心を守って | 始まって、のち終わる。


それほど気に留めて情報収集していた訳ではないのですが、色んな意見が飛び交うほど、意識が狭まっていくように感じたので、ちょっと書いてみました。
私の好き勝手。



周りは好き勝手言いたい放題言うけど、、、それはその人達自身の問題で勝手にやってもらって。
勝手に全部自分に返ってもらって。



なので、まずそこは分けて考える。


個人的にはその歳と立場なら全て分かった上で
タバコ吸うのもお酒飲むのも自己責任ですよね。
となるけど。
それがオリンピックに出たらアカンか?
それほどの事なのか?
と言うのは、正直分からん。
(例えて言うと)
オリンピックがそれほどのモノなのか?
という視点もあるから。



でも、この社会では割と偉大なオリンピック。
故に、私なんかが想像できない、ものすごい期待とかそれ以上にわけわからん感情とか欲とか背負って長い間過ごしてきたと思うので、意外ともしかして本人は、今回の件で、ほっとしてたり救われたりしてるんじゃないかな〜とも思ったりします。



それこそ本当にダメなことも分かった上で、(この社会でのオリンピックに出る者として)悪い事と分かった上で、それでも止められない自分がいたからの今の状態なのだとしたら、それはもう出場してても、この社会の期待に応えるという意味では破綻していたのではないかなと。



その辛さも今の辛さも一緒ではないかなと。
これで(もしあるなら)その後ろめたさを背負ったまま、オリンピックでメダルとかとっちゃったら、本人の孤独も闇も自責も罪悪感も、より一層深くなっちゃって、それがまたこの先でしんどい事になったかもしれないし。(そうじゃないかもしれないけど。)



私が思うのは、まだ19歳なら、
周りがそこら辺を先回りしてフォローして、寄り添う人がいなかったのかな〜とは思うけど。
それもきっと皆さん、もうオリンピックへと向かう大きな期待と成果と成功という輝かしい光に魅せられてそれこそ大きなうねりに巻き込まれてしまって足元見えてなかったのかな〜と思う。
誰も責められないけど、光が強かったんだな。



結果、まだその光やエネルギーを扱える器ではなかったという事なのかな?と考えます。
もちろんそれは良い悪いでもなく。
ただ今はそう。と言うだけ。



光と闇、失敗と成功の分かりやすいこの社会の価値観の中で、自分を裁いて、自分や周りに責められている人達の顕著な出来事ではないかなと思う。
(ここら辺は正直分かりません。私達が知り得ない事情や心情がある。ことへの想像力は残しておきたい)


これからまだまだ過酷な日々が続くかもしれないけれど、どうか周りの好き勝手はほっといて、この社会はほっといて、もう自分を解放してあげて欲しい。極力自分を探して欲しい。
もうとっくの昔に見失ってるかもしれないちっちゃな自分自身を。


(↑これも私の勝手な希望)
それすらも本人の自由だけど。
全て、どっちでもいい。
これすらも、
「周りの好き勝手の一つ」です。




私が、感じたことはそんな事。
そんなことをつらつら書きました。
もしかしたら、いやもしかしなくても、私が感じたこと以外にもたくさんの意識の広がりはあると思うから。
なので、今回は一旦、記事としてアップしてみます。



生きてく事はまだまだ続くから。



阿音。