閑話休題 -21ページ目

美形の蛇姫ー上田秋声『雨月物語』

 紀州新宮の網元の三男に生まれた豊雄という男は、学問好きな美少年であった。新宮の寺子屋から帰る途中夕立になり、雨宿りしている時に、鄙には稀な二十歳ぐらいの美女が、十四五位の童女に包み物を持たせて「この軒しばし恵ませ給へ」と同席を求めて入ってくる。気の毒に思った豊雄は、「もしこ私の傘でよければ差し上げましょう」と女に傘を貸す。 女は「私は新宮の傍ら、県―あがたーの家の真名児-まなごーと申しますと名乗って、一度お遊びにと言って傘をさして帰って行った。

 

 豊雄は女の面影が忘れられず、女の家を訪ねる。家は門も大きく、部屋も豪壮で、真名児は酒や海山の御馳走で歓待し、ついに枕を共にして朝を迎えた。そして別れる時、女は金銀を飾った太刀を「夫の形見」といって、豊雄に与える。 

 ところが家に帰ると、家人はその太刀を不審に思い、最近都の大臣から熊野権現に献上された神宝が全部盗まれ、大宮司が国守に訴えているという事を、父は聞いていたので、その太刀を父親が大宮司に持参すると、、盗まれた神宝だという事が分かり、富雄は追及されて、武士に伴われてその女の家に向かう。

 ところが昨日あれ程豪壮だった屋敷は今や荒れ果て、板敷は一寸ばかり塵がつもり、格子を開ければ、古い帳の傍に花の如くなる女が座っている。武士が「国守の召しだ。すぐ参れ」と迫ると、途端大地も裂けるばかりの雷鳴が鳴り響き、女は消え、後には盗まれた多くの神宝が残されていた。

 

 豊雄は百日余りの牢住まいの後許されたが、両親は豊雄の身を案じ、新宮を離れて、大和三輪の姉の嫁ぎ先に身を寄せるようにさとす。姉夫婦も「いついつまでもここに住め」といって歓迎される。長谷寺参りの街道に面し、社寺に供えるローソクや燈心を売る店で繁盛していたが、或る日、美しい女連れが来店し、供をしている女童が「わが君がここにいますわ」と言うに、豊雄はよく見ればかの真名子なり。しかし姉夫婦はこの女の振舞の上品さにひかれて一室を与える。姉夫婦は婚礼をさせて二人はまたも夫婦となる。

 春になって、姉夫婦の勧めに吉野に桜見物に行き、菜摘川で食事をしてると、山から下りて来た翁が、真名子を見て「あやし、この邪神」と言うや、真名子と童女は滝に飛び入り、老人は豊雄に「さればこそ、この邪神は年経たる蛇―おろちーなり」と告げる。

 

  再び豊雄は一人で新宮に戻る。両親は心配して新しき嫁を急ぐ。そして都に宮仕えしていた富子が選ばれ、晴れて二人は結婚する。

結婚二日目、富雄は新妻の富子の声がかの真名子にそっくりなのに驚く。富子は「さるべき縁にしあれば又もあい見し」と言う。富雄は驚き仲人に告ぐ。そこで熊野に参篭の鞍馬の修験者を呼ぶが、此の僧も邪神に追い返される。そこで道成寺の法海和尚に頼み込むと、まず芥子の香に包まれた袈裟を与えられ「この袈裟で富子を抑え込み、逃がすな」と言われ、帰りて富雄が部屋に入り、富子に袈裟を押しかぶせていると、富子は「あな苦し」ともがく。それでも抑えて離さずにいると和尚が来たり、念仏して袈裟を上げると、白き蛇の三尺ばかりが伏せており、和尚は徒弟の下げて来た壺に入れる。なお念じ給えば、屏風の後より尺余りの小蛇が出て来たのも壺に入れ、道成寺の前を深く掘りて壺のまま埋め、永劫の間世に出ることを戒め給うたということである。

 

 

 

 

 

 

 

魔性の美女――泉鏡花『高野聖』より

 明治の始め、ある男が旅行中、旅の僧と道連れになり、敦賀の宿に同宿する。その僧が語り出したのが奇怪な魔性の美女の話である。

 

 僧が若い修行中の頃、飛騨から信州松本へ山越えする時、前夜同宿した富山の薬売りが、速足で僧を抜いて行く。山坂になり、途中道が二つに分かれていて、狭い道は急坂で険しいが山越えの近道という。僧は迷ったが、広い道の坂を降りて来た農夫は広い道を行けという。だが僧は富山の薬売が気になり、僧は狭い急坂を登り始めた。ところが蛇が道にたむろしていること数回、それを逃れて森の中に入ると、森はヒルの巣で、木の上から雨のように襲って来る。痛さに潰しながら歩くが、やっと森を出て体を横にして転がしながらがらヒルを殺す。道は下りになり谷川い出る。一息ついて気が付くと馬のヒヒーンと啼き声が聞こえる。

 しめたと思い僧は馬のいる山家の一軒家に辿りつく。濡れ縁で足腰弱く、痴呆症の青年と出会うが、問いかけても答えしない。更に大声で案内を乞うと、「小造りの美しい、声も美しい、ものやさしい」女が出て来て、泊まって行けと誘われる。そして私はこれから米を研ぎに行くから、その谷川で汗を流しなさいと勧め、僧は彼女について谷川に降りて行く。途中田舎の親父に出会う。そして冷たい川の水て体を洗うが、女も裸になって水浴し、僧の体を手で洗ってくれる。女の裸を見て猿や大蝙蝠、子供ほどある鼠が女に寄ってくる。「お客様が見えないか」と叱ると、獣たちは去ってしまう。

 

 さて川から上がると先程の親父が、出合頭に「やあ、だいぶん手間が取れると思ったのに、お坊様元の体で帰らっしゃたの」と謎の言葉をかける。そしてヒイヒィンと啼く馬を門前に曳きだし、「これから馬市でセリにかけに行く」という。だが馬は一歩も前に進まない。見ていた美女は腰ひもをとり、単衣を乳の上で抱えながら馬の眼前に立つ。顔は魔性のようで、吹いて来た風にその単衣を脱いで丸裸になり、馬の脚の間から裸体をくねらせて横に出るとと、馬は喜んで親父に牽かれて山路に入る。

 

 その夜、僧は女手作りの山菜の夕餉を頂き寝につくが、真夜中家の周りは、猿、ヒキガエル、羊、ムササビ,牛などの獣たちが、家の周りや屋根に上ってうめく。木の葉が騒ぎ、まるで魑魅魍魎ーちみもうりょうーの夜の世界に、僧は吃驚。

 

 明くる日出立した僧は、下山途中に昨日の親父と出合う。その親父の話では、昨日引き立てた馬は僧の前に来た、富山の薬売りの変わり姿で、女が裸になり、谷川の水で男の体を洗ってやった時、女が男に息を吹きかけたら、馬や牛その他の獣になってしまうのだという。あの家の近くに住む獣たちも女によって獣になった者たちで、「坊様は助かってよかったね。あの女に妄念を起こさずに、早うここを立ちのかっしゃれ」といって、売った馬の代金で買った大きな鯉をぶら下げて、「今晩女と酒盛りをするよ」といって、山路を足早に去って行った。

 私は吃驚してもぬけのやうに立っていたが、やがて魂がもとに戻り、里に向かって一散に駆け出して逃げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

牡丹灯篭ー三遊亭円朝

 激しい長雨の後、カラ天気続き.猛暑の日々の連続。被災者には申し訳ないが、今年の秋は大豊作。

 さて前々回まで続けて来た奈良大和路散歩は、涼しくなる秋口まで棚上げし、夏の夜にふさわしい妖怪談をいくつか紹介しよう。

 牡丹灯篭は原作はシナ。江戸後期に日本でいろんな文芸書に現れるが、三遊亭円朝の作品は、原本の構図を基本に、日本の敵討ちの話題を織り込んで、大衆に歓迎された。

 

 旗本飯島平左エ門は妻が死んだので、召使いのお国を妾にするが、お国は先妻の娘,お露を遠ざけて召使いのお米と一緒に別居させてしまう。その別宅に、本家に出入りの医者が、萩原新三郎という若い浪人を伴って訪れる。お露はその新三郎にぞっこん惚れこみ恋い慕う。

 ある時別宅の傍の隅田川で釣りをした新三郎は、そのついでにお露を訪ね、その後再三夜毎に通っていたが、或る日実父の飯島に見つかり、不義の罪でお露を一刀のもとに切り捨てる。お米もそのとばっちりを受ける。

 其の後、ある夜新三郎が涼をとっていると、庭先に牡丹灯篭を下げてカランコロンと下駄の音と共に、死んだ二人は幽霊となって現れる。それから幾夜、お米とお露が通い続け、寝所を共にする。

 隣の伴蔵が独り暮らしの新三郎宅に女の声がするので不審に思い覗いてみたら、二人は仲睦まじく抱き合っているが、二人の女は腰から下が無い。幽霊ではないかと思い、隣家の易者に相談する。易者は魔除けのお札を家の四方に貼るように指示し、新三郎には持仏の海音如来像を肌身離さず持つように言いつける。一方新三郎は二人の住居を訪ねると、寺の墓に牡丹灯篭が置いてあった。

 二人は魔除けのお札のお陰で、新三郎の家には入れず、伴蔵にお札と如来像を盗むように頼み、百両の金を渡す。その結果二人は家に入り、新三郎は取り殺されてしまう。

 

 蒸し暑い夏の夜、死霊が綺麗な着物を着て、カランコロンと下駄の音をたて、灯篭を下女に持たせて、昔の恋人の下に通う。大衆が好みそうな題材である。

 アメーバーへの接続不通で、1ヶ月ほど休んでしました。

 皆さん、このところの猛暑いかがお過ごしですかいつもの年は8月に入ると朝夕涼しい風が入り、昼の暑さを和らげてくれるのですが、今年は真夜中まで蒸し暑く、熱帯夜の連続です。

 私の子供の頃、夏の夜は浴衣に着かえて、涼みに出たものでした。「川風につい誘われて涼み船・・」などの情緒はすっかり失われてしまったのが、寂しいです。

 このごろ都会から田舎に移住して、田舎暮らしされているテレビ番組がよく放送されます。みんな子供が昆虫集めに夢中になったりして、子供と自然が溶け合い、生き生きとして来たと、親たちが喜んでおられます。

 猛暑の都会で、子供を勉強漬けにして、本来のあるべき人間の自然成長を妨げておられるのが、残念に思います。

 わたくしの家は30坪ほどの庭に芝生を敷き詰め、隣家との間に竹や灌木を植えて隙間を埋め、毎朝緑に包まれた庭を見ることが、私の心の癒しになっています。緑っていいですね。日本列島は恵まれた環境にあり、有り難いことです。

 

 

 大和路散歩 4 筋違道 ―すじ違い道ー

 佐紀・佐保・鉢伏道の次は、南の山の辺の道飛鳥の道になるのだが、この道は多くの人が歩かれている有名な道なので、ここでは飛ばして、奈良盆地に残る飛鳥時代の筋違道を歩いてみたい。

 

 3000年前、大和盆地は下図のように、標高60mまでは大和湖と呼ばれた湖があり、人々は標高60mの湖岸を往来していた。それが山の辺の道として残っている。湖は1,000年経った弥生中期には、周囲の山の土砂で埋められ、湖の水は現在の王寺と河内の境、亀の瀬を蹴破って大和川となって大阪湾に排出され、大和湖の水位が下がって行った。だが45m以下の低地はまだ水が溜まっていたが、4世紀に景行天皇が宮廷に収用してに三宅とし、百姓を入植させて灌漑、百姓が通う大和湖に沿った斜めの自然道路は、筋違道と呼ばれ、聖徳太子が斑鳩宮を造られて、飛鳥の宮廷に馬に乗って通われた道と伝えている。その道を歩こうというわけだ。

 

 近鉄大阪線の大和八木で、京都線に乗り換えて一つ目の駅が新口駅である。ここは歌舞伎で今も人気のある、近松門左衛門の晩年の名作、「恋飛脚大和往来」の主人公の故地である。大和新ノ口村の百姓、孫右衛門のひとり息子忠兵衛は、継母との折り合い悪く、大坂淡路町の飛脚問屋、亀屋に養子に遣られたが、年頃になって新町の遊女梅川と馴染みになり、阿波の金持ちと張り合って、店の金三百両を盗んで梅川を見受けする。梅川もその大金は店の金でいずれ追及される身と分かり、忠兵衛も一緒に死んでくれと頼む。梅川は「死んでくれとはもったいない。どんな在所へでも連れて行き、せめて三日間なりとも女房にして、こちの人よと言うた上で、どうぞ殺して下さんせ」というので二人は忠兵衛の故郷、大和の新口村を目指すのである。

 舞台第二幕「新口村の場」では雪景色の舞台となり、父の孫右衛門が登場、雪に突っ込んで下駄の鼻緒を切ってしまう。其処に二人が隠れていた小屋から梅川が飛び出し、その鼻緒をすげ替える。孫兵衛はこの見知らぬ女が忠兵衛と駆け落ちした女と悟り、路銀を渡してここから逃げるように勧める。忠兵衛は目隠しされて孫右衛門の手を取り別れを惜しむ。そこへ捕り手の太鼓が鳴り響き、二人は村の奥に道を逃げていく。雪の降る中うつむいて去る忠兵衛、何度も手を合わせて孫右衛門を拝む梅川。だが二人は捕らえられ、忠兵衛は大坂千日前の刑場で死罪になった。その時父が供養に建てたと言われる二人の供養塔か゛、駅の東、安楽寺の境内にある。

 

 もと来た道を引き返し、寺川の堤防に沿った下ツ道を北上すると、近鉄笠縫駅につく。駅の西に泰楽寺がある。ここは聖徳太子に信頼厚つかった帰化人泰河勝が建てた寺で、門前には能の金春-こんぱるー家の故地があったという。中世兵火によって焼かれたが、再建されて立派な御堂があり、泰河勝が祀られている。境内にアマテラスを祭る笠縫神社がある。静かに大和の隠れ寺である。

 

 この秦楽寺を出て北に向い、三笠の交差点を西に、しばらく行って北の道を進むと,保津の村に着く。更に北の宮古・黒田の村を過ぎると三宅と結崎-ゆうざきーに着く。寺川の下流で、堤防には「面塚」「観世発祥の地」の碑が立っている。日本の格式ある能を完成させた

観阿弥が、この地の結崎寺の猿楽の座に入り、観世座として独立したのが1361年、27歳の時で、この寺川の河川敷に住み、能を完成させた息子の世阿弥もこの河原小屋で生まれた。明治になりそれらの史実が明らかになり、地元により顕彰碑が立てられ、観世一門が招かれて、盛大な除幕式が行われた。

 

 ここから近鉄の結崎駅まで近い。新口駅から笠縫駅、さらに結崎駅まで歩いたが、中世の日本の歴史に残っている歴史の道であった。

すこし長い、中距離散歩道であるが、ぜひ一度は歩いてほしいと願う古代の道である。

  

                                                                                          

    

            古代の大和盆地(大和湖)                              秦楽寺

     結崎の寺川堤防にある観世発祥の地の碑

                   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 大和路散歩 3ー田原への鉢伏峠路

 奈良の東、大和高原に通ずる新しいバイパスが出来てから、余り歩かれず、忘れ去られた田原高原への旧道の峠道がある。

 まず散歩の起点を高畑の新薬師寺、百毫寺とする。百毫寺は奈良時代、万葉歌人で、天智天皇皇子、志貴皇子のお住まい跡と伝えるが、小岡の上にある寺の参道には萩が両側に植えられていて、奈良市内が一望出来,旧都の詩情を味わえるお寺である。

 このお寺は昔、高円山の中腹にあった岩淵寺の一院であった。それが鎌倉時代、近くにあった天地院と、双方の僧兵が稚児を巡って争いを起こし、両院とも火が放たれて灰燼に帰したという。その時火事の中で持ち出された仏像が、今の新薬師寺の十二神将と伝える。

 

  百毫寺を出て南に行くと鹿野園という村があるが、その北の春日断崖層の山道に、目指す田原の里への鉢伏峠道がある。坂道が続き、それを登ると鉢伏峠に着く。春日からこの鉢伏峠道には、万葉集に笠朝臣金村の有名な志貴皇子のへの挽歌がある。

 

  ・・・高円山に 春野焼く 野火と見るまで 燃ゆる火を 如何にと問えば ・・・音のみし泣かゆ

        語れば心ぞ痛き 天皇の 神の御子の 出でましの 手火の光ぞ ここだ照りたる     2-230

       高円の野辺の秋萩いたづらに 咲きか散るらむ見る人なしに                               2-231

 

  志貴皇子は天智天皇の皇子であるが、壬申の乱で天武天皇が勝利し、幼かった皇子は飛鳥に引き取られたが、周りは天武系の人たちで、 志貴皇子は身を潜めて暮しておられた。都が奈良に移った時も、敢て市中を避け郊外の春日で過されていたが、後に奥の田原の里に別宅を建てられ、新しい采女と先妻の子の白壁王と共に、都と離れて暮されていた。志貴皇子は歌人としても有名だが、春日で薨去された時に葬送の列が、多くの松明の光に導かれて、鉢伏峠道を田原へと続くのを見て、悲しみ歌われたのがこの挽歌である。

 

 峠には鉢伏山がある。天智天皇が皇太子であった頃、新羅征伐に遠征されたが、唐・新羅連合軍に大敗し飛鳥に戻られた。しかし敵に備えて防人を集め、急があれば狼煙で都に告げるべく、対馬・壱岐から九州・瀬戸内を経て、高安山に狼煙台を設けられたが、都が奈良に移ると、高安山から生駒山に変わり、その生駒山の東にあたるこの鉢伏山に狼煙台を設け、奈良野の飛火野に通じさせた。丸い姿の山で、昔は茶畑になっていたが、いまは雑木の自然林に変わりつつある。

 

 峠を登りきると広い新道に出る。しばらく東に向かうと、志貴皇子の御陵、春日宮天皇田原西陵がある。前の小山を切り通して参道を造った美しい設計である。入口には賀陽宮の筆になる、皇子の有名な歌の碑がある。

 

    石走る垂水の上の早蕨の 萌え出ずる春になりにれらしも         8-1418

 

 この陵の南に皇子が白壁王と暮らしておられた御所趾がある。親王山と言われている。白壁王は春日で生まれ、母が亡くなった後都が奈良に移り、この田原に来られたのは幼い8歳の時で、無邪気に山野で遊んでおられたが、年ごろになって家婢を孕まされた。だが母子は追い出され、生まれた男の子は成人して天王寺・箕面滝で修行し、勝尾寺を開基された開成皇子と伝えている。

 続いて白壁王は近くに住んでいた百済系の高野新笠姫と恋に落ちられた。生まれた子が後の桓武天皇である。

 

 白壁王は天武系の女帝称徳天皇の亡き後、老齢62歳で光仁天皇となられた。そして崩御された時に、田原の父の志貴皇子陵の東に、光仁天皇陵が築かれた。田原の路を東に進むと村はずれにこの御陵がある。杉木立に囲われた円墳だが風格のある御陵である。

 この御陵から戻って西に向かうと古事記の編者太安万侶の墓がある。昭和54年里人により偶然発見された。このお墓は整備され公園になっているが、眼下を見渡すと茶畑に木立が陰翳を添えて、大和高原の温かみのある風景に出会える。

 

 参考までに、奈良に通じるバスは数少ないので、最終便を確認しておく必要がある。

  

            百毫寺参道                 志貴皇子山稜への参道

 

             光仁天皇陵                     太安麻呂の墓

 

 

大和路散歩 2ー佐保路

 先般は佐紀路を歩いたが、今回は佐保路。

 近鉄奈良駅からバス、或いは歩いて東大寺転害門に出る。北に奈良坂を越えて京都に向かうこの道{ (国道24号線)は、弥生時代からの古道である。

 治承4年ー1180、平清盛に反抗した東大寺・興福寺の僧兵たちに対し、平重衡率いる四万余騎が12月28日南都を襲い、夜戦になって

奈良坂の民家に火を放ったのが、師走の北風にあふられて南に燃え広がり、東大寺・興福寺の伽藍は火の海となって燃え尽きた。その戦場となったのがこの辺りで、幸いこの転害門は焼け残った。

 ここから西に延びる道が、平城京の北の一条大路である。その通りに面して奈良時代、古代豪族大伴氏の邸宅があった。大伴安麻呂は佐保大納言と呼ばれていて、大伴家持も佐保に住んでいた。家持を恋い慕った笠郎女-かさのいらつめーの有名な恋歌が残る。

 

    君に恋い甚ーいたーもすべなみ平山ーならやまーの 小松が下に立ち嘆くかも    4-593

 

 彼女は家持を恋い、家にじっとしていられなくなり、家持の家が見下ろせる奈良山の小松の下に立ち尽くして、家持が出て来るのを待つのである。彼女の立ちすくんだその場所は分からない。この一条通りを西に向い、山手の道を辿ると狭岡神社の古社に着くが、その杉林の参道にこの歌碑が建っている。

 この万葉歌を口ずさむと、私はいつも北見志保子の「平城山」の歌を想い出す。道ならぬ恋に踏み迷って奈良に来た彼女は、佐保路でこの万葉歌を偲び歌を詠んだ。この歌は平井康三郎による古調の曲譜で名歌曲になっている。

 

    人恋うは 悲しきものと 平城山ーならやまーに もとほり来つつ たえ難かりき

    いにしえも 夫ーつまーに恋いつつ 越えしとう 平城山の路に 涙流しぬ

 

 奈良山に向かう道は少ない。転害門から少し西に行き、少ない水流の佐保川を北に渡ると、高台にある若草中学校に着く。ここが室町末期、松永久秀が大和守護として、有名な多門城を築いた所である。黒の瓦と漆喰の白が見事なコントラストの美しい城で、初めて五層の天守閣も建てられていて、訪れた宣教師フロイスも驚いている。織田信長も来城し、のちの安土城建造のヒントになった城であるが、今は何も残らず、若草中学校になっている。

 校内には入れないが、右手に林間の小道が通じている。木々の間からは東大寺の大屋根が望まれ、観光客も足を踏み入れない絶好の散歩道である。更に進むと奈良坂に出る。道端の地蔵さんの横に、会津八一の歌碑がある。いい歌である。

 

    奈良坂の石の仏のおとがいに 小雨そぼ降る春は来にけり

 

 この奈良坂を北に進むと、峠に奈良都比古神社がある弥生時代の三世紀頃、奈良坂から佐保に入植して来たナラ族の祖神を祀った古社である。境内も静かで、歩き疲れた体を憩ふによい所である。

 ここからバスで奈良駅までさほど時間はかからないが、折角来たので東の丘陵にある三笠霊園内の東大寺墓所に足をのばすとよい。奈良市街を一望できる清潔な墓所で、昔大伴家の大伴寺のあった場所である。この墓地には鎌倉初期、平家によって焼け落ちた東大寺の復興のために、一輪車を引いて都路を、喜捨を求めて歩かれた重源ーちようげんー上人のお墓に出会える。一度はお参りしたいお墓で、そこから歩いて東大寺を経て奈良市街に向かう道も味わい深い道である。

 この佐保路は一般の観光客も訪れない奈良の隠れ道で、それなりに味わいある散歩道である。

 

    

             狭岡神社参道の万葉歌碑        若草中学校から奈良坂に抜ける小道から

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 大和路散歩 1―佐紀鴼

 5月は思いいの外、暑かったり寒かったり。6月はやっと平年通り梅雨なのでしょう。その晴れ間を利用して、私が第一に推薦する緑滴る奈良の散歩道を案内しましょう。

 

 近鉄西大寺駅で京都線に乗り換え、一つ目の駅の平城駅で降り、東の秋篠寺に向かう。このお寺には有名な天平の美人像、伎芸天像がおわします。なで肩の体にやや首を傾け、端正な顔立ちのなかに憂いがちな美しさを湛え、唇をかすかに開いて夢みるような眼差しの、優しく魅力的な中年婦人のお姿である。インドの最高神シバ神が踊っている時に現れた、諸芸に通じた仏とされている。インドの観念仏の伎芸天が、はるか東の日本の奈良時代に、かくも美しい仏像となって表れたのは奇跡である。うっとりと見つめる伎芸天像である。

 

 秋篠寺を出て東に20分程歩くと、緑に覆われた神功皇后陵に出会える。この皇后は飛鳥時代記紀編纂の時に創られた皇后で、実在したとは考えられない。付近は弥生時代から開けた集落で、仲哀天皇皇子、押熊王の生育地といわれるが、この皇子は応神天皇の浪速入りに抵抗し、在地豪族のワニ氏の建振熊に攻められ滅ぼされた後、ワニ氏の部民、ワニ部が秋篠の地に入植して、ワニ部里となっている処から、彼らがワニ氏ボスの健振熊の古墳を築いたと考えられる。立派な山稜であるので後に神功皇后陵にされたが、この佐紀丘陵にはウワナベ・コナベの大古墳など、ワニ氏(後の春日臣氏)の古墳が多く存在する。

 

 ここから南に行くと成務天皇陵の濠の北に出て、すこし東に進むと日葉酢媛命陵陵がある。日葉酢媛は丹波王の娘で垂仁天皇皇后になった姫で、その孫が成務天皇である。余程可愛かったのか死後隣り合わせに葬られている。両方とも堂々たる前方後円墳で、しかも濠が中央の堤防で仕切られた設計で、両側に緑の古墳を眺めて歩く、濠の真ん中の細い松林の堤は素晴らしい絶景である。是非一度は歩いてみたい景勝の道である。

 

 同じような濠の中道は、30分ほど東に進むと大きな溜め池の水上池の真ん中を、細い堤防があり湖の中を歩いているような絶景に出会える。全国でも佐紀丘陵だけの素晴らしい道である。その中道を通り過ぎて北に向かうと応神天皇皇后、磐之媛陵に着く。こゝの濠は万葉時代から、かきつばたの名勝地として有名なところである。

 ここから北に向かうと木津に越える歌姫峠に出るが、南すると海龍王寺を経て奈良市内に入る。五時間ほどの散歩道であるが、緑滴る道に水の翠が映え、今時得難い静かな散歩道であり、しかも古墳巡りも兼て古代を懐古して歩くには、京都にもない最高の道である。

 

     

            秋篠寺の伎芸天像                                 磐之媛陵のかきつばた

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ケヌ(群馬)のヨシコ姫

 前回の群馬の続きであるが、古代豪族上毛野公は朝廷に仕える証に美女を宮中に貢進した。これを采女ーうねめーという。

 この美女の与志古娘ーよしこのいらつめ―は、天智天皇に愛されて懐妊した。その孕み女を天皇は藤原鎌足に下賜され、「この女御のはらめる子、男ならば汝の子とせよ。女ならば朕の子とせん」『大鏡』と仰せられた。男であれば皇位継承のライバルになるからである。

ところが生まれたのは男の子であった。

 そこで鎌足は百済系の帰化人、書記官の田辺史ーたなべのふひとー大隅に養育を任せられた。田辺史はその子を官職の史―ふひと―から不比等と名付けた。天智天皇崩御の後起こった皇位継承の戦い壬申の乱の時、田辺大隅・与志古娘と十四歳の不比等は、田辺氏の故郷、河内国安宿郡資母ーしもー郷田辺に戻り、不比等を養育した。乱後天武天皇は藤原鎌足の功績を賞し、不比等を朝廷に仕えさせるため飛鳥に入京を許された。彼は藤原不比等と名乗った。その子孫の活躍は歴史に顕著である。その末孫は近衛・九条・鷹司・北大路・花山院・甘露寺氏など、摂関家貴族としてこの戦前まで栄華を誇った。

 

  田辺氏の故郷は現在近鉄大阪線、河内国分駅の東方1キロ、大阪府柏原市国分東条田辺が本拠で、飛鳥時代の田辺廃寺跡が残っている。藤原不比等は娘の安宿姫もこの田辺氏に託し養育させている。のち聖武天皇皇后となる光明皇后である。その功により聖武天皇の後を継いだ娘の称徳女帝から、帰化人の田辺氏に上毛野君の氏姓を与えられた。

 

 天平13年741、聖武天皇は諸国に国分寺の建設を命じられる。その詔勅の中で「その堂塔の寺は、かねて国華とせむ。必ず好き処を選びて、実に久しく長かるべし」と仰せられた。当時河内国の国府は藤井寺市にあったが、なぜか国府から遠い、大和国との境、河内国の片隅の辺境の東条田辺に、河内国分寺が造られた。これは光明皇后が幼児に育った地への恩返しであったからだと考えられる。

 今国分寺跡は廃墟になり、塔の後が残っている。北に大和川を望み、四方は小高い里山に囲まれた、緑滴る小さな盆地で、いつも心が安らぐ場所である。この東條から大和に越える山越えの古道ーひるめ道ーがあったが、今は廃道になっている。

 一度この田辺に足を踏み入れられて、古代を回想されることをお勧めしたい。光明皇后が育てられた環境がそのまま残っている。

 

 

 

 

 

 

 100歳の中曽根元首相

 今朝5月27日の産経新聞に、100歳の中曽根元首相の談話が出ていた。人生100歳という言葉をよく聞く時代になったが、寝たきりにならずに100歳まで元気で生きることは大変稀で、元首相に喝采を惜しまない。その談話の中で次の言葉が強く印象に残った。

 

  よく健康長寿の秘訣を聴かれますが、日々精一杯努力すること、そのためにも規則正しい生活を心がけています。加えてこの世の

  森羅万象に関心を持つことも大事です。あくなき探求心と知的好奇心こそ肝要です。

  幼き日、赤城、榛名、妙義の上毛三山を染め上げる夕日に陶然として見入りながら、天の啓示にも似た自然の雄大さに感化され、

  育まれた上州群馬はやはり私の原点です。こうして無事100歳という歳を迎えることができ、あらためて私を育ててくれた郷土と人に

  感謝したい気持ちがいっぱいです。

 

 故郷の自然は子供の情操を育てる。毎朝山を見上げるところで生活している田舎の人はうらやましい。中曽根さんの別宅も、芝生の奥は雑木林の緑が一杯で、庭の寝椅子で読書しておられる。森から発散される精気は、人間が生きるための貴重な要素であろう。

 「森の精は長生の媒-なかだちー」といわれるように、目覚めたら山が仰がれ、視界が緑一杯の生活は最高である。

 

  関東の奥、上州はもと東北系縄文人の住むところで、「毛野・ケヌ」のクニと言われた。いまも両毛線、上越新幹線上毛高原駅や、鬼怒キヌ=ケヌ川の名が残っている。そこへ弥生中期に南方系日本人が交易にやって来て東西交流が始まった。古墳時代にはヤマトのクニの配下に入り、前方後円墳が築かれている。のち律令制に入って二つのクニ、群馬と栃木に分れた。5世紀後半群馬の豪族、上毛野公ーカミケヌノキミーが雄略天皇の時に車駕の車担ぎとしてヤマトに上京、朝廷に仕えて「車持公」と呼ばれた。そして飛鳥時代になって、その豪族の美女が采女として朝廷に入り、天智天皇の子を孕んだ。ところが天皇はその孕み女を藤原鎌足に下賜した。その生まれた子供が後の藤原不比等で、天皇家に並ぶ摂関公家の近衛家の先祖となった。

 私も上州生まれの先輩・後輩を知っているが、大阪・京都・東京・九州の連中とは違う、一本筋の入った大物が多かった。上州という所はそういった人物を育てる風土があるのだろう。