことを書いてみたいと思います。
駅から降りて改札に向かおうとホームを歩いていると、ちょうど私の目の前、進行方向ど真ん中で取っ組み合いをしている20代前後の若い女性と40代くらいのおじさんがいて、どうも周りの人間も見てみぬふりもしくはなすすべなしと言った感じで
当事者同士はかなり感情的になっていて、行動どんどんエスカレートしていたので仕方なく仲裁に入って柔らかく押さえて2人を宥めながら引き離すことができました。
周りの人たちの証言から、どうやらぎゅうぎゅう詰めの車内から降りる時に男性が女性を押しのけたらしく、そこに女性は男性の顔に蹴りとパンチを入れたようで、男性は顔から血を流しながら、怒って女性を取り押さえて髪の毛を掴んだり、胸ぐらを掴んで捕まえている状態で、お互いに相手を罵倒していたわけです。
駅員さんや警察も駆けつけて事は物理的には解決しましたが、本人達の心は何一つ解決していなかったでしょう。
20代女性がいきなり顔面に蹴りを入れる事はまず難しいですが、証言と顔から血を流している男性からして、事実なのでしょう。
そうなると何かしらの格闘技、武道、武術を習っているのでしょうが中途半端な武力ほど怖いものは無いなと思いました。
2人の気持ちを想像してみると女性は格闘技をやるくらいですから少し気の強さや理不尽な暴力に対して怒りの感情をもっていてもおかしくありません、そんな中で23時近くの電車の出口で男性に押されたことにはかなり怒りと危機感を覚えたでしょう。
男性の方はおそらく遅くまで仕事をしてやっとの帰宅、現代人職場で幸せな気分でお家に帰れる人なんて少ないでしょう、何かイライラしていたのかもしれません、そんな中で電車の降りぎわでたまたま押してしまったところ、女性が逆上し顔面に蹴りとパンチを入れられるなんて、たまったもんじゃ無いでしょう。
真実はわかりませんが
私が言いたい事は、本質的にはどちらが悪いと言う事は無いなと言うことです。
裁判のような事になれば実際の、行動から白黒つけるのでしょうが
本質的には、既にいつどこでそう言った事件が起きてもおかしく無い社会のエネルギーがあると思います。
それが、些細なことをきっかけに心がマイナス感情に流れていってしまった。
そして行動にまで出てしまったと言うのがあり、人間の感情としては孤独と悲しみが裏返っての怒りの爆発では無いでしょうか。
私は現場で実感を伴ってその感情を感じました。
だから私はその感情にアプローチしながら柔らかく2人の間に入る事で安全に納めることができたと思っています。
一般的には暴力で取っ組み合いをしている人間に対しては何の尊厳も尊敬もなくただ野蛮な存在として物理的に力で引き離して処理するでしょうが、その姿勢が逆に当事者が怒る原因になったりすると思います。
話を戻して社会エネルギーの内容ですが、本来共同体を大事にする日本人ですら強烈な個人主義の土台の上に立っており、他社やコミュニティとの分離は激しく、また経済的にも未来は感じられず個人の力ではどうにもならない上に人間の脳機能の1兆倍の能力をもつAIの急速な進化によってほとんどの人間は社会貢献としては無力となる手前まで来ています。
スマホからの情報量は過剰に供給され続け、人間関係にも苦労するとなれば脳疲労で苦しむでしょう。
ストレスから生活習慣をまだして健康を害する人も多いと思います。
そんな方向性の見出せずストレスだけがたまる世の中の現状としての今回の事件があると思うし、多くの人間が怒りをためたまま吐き出す場所もなく爆発寸前、
「私を無視するなー!!」と強烈な叫びと涙が聞こえてくるかのようです。
では何故このような問題が起きまた解決されないのでしょうか?
私はそこには2つの問題が隠れいてると思っています。
一つは「観点の問題」です。
詳しくは割愛しますが、ざっくり言うなら人間は誰しも判断基準や価値観を持っていますがそれは誰1人として全く一致する人はいませんし、また全く同じでも問題なのです。
そんな観点がなぜどの様に生まれるのか分からずまた自分がどの様な観点、大前提を持っているのかを知らないままに生きて人と関係を気づこうとしているのです。
例えば「〇〇するのが常識だ」とか「私は男だ、女だ」や「自分は人間である」と言う大前提までもが観点です。
この当たり前がある以上は人を深く愛する事ができないのです。むしろ争いや戦争の動画にしかならないのです。
もう一つの問題は「言語」の問題です。
私達が普段使っているあらゆる言語には、主語と述語がありますが、これは700万年前の原始人が狩をするために使っていたものと同じなのです。
これの問題は、主語が既に存在していて固定されてしまっていることです。
例えば「ボールペン」と言えばそれは文字を書くと言う機能に可能性が固定してしまいます。
それ以外の多様な可能性を潰してしまうことになりますし、何よりそのボールペンを生み出すためには多様な素材や工程が会って存在しているのにその背景までを表す事はできません。
人間の名前も同じです。誰かの名前を思い浮かべてみてください、この人はこう言う人間であると言う既に固定されたイメージがあるはずです。
もっと本質的には存在そのものに対しても同じです。
存在は疑いなく存在している前提で全ての思考がスタートするはずです。
科学者達はそれが原因で宇宙空間の謎、時間、空間、存在の外に出られないでいると思います。
存在を存在させるためにはそれを成り立たせるための裏の動きが必要で、そのさらに動きの外までを取り入れないと証明、理解することができないことになりますが、私達は何となく存在が有るという大前提が定着した状態で生活しているわけですから問題が起きるのは当然では無いでしょうか。
だから本当に問題を解決するためには、存在はおろか時間、空間の外が認識できなければなりません。
それをnTechでは映像スクリーン(存在)、バックスクリーン(存在の裏の動き)、スクリーンの外(純度100%の心、源泉の動き)で定義することでスマホの構造を理解するようにシンプルに理解することができるようになりますが、そうなると今度は今までの言語が変化します。言語革命がおきるのです。
今まで使ってきた「存在が動く」アナログ言語から「動きが存在させる」デジタル言語の移動できるようになると存在を成り立たせる裏の動きを活用して自ら立ち上げたい世界を構築することに活用できるし、人の深い心も理解することができるようになります。
そして何より重要な事は有の定義と無の定義がひっくり返ることです。
今までは時間、空間の中に現れるものを有でそれ以外を無と定義してきたけれど、しかし時空間の中にあるものは全て何かに依存して成り立っているので、独立して存在する事は不可能なので無であり、何にも依存せずに独立して存在する、純度100%の心、源泉動きだけが有となるのです。
それが論理とイメージで理解できた時に始めて脳の因果から解放されてスッキリ、そして目の前の現実は何も変わっていないのに全てが変化していることが認識でき、歓喜の心で人生を始められるようになります。
それでやっと本来のスッキリ、幸せ、歓喜な人生のスタート台に立つことができるので、今の社会の怒りも一掃することができて、駅のホームでの出来事も歓喜感動の出会いとなると思います。
現実できな事件から本質的な問題と解決までと、格差の大きいような話でしたが今日はこのくらいに。








