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労働手段の労働者からの分離

どーも。
今日はカレーの食べすぎで、しばらく動けなくなった類です。

ついつい作りすぎて、20皿分も一度に作ってしまいました。


なんかカレーだけは、ついつい食べ過ぎちゃうんですよね(><)



今回は「労働手段の労働者からの分離」について書いていこうと思います。
ポスト資本主義社会と考える「知識社会」において、組織による個人の抑圧が解決されるのかに関心がある。と以前述べました。
「労働手段の労働者からの分離」の理解が、組織による個人の抑圧のメカニズム
を考える上では欠かせません。
そして資本主義の理解や、組織社会への移行の過程を理解する、一つの出発点にもなります。

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■マルクスの意味
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資本主義社会の諸事象を捉える上で、最も重要な人物はカール・マルクスです。(と思います)
数十年前までは、社会の諸矛盾は、資本主義を止揚し、社会主義を創出し、その延長戦上
に社会主義を展望することにより、いっさいを解決できると、多くの人が信じていました。
社会の諸矛盾の根源は、私有財産制度にあり、
「階級と階級対立とをもったふるいブルジョワ社会のかわりに、各人の自由な発展が、すべての人々の自由な発展のための条件となるような一つの共同体があらわれる」
という『共産党宣言』における予言は人々を魅了しました。

この予言は優れた社会科学の書『資本論』と結合され、予言と科学が混同され区別されないまま、世界のあちらこちらで社会主義革命が起こります。そしてソ連を中心とする社会主義国の失敗によって、ようやく私有財産を制度を廃止しただけではうまくいかないことが分かったわけです。そしてやっと、予言と科学を混同し、社会主義革命を必然と考えることの無意味さを知ったわけです。

ただそれによりマルクスの理論の価値が下がるわけではありません。
テイラーは
「科学とは,データを集め(gathering),それを分類し(classifying),分析し(analizing),
表示し(tabulating),そこから法則・規則(law & rule)を導き出し,更に作業に直接役立つ
方式(formula)を創り出すことである」
と述べています。
科学は対象と方法を限定することによってのみ、有効性を発揮します。
その意味で、彼の理論は資本主義社会の諸事象を分析する上で、いまだに有効性を
失っていません。であるからにしてマルクスの論理の有効性の範囲を明確にし、それを発展させることにこそ意義があり、必ずしも、マルクスの理論が価値を失ったわけではないのです。

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■「労働手段の労働者からの分離」
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マルクスの理論を肯定しながら、別の世界を切り開いっていったのが、ウェーバーです。
マルクスの理論もウェーバーの理論もともに現代社会を把握する出発点は、「労働手段
の労働者からの分離」という事実であり、概念です。
しかし、この2者の間では捉え方が多少違います。マルクスがこの現象を生産領域だけに
着目したのに対し、ウェーバーは社会的行為にあらわれる普遍的な現象であり、それを
必然である、と捉えた部分に違いがあります

◎マルクスの捉える「労働手段の労働者からの分離」
マルクスはこの事実を人間による社会的暴力的過程と捉えました。土地の囲い込みなどの
事実から、「労働手段を失った労働者は、賃金労働者として資本家のもとに労働手段と結合せしめられ、働けば働くほど資本を巨大化させ、抑圧的作用をふるう」と見たわけです。

例えば、かつては鋤や鍬で農地を耕していたときは、鋤や鍬は労働者のものだったわけです。
それが巨大な工場の機械となると、個人では所有が出来ず、その場合労働手段である機械は資本家が持ちます。労働手段を持たない労働者は力を持たず、抑圧されるしかない、ということですね。ゆえに、資本家の手から労働手段を奪い、共同のものにすることによって、搾取・抑圧が無くなるとマルクスは考えたのです。



◎ウェーバーの捉える「労働手段の労働者からの分離」
これに対し、ウェーバーはこの現象を、目的合理的過程の進展、生産力的・技術的必然によるものだと捉えました。つまり、この現象はしゃーない!必然なんじゃ!と考えたというわけですね。社会的暴力的な過程を経ようが、そうでなかろうが、起こるものは起こると。弓矢なら個人が所有できても、軍艦・飛行機など個人で所有は出来ないように、研究手段であれ、医療手段であれ、小さいものはともかく、巨大な体系化された手段・発達した手段は個人所有はほぼ出来ないと。


以上が簡単にまとめた
「労働手段の労働者からの分離」という現象です。


次回は「労働手段の労働者からの分離」という現象から、官僚制組織(ピラミッド型組織)
が発生する過程を追い、官僚制組織の諸特徴を述べていきたいと思います。

ネクスト・ソサエティ

こんにちは。

卒論が終わり、少し余裕が出来た今、社会人になる前のもう少しの間、
色々書いていこうかなと思います。
出来れば、毎日書いていきたいですね。


今回は「ポスト資本主義」について、軽く触れてこうとい思います。




今時代は大きな過渡期にあります。
多分それは皆感じていることでしょう。私が大学に入ったころから比較しても、
大きく生活様式は変わりました。電車の切符一つとってもそれは分かります。

切符⇒パスネット⇒パスモ(スイカ)⇒モバイルスイカ

というように変わっていきました。
本の購入は本屋ではなく、もっぱらamazonに代表されるeコマース中心になり、
更に今後はキンドルやAPPLEタブレットなどの電子書籍に移り変わっていくでしょう。
それはすでに起こっていますが、書店等の淘汰はさらに進んでいくことでしょう。

事象レベルでは先に述べたような多くの変化が起こっています。他にもグローバル
経済化でもあり、eコマースの進展における企業構造の変化でもあり、環境問題へ
の取り組みの変化といったこともいえます。
しかしすべての根底にあるもの、それは力が「資本」から「知識」移行してい
る。つまり「ポスト資本主義社会」とは「知識社会」であるという考え方が
あります。P・F・ドラッカーがその著書「ポスト資本主義社会」で「知識社会」
について触れて以来、西洋では知識への関心の高まりは、爆発的と言ってよく、
アルビン・トフラー、ジェームス・クィン、ロバート・ライシュなどが議論を
先導している状況です。


かつて、マルクスは「ポスト資本主義社会」として「社会主義社会」を説きました。
しかしそれは巨大な実験の結果、多くの悲惨な爪痕を残し、失敗に終わります。
組織の持つ大きな矛盾にほとんど注意することがなかったことが、失敗の根拠
であるでしょう。そしてこの失敗は、ウェーバーの暗い予言を、永遠に続くものだと感
じさせました。(特に私には)それは「目的合理性を追求する限り、人間は官僚制組織
(ピラミッド型組織)を創りだし発展させ、それは人民を支配する抑圧の器になる」とい
う予言であります。

この「知識社会」への移行とて、確実とはいえません。しかし少なくとも、もうそれは社会の
多種多様な分野で起こり始めています。そしてそれは組織とそこで働く人の構造
を変えつつあります。私は「知識社会」にこそ、ウェーバーの暗い予言を打破する
鍵があると見ています。

知識社会では、知識の仕事のへの応用たる「生産性」と「イノベーション」に
よって、価値は創出されます。それは知識労働者が最も重要な社会的勢力となる
ことを意味します。生産手段と生産要素を知識労働者が所有することで、力を持
つのです。


私が現代を捉える出発点は、ウェーバーの「労働手段の労働者からの分離」という現象
です。この現象が、官僚制組織(ピラミッド型組織)を生み出し、組織によ
る個人の抑圧を生み出してきたと捉えます。



私の関心は「知識社会は個人の抑圧を解決し得るのか」ということです。


そのことを中心に、今後「社会」「組織」「知識」に触れながら、徒然書いていきたいなあ、
と思います。

元いたゼミの先輩とお会いした

今日はもといたゼミの先輩Oさんとお会いしました。
卒論で行き詰っていたので、ご相談させてもらいにです。


Oさんはもともととても真面目で誠実で、優秀な先輩なのですが、発想だったり、見方だったりの切れ味が増していて、とても勉強になりました。先輩の書いた論文をちょっと見せていただきましたが、素晴らしいものでした。聞いたところによると、ゼミの教授にも、もう少し詰めれば本を出せるレベル、とまでいわれたようです。



先輩は私のテーマに関してそこまで専門ではないのですが、やはりある程度まで突き詰めてやった人は型ができており、多少の知識が不足していても本質を見抜くことが出来るようになるのだな、と感じます。

おかげさまで、方向性が明確になりました。


先輩の近況をうかがうに、2留しているようですが、まだ就職先が決まっていないとのこと。成績優秀で、単位も取れていたにもかかわらず、ゼミに打ち込むあまり就職活動が出来なかったようです。


元々私がいたゼミは、真面目にやると本当に就職活動をする暇がないゼミでした。ゼミの日は3限後の2時半過ぎから始まり、終わるのは夜の12時前。しかもそのあと、ガストで反省会をやる習慣です。そのため帰宅は朝5時とかがザラでした。

ゼミのための準備もほぼ一週間かけてですから、週のほとんどがゼミに費やされます。経営学のことだけでなく、歴史・社会学・哲学といった部分にまで踏み込みますし、スピーチ大会・本の交換会・スポーツから政治までの未来予測のベッティングとなんでもござれです。


私はやりたいことがあり、ゼミ幹事の3年の代を終了したあと、円満にやめさせて頂きましたが、ゼミにいた1年半、特に3年の後期はずっとゼミのことしかしていませんでしたね。


多くの行事があるゼミゆえ、通常のゼミ生は勉強のみでいっぱいいっぱいになり、その他の企画の準備・討論会などの論文等々、かなりの負担が先輩にいったのでしょう。真面目で責任感が強いゆえに1人で抱え込んでしまったのだろうと思います。また日本の就職活動は一旦時期を逃すとかなりのハードルが一気に高くなります。優秀な先輩なのに、彼がどれだけ誠実で真面目で忍耐強い性格なのか。責任感が強く、優しく、どれだけ素晴らしい論文が書けるのか。企業は見抜けないし、欲しようとしないのですね。


対照的だと思う人に先輩と同期のもう一人の先輩Tさんがいます。、まったく勉強せず、責任感のかけらもなく、自分のことしか考えない人で、後輩から一ミリも尊敬されないような人でした。ゼミ中ではあまりの理解力のなさに毎度先生に呆れられるような人でしたが、財閥系の商社や野○証券やらに内定していました。


企業の人を見る目のなさに愕然としましたね。

Tさんですが、就職活動だけは夏から頑張ったようですね。
まあ、そんな人ですから今めちゃくちゃ会社で苦労しているようですが。



結局、就職活動は、どれだけ準備をしたかが勝負になるわけですね。



今の時代は不景気で、なかなか就職が厳しいゆえに、年々就職活動の時期が早まっています。大学の「知」として存在が年々弱まってきています。

大学は、
「研究と教育の府であり、人格の陶冶・人間形成の場であり、友情を培い育む場であるべきだ!」

と声高に叫んでも、いまさらむなしく響くだけですね。


今大学の就職予備校化が急速に進展しています。また就職のためと資格などをとる人も増えていますが良くない流れですね。そのようなものなら専門学校に入ればいいわけですから。この流れが続いて行く限り、大学の「学問の府」としての存在は低下して行き、日本人の「知」の衰退は免れないでしょう。



ではどうすればいいのか。この現象とはどういうものなのか。

ドウズの定義する「社会的ジレンマ」に関連させ、そのうちでお話していこうと思います。