ケヌ(群馬)のヨシコ姫 | 閑話休題

 ケヌ(群馬)のヨシコ姫

 前回の群馬の続きであるが、古代豪族上毛野公は朝廷に仕える証に美女を宮中に貢進した。これを采女ーうねめーという。

 この美女の与志古娘ーよしこのいらつめ―は、天智天皇に愛されて懐妊した。その孕み女を天皇は藤原鎌足に下賜され、「この女御のはらめる子、男ならば汝の子とせよ。女ならば朕の子とせん」『大鏡』と仰せられた。男であれば皇位継承のライバルになるからである。

ところが生まれたのは男の子であった。

 そこで鎌足は百済系の帰化人、書記官の田辺史ーたなべのふひとー大隅に養育を任せられた。田辺史はその子を官職の史―ふひと―から不比等と名付けた。天智天皇崩御の後起こった皇位継承の戦い壬申の乱の時、田辺大隅・与志古娘と十四歳の不比等は、田辺氏の故郷、河内国安宿郡資母ーしもー郷田辺に戻り、不比等を養育した。乱後天武天皇は藤原鎌足の功績を賞し、不比等を朝廷に仕えさせるため飛鳥に入京を許された。彼は藤原不比等と名乗った。その子孫の活躍は歴史に顕著である。その末孫は近衛・九条・鷹司・北大路・花山院・甘露寺氏など、摂関家貴族としてこの戦前まで栄華を誇った。

 

  田辺氏の故郷は現在近鉄大阪線、河内国分駅の東方1キロ、大阪府柏原市国分東条田辺が本拠で、飛鳥時代の田辺廃寺跡が残っている。藤原不比等は娘の安宿姫もこの田辺氏に託し養育させている。のち聖武天皇皇后となる光明皇后である。その功により聖武天皇の後を継いだ娘の称徳女帝から、帰化人の田辺氏に上毛野君の氏姓を与えられた。

 

 天平13年741、聖武天皇は諸国に国分寺の建設を命じられる。その詔勅の中で「その堂塔の寺は、かねて国華とせむ。必ず好き処を選びて、実に久しく長かるべし」と仰せられた。当時河内国の国府は藤井寺市にあったが、なぜか国府から遠い、大和国との境、河内国の片隅の辺境の東条田辺に、河内国分寺が造られた。これは光明皇后が幼児に育った地への恩返しであったからだと考えられる。

 今国分寺跡は廃墟になり、塔の後が残っている。北に大和川を望み、四方は小高い里山に囲まれた、緑滴る小さな盆地で、いつも心が安らぐ場所である。この東條から大和に越える山越えの古道ーひるめ道ーがあったが、今は廃道になっている。

 一度この田辺に足を踏み入れられて、古代を回想されることをお勧めしたい。光明皇后が育てられた環境がそのまま残っている。