知識社会の到来~ポスト資本主義社会~
今日のサッカー、和田のカレー屋で見ました。
こういうときは家にテレビないのは不便だなあ。
普段ほとんど見ないし、見るとすれば一日後ぐらいににネットで観れるけど、
生中継とかはきついなあ。
やっぱりホリエモンか三木谷さんにテレビ局買収してもらって、さっさと
ネットで見れるようになったらよかったなあ。
そのあとは元カノと飲んできました。
こっちの都合で別れたので心配していたけど、
良く食べて元気そうだったので、よかったです^^
太らんか心配ですが笑
はい、余計なお世話ですねww
では今日は知識社会の到来についてのエントリです。
今までのは
■ネクスト・ソサエティ
■労働手段の労働者からの分離
■官僚制組織(ピラミッド型組織)
ですので。
※∞∞※∞∞※∞∞※∞∞※∞∞※∞∞※∞∞※∞∞※∞∞※
つい数十年前までは、ポスト資本主義社会がマルクス主義社会であろうこと多くの
人が信じ、かつ夢見ていた。しかし、社会主義の壮大な実験は失敗に終わり、ポスト
資本主義社会は社会主義ではないことに、誰しもが気づいてしまった。
ではポスト資本主義とはいったい何なのか。
それを「知識社会」と捉えたのがP・F・ドラッカーだ。
このエントリではドラッカーの唱えた知識社会について、それがいかなるものかに
ついて把握していく。
それではドラッカーの把握した知識社会を、ちょいちょい現在の社会に触れながら
説明していこう。
<目次>
------------------------------
■知識社会の到来と個人
◆知識社会の概要
◆知識社会は組織による個人の抑圧を解決しえるか?
■知識社会の到来をもたらす諸要因
◆何が産業革命をもたらしたか
◆IT革命の影響
------------------------------
------------------------------
■知識社会の到来と個人
------------------------------
◆知識社会の概要
ドラッカーはポスト資本主義社会として、知識社会を提唱した。
現実に支配力を持つ資源、最終決定を下しうる生産要素は、資本でも土地でも労働で
もなく、知識になる。
つまり、ポスト資本主義社会における支配的な階級は、資本家ではなく、知識労働者となる。
知識労働者のほとんどすべては、組織によって雇用される。だが、彼らは資本主義社会
の従業員とは異なる。彼らは、自ら生産要素と生産手段を所有する。
知識労働者は、知識を所有し、その知識をどこへでも持っていけるという意味に
おいて、生産手段を所有する。
〆 〆 〆
またドラッカーは国民国家が唯一の政治権力機関でなくなり、他の機関、他の組織、
他の政策決定者と力を分けあうようになる、と考えた。
かつては社会の問題国が解決してきたが、ここ最近の社会起業家などへの注目は
、国がすでに個人のニーズに対して対応できなくなりつつあることを意味するだろう。
それは国が唯一の政治権力機関ではなくなりつつある一つの事例だ。だがこの国民国家についての
話などは、また別の機会にでも述べることにして、今回はあまり触れないでおこう。
〆 〆 〆
◆知識社会は組織による個人の抑圧を解決しえるか?
知識社会とは、別の側面からみると、組織社会であり、従業員組織社会でもある。
ただ現代はすでに組織社会である。
知識社会における組織とは、ウェーバーのいう官僚制組織ではなく、オーケストラのような専門性を持つ組織である。
かつてウェーバーは「労働手段の労働者からの分離」という現象を目的合理的過程
の進展、生産力的・技術的必然と捉えた。そして人間が目的合理的な論理を至上の
ものとしない限り、ピラミッド型組織=官僚制組織の発展・強化は続き、人間を支
配抑圧し続けるであろう、と予言をした。
たしかにここ数十年、人間の主要な社会手行為は、いずれも巨大なピラミッド型組
織でもって営まれるに至り、この悲観的な予言を人間は超克できるのか疑問に思っ
ていた。
しかし、ここ現代に至り、ドラッカーはそ知識社会の到来を唱え、組織形態の変化、
つまりピラミッド型組織の終焉を論じた。
知識社会は組織社会であることはかわりない。しかし、知識労働者は生産手段
・すなわち知識を所有する。これはつまり、知識労働者においては労働手段を持ち
得るこということである。
確かに知識労働者とて、組織に依存することなく働くということは出来ない。むしろ
組織社会は進展していく。しかし、知識労働者は自分達が生産手段(労働手段)を持
ち得ていることを知った。だからこそ、組織間の移動は自由になっていく。
そしてそれは、組織による個人の抑圧を解決しえるヒントになるだろう。
ここにおいて、バーナードの独自の権威論が生きてくる。
バーナードのいう「組織からいつでも自由に出入りでき、組織の構成員がそれぞれの個人人格が許さないような命令は聞かず、自由に他の組織に移ることができるような状態」
それが現実味を帯びてくるのである。
------------------------------
■知識社会の到来をもたらす諸要因
------------------------------
知識社会とは知識がもっとも重要な要素となる。その過程には、知識の意味が変化
するターニングポイントが存在した。それが産業革命である。それを追うことで知
識を異なる視点から考察していく。
ドラッカーの産業革命をもたらした要素をまとめてみよう。
◆何が産業革命をもたらしたか
1750年から1900年に至る150年間において、資本主義と新技術が、新し
い世界文明をつくった。
この150年間の資本主義と新技術は、その伝播の速度と到達度において歴史上例
がなかった。この伝播の速度と到達度が、資本主義を体制としての資本主義に変え、
技術革新を産業革命に変えたのである。
産業革命は知識の応用によってもたらされた。存在に関わるものとしての知識が
、行為に関わるものになった。
第一段階として、18世紀半ばから100年に渡って道具、工程、製品に応用さ
れた。それが産業革命である。
第二段階として1880年頃に始まり第二次世界大戦の末期を頂点として、知識
は仕事に応用された。その結果、生産性革命がもたらされた。
第三段階として、第二次世界大戦後、知識は知識そのものに応用されるようにな
った。それがマネジメント革命だった。
資本主義は、人類の歴史を通じて形を変えながら何度も現れた。技術上の発明と革
新も同様である。しかしこの250年間の発展が特異であったのは、ひとえにその
速度と到達度においてである。
かつての資本主義は、社会のごく一部の階層に限定されていた。1750年以降あ
らゆる階層に浸透し変革をもたらした。
以上のように知識の意味を変えたのは産業革命である。そこをきっかけに知識はさ
らに行為に関わるものに変化していった。資本主義も一部の限定された階層から、
社会全般のものに変化した。産業革命が封建社会から資本主義社会への変化を促した。
この変化は、その伝播の速度と到達度において比類なきものだったからである。それ
は蒸気機関であり蒸気機関車の存在が大きい。
それが大量生産・大量消費の現象を作りだした。そして「労働手段の労働者からの
分離」を作りだしたのである。
◆IT革命の影響
eコマースが世界を変える
社会が封建社会から資本主義社会へと移行するきっかけが産業革命だったように、資
本主義社会から知識社会へと移行する重要なファクターとみなされているのがIT革命
である。
そしてそれをさらに限定するとeコマースである。eコマースは経済、市場、産業構造
を根底から変える。
産業革命を起こす第一段階は蒸気機関であったが、決定的な変化は第二段階として1820
年代の鉄道の存在である。
1785年の蒸気機関の発明が、すぐさま社会が変化を遂げたのではない。この鉄道という
存在が、大量なモノ・資源の移動を可能にした。
同様に、今資本主義社会から知識社会へしているには移行の重要なきっかけは、第一段
階がコンピューターの出現であり第二段階がeコマースであると考えられるだろう。
これによりIT分野に限らない、多くの新産業の登場が考えられる。それはバイオかもしれないし、
環境関連の技術かもしれない。かつての産業革命の蒸気機関車の発明後のように、
それは予測不能である。
いずれにしろIT革命は資本主義社会から知識社会への移行を考える上で、重要な鍵になってくる。
その理由は二つある。
一つ目は、IT革命は知識革命であるということだ。このIT革命によって、全世界どこにいても、
インターネットがあるならば、容易に知識がやり取りされるようになるのである。
二つ目は、IT革命は生産要素、すなわち、土地、労働、資本の価値を半減させる。それは
、例えばデパートのような小売店に顕著である。アマゾンなどのeコマースによって、
流通における中抜きは、土地・資本などの物質を半減させた。
例えば書籍を考えてみると、キンドルもしくはiPadなどに代表される、電子書籍は、書籍
の製造過程すべてを無価値化させる。もはや、生産要素の価値の低下は疑いようもない。
〆 〆 〆
以上のように知識社会を捉え、そしてその要因につてい述べた。
しかし、まだこの知識というものがいかなるものか、述べていない。
ドラッカーもこの知識というもについての把握は不完全であるどころか、具体的に
はほとんど述べていない。
ゆえに次回は、知識の意味、一般知識と専門知識などについて着目し、「知識社会における
知識は何か」について論じていく。
こういうときは家にテレビないのは不便だなあ。
普段ほとんど見ないし、見るとすれば一日後ぐらいににネットで観れるけど、
生中継とかはきついなあ。
やっぱりホリエモンか三木谷さんにテレビ局買収してもらって、さっさと
ネットで見れるようになったらよかったなあ。
そのあとは元カノと飲んできました。
こっちの都合で別れたので心配していたけど、
良く食べて元気そうだったので、よかったです^^
太らんか心配ですが笑
はい、余計なお世話ですねww
では今日は知識社会の到来についてのエントリです。
今までのは
■ネクスト・ソサエティ
■労働手段の労働者からの分離
■官僚制組織(ピラミッド型組織)
ですので。
※∞∞※∞∞※∞∞※∞∞※∞∞※∞∞※∞∞※∞∞※∞∞※
つい数十年前までは、ポスト資本主義社会がマルクス主義社会であろうこと多くの
人が信じ、かつ夢見ていた。しかし、社会主義の壮大な実験は失敗に終わり、ポスト
資本主義社会は社会主義ではないことに、誰しもが気づいてしまった。
ではポスト資本主義とはいったい何なのか。
それを「知識社会」と捉えたのがP・F・ドラッカーだ。
このエントリではドラッカーの唱えた知識社会について、それがいかなるものかに
ついて把握していく。
それではドラッカーの把握した知識社会を、ちょいちょい現在の社会に触れながら
説明していこう。
<目次>
------------------------------
■知識社会の到来と個人
◆知識社会の概要
◆知識社会は組織による個人の抑圧を解決しえるか?
■知識社会の到来をもたらす諸要因
◆何が産業革命をもたらしたか
◆IT革命の影響
------------------------------
------------------------------
■知識社会の到来と個人
------------------------------
◆知識社会の概要
ドラッカーはポスト資本主義社会として、知識社会を提唱した。
現実に支配力を持つ資源、最終決定を下しうる生産要素は、資本でも土地でも労働で
もなく、知識になる。
つまり、ポスト資本主義社会における支配的な階級は、資本家ではなく、知識労働者となる。
知識労働者のほとんどすべては、組織によって雇用される。だが、彼らは資本主義社会
の従業員とは異なる。彼らは、自ら生産要素と生産手段を所有する。
知識労働者は、知識を所有し、その知識をどこへでも持っていけるという意味に
おいて、生産手段を所有する。
〆 〆 〆
またドラッカーは国民国家が唯一の政治権力機関でなくなり、他の機関、他の組織、
他の政策決定者と力を分けあうようになる、と考えた。
かつては社会の問題国が解決してきたが、ここ最近の社会起業家などへの注目は
、国がすでに個人のニーズに対して対応できなくなりつつあることを意味するだろう。
それは国が唯一の政治権力機関ではなくなりつつある一つの事例だ。だがこの国民国家についての
話などは、また別の機会にでも述べることにして、今回はあまり触れないでおこう。
〆 〆 〆
◆知識社会は組織による個人の抑圧を解決しえるか?
知識社会とは、別の側面からみると、組織社会であり、従業員組織社会でもある。
ただ現代はすでに組織社会である。
知識社会における組織とは、ウェーバーのいう官僚制組織ではなく、オーケストラのような専門性を持つ組織である。
かつてウェーバーは「労働手段の労働者からの分離」という現象を目的合理的過程
の進展、生産力的・技術的必然と捉えた。そして人間が目的合理的な論理を至上の
ものとしない限り、ピラミッド型組織=官僚制組織の発展・強化は続き、人間を支
配抑圧し続けるであろう、と予言をした。
たしかにここ数十年、人間の主要な社会手行為は、いずれも巨大なピラミッド型組
織でもって営まれるに至り、この悲観的な予言を人間は超克できるのか疑問に思っ
ていた。
しかし、ここ現代に至り、ドラッカーはそ知識社会の到来を唱え、組織形態の変化、
つまりピラミッド型組織の終焉を論じた。
知識社会は組織社会であることはかわりない。しかし、知識労働者は生産手段
・すなわち知識を所有する。これはつまり、知識労働者においては労働手段を持ち
得るこということである。
確かに知識労働者とて、組織に依存することなく働くということは出来ない。むしろ
組織社会は進展していく。しかし、知識労働者は自分達が生産手段(労働手段)を持
ち得ていることを知った。だからこそ、組織間の移動は自由になっていく。
そしてそれは、組織による個人の抑圧を解決しえるヒントになるだろう。
ここにおいて、バーナードの独自の権威論が生きてくる。
バーナードのいう「組織からいつでも自由に出入りでき、組織の構成員がそれぞれの個人人格が許さないような命令は聞かず、自由に他の組織に移ることができるような状態」
それが現実味を帯びてくるのである。
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■知識社会の到来をもたらす諸要因
------------------------------
知識社会とは知識がもっとも重要な要素となる。その過程には、知識の意味が変化
するターニングポイントが存在した。それが産業革命である。それを追うことで知
識を異なる視点から考察していく。
ドラッカーの産業革命をもたらした要素をまとめてみよう。
◆何が産業革命をもたらしたか
1750年から1900年に至る150年間において、資本主義と新技術が、新し
い世界文明をつくった。
この150年間の資本主義と新技術は、その伝播の速度と到達度において歴史上例
がなかった。この伝播の速度と到達度が、資本主義を体制としての資本主義に変え、
技術革新を産業革命に変えたのである。
産業革命は知識の応用によってもたらされた。存在に関わるものとしての知識が
、行為に関わるものになった。
第一段階として、18世紀半ばから100年に渡って道具、工程、製品に応用さ
れた。それが産業革命である。
第二段階として1880年頃に始まり第二次世界大戦の末期を頂点として、知識
は仕事に応用された。その結果、生産性革命がもたらされた。
第三段階として、第二次世界大戦後、知識は知識そのものに応用されるようにな
った。それがマネジメント革命だった。
資本主義は、人類の歴史を通じて形を変えながら何度も現れた。技術上の発明と革
新も同様である。しかしこの250年間の発展が特異であったのは、ひとえにその
速度と到達度においてである。
かつての資本主義は、社会のごく一部の階層に限定されていた。1750年以降あ
らゆる階層に浸透し変革をもたらした。
以上のように知識の意味を変えたのは産業革命である。そこをきっかけに知識はさ
らに行為に関わるものに変化していった。資本主義も一部の限定された階層から、
社会全般のものに変化した。産業革命が封建社会から資本主義社会への変化を促した。
この変化は、その伝播の速度と到達度において比類なきものだったからである。それ
は蒸気機関であり蒸気機関車の存在が大きい。
それが大量生産・大量消費の現象を作りだした。そして「労働手段の労働者からの
分離」を作りだしたのである。
◆IT革命の影響
eコマースが世界を変える
社会が封建社会から資本主義社会へと移行するきっかけが産業革命だったように、資
本主義社会から知識社会へと移行する重要なファクターとみなされているのがIT革命
である。
そしてそれをさらに限定するとeコマースである。eコマースは経済、市場、産業構造
を根底から変える。
産業革命を起こす第一段階は蒸気機関であったが、決定的な変化は第二段階として1820
年代の鉄道の存在である。
1785年の蒸気機関の発明が、すぐさま社会が変化を遂げたのではない。この鉄道という
存在が、大量なモノ・資源の移動を可能にした。
同様に、今資本主義社会から知識社会へしているには移行の重要なきっかけは、第一段
階がコンピューターの出現であり第二段階がeコマースであると考えられるだろう。
これによりIT分野に限らない、多くの新産業の登場が考えられる。それはバイオかもしれないし、
環境関連の技術かもしれない。かつての産業革命の蒸気機関車の発明後のように、
それは予測不能である。
いずれにしろIT革命は資本主義社会から知識社会への移行を考える上で、重要な鍵になってくる。
その理由は二つある。
一つ目は、IT革命は知識革命であるということだ。このIT革命によって、全世界どこにいても、
インターネットがあるならば、容易に知識がやり取りされるようになるのである。
二つ目は、IT革命は生産要素、すなわち、土地、労働、資本の価値を半減させる。それは
、例えばデパートのような小売店に顕著である。アマゾンなどのeコマースによって、
流通における中抜きは、土地・資本などの物質を半減させた。
例えば書籍を考えてみると、キンドルもしくはiPadなどに代表される、電子書籍は、書籍
の製造過程すべてを無価値化させる。もはや、生産要素の価値の低下は疑いようもない。
〆 〆 〆
以上のように知識社会を捉え、そしてその要因につてい述べた。
しかし、まだこの知識というものがいかなるものか、述べていない。
ドラッカーもこの知識というもについての把握は不完全であるどころか、具体的に
はほとんど述べていない。
ゆえに次回は、知識の意味、一般知識と専門知識などについて着目し、「知識社会における
知識は何か」について論じていく。
競争性の観点から過去を振り返る(2)~中学・高校~
後悔は朝の目覚めと共にやってくる。
全身に漂う気だるさと、不快感に、記憶を呼び戻される。
しばらくそれにもがき苦しんだあと、
思うんだ。
今日を頑張ろう。
※∞∞※∞∞※∞∞※∞∞※∞∞※∞∞※∞∞※∞∞※∞∞※
前回の「競争性の観点から過去を振り返る(1)」の続きだ
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1407035165&owner_id=2037983
今回は中学高校を振り返りながら、
競争優位性のない僕の進む道を述べていく
<目次>
------------------------------
■中学・高校~どこへ進んでいくのか~
◆自我に苦しんだ中学
◆高校における自我とその行く先
◎ディベート部の結成
◎同好会の仲間
◎お化け屋敷
■そして未来へ
------------------------------
〆 〆 〆
------------------------------
■中学・高校~どこへ進んでいくのか~
------------------------------
◆中学
競争性について優位のない性格な僕だが、
人一倍この世界に、この社会に、興味を持ってきた。
それは社会における個人の幸せを考えることでもあった。
それは自己の強烈な自我と結びつき、
「この世に何か残したらん
世の不合理を解決せしめんとするのが我が使命なり」
と、もはや強迫観念のように自分に襲いかかってきた。
強烈な自我と共に、まだいずれのことも成し遂げていない
ことが僕を苦しめた。
この若い危なっかしい正義感と想いの矛先をどこに向けるのか、
向ける場所が見つからなかった。
部活、勉強、遊び。
そんなものは解決の手段たり得なかった。
高校に入るまで、僕の強烈な自我は、その行く先を求めさ迷った。
◆高校
高校に上がると、僕の自我は少しずつ、その行く先を見つける。
◎ディベート部の結成
高校に入り、僕は自分自身で何か始めたかった。
運動部にも所属していたが、用意された道だけをを歩むのが嫌だった。
僕の自我はそれを許さなかった。
だから何かを始めようと思った。
選んだのはディベート。特に口が達者なわけではなかったが、
社会の問題を考えるのに適していた。社会と関連していたことが僕にそれを選ばせた。
2002年のテーマは
「遺伝子組み換え食品は、是か非か」
社会の問題を解決する手段になると思った。
ディベートでは解決し得ないことばかりなのは、そのうちよく分かってくるが。
やることはいろいろあった。まず仲間集めだ。色んなクラスを回って、誰かいないか
、と回った。相当苦労した。
岩手という土地柄、ちょっと違うことをやると目立つ。一年の最初の時期
であり、特にその傾向は顕著であった。また皆部活をやっている。わざわざ
+αで手を出そうとはしなかった。
ようやく4人の仲間を得た。
□S木:一個上だったが、頭の回転が異様におかしい奴だった。数学と英語が抜群でき、
東北大の医学部に行ったようだが、絶対にこいつの診察は受けたくない。
□I澤:官僚ぽい男。参謀役にぴったり。一緒に東大目指していたが共に無理で、
早稲田の法学部だかに行った。そのうち起業したら事務処理係りに雇いたい。
□S河:中学時代は伝説的な生徒会長だったらしい男。高校で最もよく一緒にいた。
京大に行って、今度H報堂にて働くらしい。斜陽な広告でも彼なら大丈夫だろう。
□Y藤:トラブルメーカー。やめてくれと途中で何度も頼んだが、なかなかやめてくれなかっ た。どこにいったかも、いまなにしてるのかも全く知らないが。NHKの番組に出ている のをS河からの電話で知る。
皆面白い奴だった。
顧問は比較的容易に決められた。絨毯爆撃で片っぱしからいった。
そして練習方法などを考えた。集合は大抵夜の7時ぐらいから11時。部活終了後
に行う。駅前のミスドで、いつも210円のアメリカンコーヒーでねばった。
どうやればいいのか、暗中模索であり、マネジメントもうまくいかないことが多かった。
だが、毎日遅くまでやっても、めちゃくちゃワクワクして仕様がなかった。
大学生との練習会や他校との練習を通じて、叙如に形が作られていった。
メンバーが優秀だったおかげで、結局大会は東北大会を2位になり、
全国大会に出場することが出来た。
僕の初めての挑戦で掴んだ、小さな成功体験を経験だった。
そして自分自身が、仲間と一緒にやることを喜びと感じることを
少しずつ気づいていったきっかけになった。
◎同好会との仲間
それからいろんなことをしたが、思索するきっかけや社会を考えるときの
仲間が出来た。そして表現する場所を得た。
変人の集まり(だと思う)京大に入学していった、岩手の変人一明と亮。
進学校なのに音大いくよう五日市。
そんな仲間と一緒に講演会を開いたり、「life in the glasshouse」というタイトルの
雑誌を発行したりしていた。
〆 〆 〆
こんなことをしている僕の将来は、
ジャーナリストなどに向かうかのように思われた。
違うものに僕は魅力を見つけた。
組織の運営だ。
まわりとぶつかってばかりので独善的な部分を持っていた僕が、
仲間と一緒にやる喜びに気づき、確信に至ったのが、次に書くお化け屋敷だ。
◎お化け屋敷
3年の役決めで、僕は文化祭のクラスの責任者になった。
なった当初からひそかにすごいものにしてやろうと目論んでいた。
3-3の出し物は
体育館を使ってのお化け屋敷。
2カ月前ぐらいには決まっていた。
そこから、準備と調整。
僕は40人ほどの集団でリーダーを務めた経験がなかった。
だからこそ、多くの問題に直面する。
僕は絶対に素晴らしいものにしてやると意気込んでいたが、
時期は9月。受験シーズンだ。普通は文化祭の出し物など、
一部のやる気ある連中とその他の連中、というような感じだろう。
いろんな連中に切れられた。
それじゃあうまくいかないと、必死だった。
たくさんぶつかっていった。
途中で限界に気づいた。だから方法を考えた。
クラスにはたくさんのリーダー経験のある奴がいた。
その中から7人ほど協力してもらい、そこを中心に文化祭のチームを
組織した。ほぼ皆、生徒会長か副会長などのリーダーの経験の
あるやつだった。
これはうまく機能した。
僕が直接言わなくても、7人の中から適任を見つけ、代わりに言って
もらった。
7人の役割を分担し、文化祭の準備にはクラスのほぼ全員が意欲的に
協力する体制になった。
使う道具も半端なかった。
段ボールをおそらく200~300メートル使用しただろう。
椅子も机も2、300ぐらい必要だった。
長机も暗幕もその他の小道具も大量に必要だった。
思考錯誤して解決方法を考えながら、準備は進んでいった。
待ち時間用の映像も出来た。
お化け屋敷の中で見せる映像も出来た。
照明の仕組みも作られた。
色んな小道具、役割が決まっていった。
2階から落とす人形も出来上がった。
衣装のも決まっていった。
当日が近付くに連れ、忙しさは増していった。
どんどん問題が出てきた。
皆、1週間前から文化祭の準備しかしていないような状況だった。
こんなに皆が頑張っている。
絶対に成功させる!失敗は許されない!
そんな中プレッシャーはどんどんつのっていった。
スピードを持って正確に判断しなければいけないことが増えた。
特に準備は少ない時間の中で正確にやらねばならない。
緻密な段取りが必要だった。
友人は僕が大雑把な人間と思っている人が多いだろうが、
驚くことなかれ、こういうときは人一倍緻密になる。
途中で一旦タガが外れたときもあった。
だけど、最も相談していた存在の奴が代わりに指揮してくれて、回復したら
そっと戻った。
準備の日には、クラスの男が体育館の段ボールに寝た日もあった。
泊まりがけで、時間との勝負になりながらギリギリまで改善をしていた。
2日間ある文化祭がいよいよ始まった。
おおむね好評だったが、
始まって早々問題が起こった。
這うルートがあるため、女子生徒のパンツが見えるという問題だった。
貸し出し用のジャージを容易するということで解決された。
笑いごとのように思うかもしれないが、僕は大真面目だった。
こんなことで評判を下げたくない!
本気でそう思っていた。
時間が立つにつれて
皆の驚かし方もどんどん良くなっていった。
効率よくお客さんを入れられるようになった。
3-3のお化け屋敷は評判を呼び、長い行列になっていた。
整理券も発行して、なかなかのプレミアムチケットになっていた
はずだ。
二日目の15時ぐらいに営業は終了した。
二日間を通して、1000人弱の人が入った。
皆達成感に満ちていたが、閉会式までの片付けがあった。
これも見て驚くような光景だったと思う。
43人全員が率先して動き、誰一人としてサボろうとはしていなかった。
指示を待つのではなく、全員が自ら動いていた。
それはお化け屋敷の大成功を示すものでもあった。
このお化け屋敷に対する誇りでもあった。
あんな光景はいまだ見たことがない。文化祭を通して、最も感動を
覚えた瞬間だった。
閉会式。
大賞頂いた。
壇上にあがり賞状を貰って周りも見ても、もはや何も見えていなかった。
僕は今でも、3-3のお化け屋敷は、本当に日本で一番すごいお化け屋
敷だったと確信している。
ビジネスでやっているどこのお化け屋敷にも確実に負けない。
43人がハイテンションで必死に頑張って、あれだけの人数脅かし役が
いて、あれほど中身を練ったお化け屋敷は、コスト的に無理だ。
県下一の進学校で、あれだけ皆がまとまることはまずない。
そしてあれだけ優秀なメンバーばかりのこともない。
体育館を使わせてくれる高校も少ない。
あの経験は、今でも大切な思い出だ。
ろくにリーダーの経験もない僕であり、うまくいかなかったことの方が多かった。
あるのは、成功させることに対する、人一倍の執念ぐらいだった。
本当に良い経験をさせてもらった。
クラスの仲間には深く感謝している。
------------------------------
■そして未来へ
------------------------------
競争には優位性のなく、興味を持てなかった自分。
まわりの言うことを聞かず、独善的に突き進んでいた。
そんな僕が必死にやれる場所はなにか、何にだったら一生懸命やれるのか。
「この世に何か残したらん
世の不合理を解決せしめんとするのが我が使命なり」
と、いまだなにも成し遂げていないじぶんに、
強迫観念のように僕を襲ってきた中学時代。
大勢の人とうまくやることが苦手で、僕を理解してくれる一部の人との
親密な繋がりだけがっあった中学時代。
それもあることがきっかけでそれさえも失った。
向かう行く先は、唯我独尊を貫ける場所なのか。
ジャーナリストか学者か。
そうではなかった。
人とうまくやれなかった自分にこそ、仲間と一緒にやる喜びを強く感じる
ことが出来たのだ。
共に高い目標を持ち、実行する仲間こそ僕の喜びの源泉だ。
大学時代にもいろいろ学ぶことはあった。
ゼミやサークル、団体運営は僕にとって大きな学びを与えてくれた。
だが僕の原点は、高校時代のお化け屋敷だ。
何かに勝ちあがる競争ではなく、
独自の道で
まだこの世に存在していないもので
仲間と一緒に最高のモノを作り上げる。
そして社会の不合理を解決していくんだ。
そういふ人生にしたい。
それが個人との競争に優位を持たない、僕の道。
それがこの人生をかけてやる、僕の道。
「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」
そんな宮沢賢治の言葉がいつか過去になることを目指して、
生きていこうと思う。
道に迷ったら、何度もこの日記を読み返そう。
いざゆかん。
全身に漂う気だるさと、不快感に、記憶を呼び戻される。
しばらくそれにもがき苦しんだあと、
思うんだ。
今日を頑張ろう。
※∞∞※∞∞※∞∞※∞∞※∞∞※∞∞※∞∞※∞∞※∞∞※
前回の「競争性の観点から過去を振り返る(1)」の続きだ
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1407035165&owner_id=2037983
今回は中学高校を振り返りながら、
競争優位性のない僕の進む道を述べていく
<目次>
------------------------------
■中学・高校~どこへ進んでいくのか~
◆自我に苦しんだ中学
◆高校における自我とその行く先
◎ディベート部の結成
◎同好会の仲間
◎お化け屋敷
■そして未来へ
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〆 〆 〆
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■中学・高校~どこへ進んでいくのか~
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◆中学
競争性について優位のない性格な僕だが、
人一倍この世界に、この社会に、興味を持ってきた。
それは社会における個人の幸せを考えることでもあった。
それは自己の強烈な自我と結びつき、
「この世に何か残したらん
世の不合理を解決せしめんとするのが我が使命なり」
と、もはや強迫観念のように自分に襲いかかってきた。
強烈な自我と共に、まだいずれのことも成し遂げていない
ことが僕を苦しめた。
この若い危なっかしい正義感と想いの矛先をどこに向けるのか、
向ける場所が見つからなかった。
部活、勉強、遊び。
そんなものは解決の手段たり得なかった。
高校に入るまで、僕の強烈な自我は、その行く先を求めさ迷った。
◆高校
高校に上がると、僕の自我は少しずつ、その行く先を見つける。
◎ディベート部の結成
高校に入り、僕は自分自身で何か始めたかった。
運動部にも所属していたが、用意された道だけをを歩むのが嫌だった。
僕の自我はそれを許さなかった。
だから何かを始めようと思った。
選んだのはディベート。特に口が達者なわけではなかったが、
社会の問題を考えるのに適していた。社会と関連していたことが僕にそれを選ばせた。
2002年のテーマは
「遺伝子組み換え食品は、是か非か」
社会の問題を解決する手段になると思った。
ディベートでは解決し得ないことばかりなのは、そのうちよく分かってくるが。
やることはいろいろあった。まず仲間集めだ。色んなクラスを回って、誰かいないか
、と回った。相当苦労した。
岩手という土地柄、ちょっと違うことをやると目立つ。一年の最初の時期
であり、特にその傾向は顕著であった。また皆部活をやっている。わざわざ
+αで手を出そうとはしなかった。
ようやく4人の仲間を得た。
□S木:一個上だったが、頭の回転が異様におかしい奴だった。数学と英語が抜群でき、
東北大の医学部に行ったようだが、絶対にこいつの診察は受けたくない。
□I澤:官僚ぽい男。参謀役にぴったり。一緒に東大目指していたが共に無理で、
早稲田の法学部だかに行った。そのうち起業したら事務処理係りに雇いたい。
□S河:中学時代は伝説的な生徒会長だったらしい男。高校で最もよく一緒にいた。
京大に行って、今度H報堂にて働くらしい。斜陽な広告でも彼なら大丈夫だろう。
□Y藤:トラブルメーカー。やめてくれと途中で何度も頼んだが、なかなかやめてくれなかっ た。どこにいったかも、いまなにしてるのかも全く知らないが。NHKの番組に出ている のをS河からの電話で知る。
皆面白い奴だった。
顧問は比較的容易に決められた。絨毯爆撃で片っぱしからいった。
そして練習方法などを考えた。集合は大抵夜の7時ぐらいから11時。部活終了後
に行う。駅前のミスドで、いつも210円のアメリカンコーヒーでねばった。
どうやればいいのか、暗中模索であり、マネジメントもうまくいかないことが多かった。
だが、毎日遅くまでやっても、めちゃくちゃワクワクして仕様がなかった。
大学生との練習会や他校との練習を通じて、叙如に形が作られていった。
メンバーが優秀だったおかげで、結局大会は東北大会を2位になり、
全国大会に出場することが出来た。
僕の初めての挑戦で掴んだ、小さな成功体験を経験だった。
そして自分自身が、仲間と一緒にやることを喜びと感じることを
少しずつ気づいていったきっかけになった。
◎同好会との仲間
それからいろんなことをしたが、思索するきっかけや社会を考えるときの
仲間が出来た。そして表現する場所を得た。
変人の集まり(だと思う)京大に入学していった、岩手の変人一明と亮。
進学校なのに音大いくよう五日市。
そんな仲間と一緒に講演会を開いたり、「life in the glasshouse」というタイトルの
雑誌を発行したりしていた。
〆 〆 〆
こんなことをしている僕の将来は、
ジャーナリストなどに向かうかのように思われた。
違うものに僕は魅力を見つけた。
組織の運営だ。
まわりとぶつかってばかりので独善的な部分を持っていた僕が、
仲間と一緒にやる喜びに気づき、確信に至ったのが、次に書くお化け屋敷だ。
◎お化け屋敷
3年の役決めで、僕は文化祭のクラスの責任者になった。
なった当初からひそかにすごいものにしてやろうと目論んでいた。
3-3の出し物は
体育館を使ってのお化け屋敷。
2カ月前ぐらいには決まっていた。
そこから、準備と調整。
僕は40人ほどの集団でリーダーを務めた経験がなかった。
だからこそ、多くの問題に直面する。
僕は絶対に素晴らしいものにしてやると意気込んでいたが、
時期は9月。受験シーズンだ。普通は文化祭の出し物など、
一部のやる気ある連中とその他の連中、というような感じだろう。
いろんな連中に切れられた。
それじゃあうまくいかないと、必死だった。
たくさんぶつかっていった。
途中で限界に気づいた。だから方法を考えた。
クラスにはたくさんのリーダー経験のある奴がいた。
その中から7人ほど協力してもらい、そこを中心に文化祭のチームを
組織した。ほぼ皆、生徒会長か副会長などのリーダーの経験の
あるやつだった。
これはうまく機能した。
僕が直接言わなくても、7人の中から適任を見つけ、代わりに言って
もらった。
7人の役割を分担し、文化祭の準備にはクラスのほぼ全員が意欲的に
協力する体制になった。
使う道具も半端なかった。
段ボールをおそらく200~300メートル使用しただろう。
椅子も机も2、300ぐらい必要だった。
長机も暗幕もその他の小道具も大量に必要だった。
思考錯誤して解決方法を考えながら、準備は進んでいった。
待ち時間用の映像も出来た。
お化け屋敷の中で見せる映像も出来た。
照明の仕組みも作られた。
色んな小道具、役割が決まっていった。
2階から落とす人形も出来上がった。
衣装のも決まっていった。
当日が近付くに連れ、忙しさは増していった。
どんどん問題が出てきた。
皆、1週間前から文化祭の準備しかしていないような状況だった。
こんなに皆が頑張っている。
絶対に成功させる!失敗は許されない!
そんな中プレッシャーはどんどんつのっていった。
スピードを持って正確に判断しなければいけないことが増えた。
特に準備は少ない時間の中で正確にやらねばならない。
緻密な段取りが必要だった。
友人は僕が大雑把な人間と思っている人が多いだろうが、
驚くことなかれ、こういうときは人一倍緻密になる。
途中で一旦タガが外れたときもあった。
だけど、最も相談していた存在の奴が代わりに指揮してくれて、回復したら
そっと戻った。
準備の日には、クラスの男が体育館の段ボールに寝た日もあった。
泊まりがけで、時間との勝負になりながらギリギリまで改善をしていた。
2日間ある文化祭がいよいよ始まった。
おおむね好評だったが、
始まって早々問題が起こった。
這うルートがあるため、女子生徒のパンツが見えるという問題だった。
貸し出し用のジャージを容易するということで解決された。
笑いごとのように思うかもしれないが、僕は大真面目だった。
こんなことで評判を下げたくない!
本気でそう思っていた。
時間が立つにつれて
皆の驚かし方もどんどん良くなっていった。
効率よくお客さんを入れられるようになった。
3-3のお化け屋敷は評判を呼び、長い行列になっていた。
整理券も発行して、なかなかのプレミアムチケットになっていた
はずだ。
二日目の15時ぐらいに営業は終了した。
二日間を通して、1000人弱の人が入った。
皆達成感に満ちていたが、閉会式までの片付けがあった。
これも見て驚くような光景だったと思う。
43人全員が率先して動き、誰一人としてサボろうとはしていなかった。
指示を待つのではなく、全員が自ら動いていた。
それはお化け屋敷の大成功を示すものでもあった。
このお化け屋敷に対する誇りでもあった。
あんな光景はいまだ見たことがない。文化祭を通して、最も感動を
覚えた瞬間だった。
閉会式。
大賞頂いた。
壇上にあがり賞状を貰って周りも見ても、もはや何も見えていなかった。
僕は今でも、3-3のお化け屋敷は、本当に日本で一番すごいお化け屋
敷だったと確信している。
ビジネスでやっているどこのお化け屋敷にも確実に負けない。
43人がハイテンションで必死に頑張って、あれだけの人数脅かし役が
いて、あれほど中身を練ったお化け屋敷は、コスト的に無理だ。
県下一の進学校で、あれだけ皆がまとまることはまずない。
そしてあれだけ優秀なメンバーばかりのこともない。
体育館を使わせてくれる高校も少ない。
あの経験は、今でも大切な思い出だ。
ろくにリーダーの経験もない僕であり、うまくいかなかったことの方が多かった。
あるのは、成功させることに対する、人一倍の執念ぐらいだった。
本当に良い経験をさせてもらった。
クラスの仲間には深く感謝している。
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■そして未来へ
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競争には優位性のなく、興味を持てなかった自分。
まわりの言うことを聞かず、独善的に突き進んでいた。
そんな僕が必死にやれる場所はなにか、何にだったら一生懸命やれるのか。
「この世に何か残したらん
世の不合理を解決せしめんとするのが我が使命なり」
と、いまだなにも成し遂げていないじぶんに、
強迫観念のように僕を襲ってきた中学時代。
大勢の人とうまくやることが苦手で、僕を理解してくれる一部の人との
親密な繋がりだけがっあった中学時代。
それもあることがきっかけでそれさえも失った。
向かう行く先は、唯我独尊を貫ける場所なのか。
ジャーナリストか学者か。
そうではなかった。
人とうまくやれなかった自分にこそ、仲間と一緒にやる喜びを強く感じる
ことが出来たのだ。
共に高い目標を持ち、実行する仲間こそ僕の喜びの源泉だ。
大学時代にもいろいろ学ぶことはあった。
ゼミやサークル、団体運営は僕にとって大きな学びを与えてくれた。
だが僕の原点は、高校時代のお化け屋敷だ。
何かに勝ちあがる競争ではなく、
独自の道で
まだこの世に存在していないもので
仲間と一緒に最高のモノを作り上げる。
そして社会の不合理を解決していくんだ。
そういふ人生にしたい。
それが個人との競争に優位を持たない、僕の道。
それがこの人生をかけてやる、僕の道。
「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」
そんな宮沢賢治の言葉がいつか過去になることを目指して、
生きていこうと思う。
道に迷ったら、何度もこの日記を読み返そう。
いざゆかん。
競争性の観点から過去を振り返る
競争性についての一考察
私は競争に弱い人間である。
良く言えば、競争に興味を持てない人間である(いや、良くもないか)
その事実に最近やっと気づいた。
競争性を強みとする友人と共に時間を過ごしながら、いかに自分が競争
に勝つことに力を注いでこなかったのか。
今回は競争性の観点から過去を振り返ってみた。2回にわけて書く。
一回は劣等生だった自分と、外部要因について書く。
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■競争をしてこなかった
◆どこにいても常に劣等生
◆頑固で自己流
◆永遠に非エリート
■この人間Rの成立過程における外部要因
◆親父の存在
◆三浦先生と宮沢賢治
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■競争をしてこなかった
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◆どこにいても常に劣等生
小学校・中学校・高校・大学。
どんな偏差値の場所であろうが、
どんな人間がいる集団であろうが、
成績は最下位付近を漂っていた時期を持つ。
提出物はろくに出さない劣等生であり、おのずと定期試験はいつも下位クラス。
中学の時は、成績の半分以上が5段階評定の2であることもあった。
高校一年は赤点で進級も危うかった。化学のテストでは中間試験で0点だったこともある。
高校のクラスに貼られる提出物一覧表では、常に僕のみ空欄であった。
学年最下位の奴よりも少なかったのだから、よほどな体たらくである。
ほんと劣等生だ。
◆頑固で自己流
何か決められたことをやるのは嫌いだったし、うまくやれなかった。
自分が何をするか決めてやりたがった。
勉強も自己流。
教える側としてみては、最高にむかつく存在だったのだろう。
いつも説教の対象だった。
中学の授業の半分はさぼってた。
高校の授業の半分は本を読んでいた。
決められた枠の競争にはめったに出馬しなかった。
◆永遠に非エリート
エリートというものが、決められた枠組み・価値観の中で結果を出し続
けなければならない存在ならば、
僕は永遠に非エリートだ。
エリートというものが、エスタブリッシュメントによって選ばれしものならば
僕は喜こんで、非エリートだ。
■この人間Rの成立過程における外部要因
僕のこの競争性のなさにはいろいろと理由があろうが、親父と三浦先生の
影響が大きい。
◆親父の存在
◎親父の運動会前日の言葉
俺の親父は、わりと穏やかな人である。実に頑固ではあるが。
小学校の運動会の前日に言われた言葉を思い出した。
絶対一番になるといきり立つ僕に対して、
「類、例えばお前が一番になっても、それは2番目、3番目、もしくは6番目の
人がいてこその一番なんだ。もしもお前がビリでも、そのかわりにビリじゃ
無くなった人もいるんだ。順位にもそれぞれ役割があるんだ。そういうもんだ。」
というようなことを言われた。
そのとき、いっぱしに反論をしていた僕だったが、そのうちに何を言いたいかは分かる
ようになった。
◎親父という存在
僕は親父が好きだ。とても尊敬してる。
見方によっては仕様のない親父だ。大学の教授としての親父の研究の価値は
大したことがない。
むしろ家族のために生きたような人だった。
中学の時以来、母親はほとんど寝たきりの状態の時期が続いた。
親父は掃除・選択・料理と黙々とやっていた。
家庭はいろいろな問題を抱えていたが、親父はしっかりそこに存在してくれていた。
親父は、栃木県の農家の生まれだ。
戦時中に収入の少ないタバコ農家で、8人兄弟の4男として生まれる。
ろくに高校にも行かない時代であり、中学を卒業をしたら働きに出るのが
その地域の通例だったようだ。
その中で、親父は高校に行き、苦学して東北大学に入学した。仕事の合間に勉強した
だろう。ろくに参考書もなかっただろう。あまり親父は語らないが、親戚の
話で苦労は聞く。
大学進学は奨学金を出してくれる人を見つけられるという運にも恵まれたようだ。
その後フランス文学を学び、福岡大で助教授の職を得、岩手大にて教授になる
ことが出来た。
親父の恩師の金柿先生という人がいる。東京に来たときは必ず食事をご一緒する。
金柿先生の話はいろいろ教えてくれる。福岡大学時代は女学生に相当もてていた
らしい。だが、鈍感な親父だから、女学生で家にご飯を作りに来ても、何か
作りに来てるなー、ぐらいの反応だったそうだ。親父らしいな。笑
男なのにバレエをやるという変人でもあったようだ。
そんな人生を送ってきた親父だ。
だが、特に競争に勝つという人生ではなかった。自分の道を進んでいっただけだ。
親父の中には、敗者も勝者も存在はしない。
こんな親父のそばで育ったら、競争性がつくわけがないなあ。
しかも大学教授なんてのは、一度はマルクス主義にかぶれている。
御多分にもれず、親父もその時期があったようだ。
僕もその影響からか、中学ぐらいのときは、素晴らしいユートピアの創造を夢見る
、ロマンチストだった。
中学生は単純である。聞きかじりの理論を自分で解釈し、わくわくしていた。
富は皆で共有した方が幸せだと信じ切っていた。
今もマルクス主義を盲信するほど、お気楽ではないが、社会への関心を
持ち、人を幸せにしたいという思いを持つようになったきっかけではある。
◆三浦先生と宮沢賢治
僕の高校の恩師に三浦新作先生という人がいる。
僕を高く評価してくれた、初めての先生だ。
それまでの人生で、僕のことを評価してくれた先生はほぼいない。
みんなろくでもない、可愛げのない生徒だとしか思っていなかった
だろう。
三浦先生は成績も良くない僕を可愛がってくれたし、評価してくれた。
大変に苦労した先生で、中学卒業後、岩手から集団就職で東京で就職。
その後職を転々としながら夜間学校に通い、学校の先生となった人だ。
白髪で小さいその体には、深い苦労と優しさが刻まれていた。書を好み、
自己を厳しく律する、老子のような先生だった。
こんなことがあった。
僕の母校では毎年、海外に生徒が10人派遣される。もちろん学校のお金を
使う以上優秀な学生を送ることになっている。
赤点をとっていたにも関わらず、身の程知らずの僕は応募した。
選考は論文と面接。それは一生懸命やった。
しかし成績で問題になった。あとから聞いた話では赤点をとっている人間を
送るのはどうか、そんな例はかつてない。という反対意見に対して強く反論
してくれたらしい。
おかげで10人に選ばれ、一カ月カナダとアメリカにホームステイすることが
出来たのである。
他のメンバー9人の進学先はというと、東大文一、文三、東京医科歯科
東北大医学部、文学部、工学部、秋田大医学部、アメリカの大学、埼玉大学工学部
で、そこそこ成績の基準は大事であるのは分かるだろう。
こんな中でも三浦先生は僕を買ってくれていたのである。
そんな三浦先生が好きだったのが、「宮沢賢治」だ。
宮沢賢治は僕の母校出身である。石川啄木や米内光政などと並ぶ母校の誇りだろう。
宮沢賢治の『農民芸術概論綱要詩』の一部を引用する
「おれたちはみな農民である ずゐぶん忙がしく仕事もつらい
もっと明るく生き生きと生活をする道を見付けたい
われらの古い師父たちの中にはさういふ人も応々あった
近代科学の実証と求道者たちの実験とわれらの直観の一致に於て論じたい
世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない
自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する
この方向は古い聖者の踏みまた教へた道ではないか
新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある
正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである
われらは世界のまことの幸福を索ねよう 求道すでに道である」
三浦先生は良く仰っていた。
「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」
宮沢賢治のこんな考えに共感を持つ先生だった。
素晴らしい先生だった。
僕が卒業すると同時に退官だった。
〆 〆 〆
そんな2人の影響もあり、自分自身が勝ち続けることよりも、社会全体
をどうするかのほうに興味が向いていた。
(続く)
私は競争に弱い人間である。
良く言えば、競争に興味を持てない人間である(いや、良くもないか)
その事実に最近やっと気づいた。
競争性を強みとする友人と共に時間を過ごしながら、いかに自分が競争
に勝つことに力を注いでこなかったのか。
今回は競争性の観点から過去を振り返ってみた。2回にわけて書く。
一回は劣等生だった自分と、外部要因について書く。
------------------------------
■競争をしてこなかった
◆どこにいても常に劣等生
◆頑固で自己流
◆永遠に非エリート
■この人間Rの成立過程における外部要因
◆親父の存在
◆三浦先生と宮沢賢治
------------------------------
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■競争をしてこなかった
------------------------------
◆どこにいても常に劣等生
小学校・中学校・高校・大学。
どんな偏差値の場所であろうが、
どんな人間がいる集団であろうが、
成績は最下位付近を漂っていた時期を持つ。
提出物はろくに出さない劣等生であり、おのずと定期試験はいつも下位クラス。
中学の時は、成績の半分以上が5段階評定の2であることもあった。
高校一年は赤点で進級も危うかった。化学のテストでは中間試験で0点だったこともある。
高校のクラスに貼られる提出物一覧表では、常に僕のみ空欄であった。
学年最下位の奴よりも少なかったのだから、よほどな体たらくである。
ほんと劣等生だ。
◆頑固で自己流
何か決められたことをやるのは嫌いだったし、うまくやれなかった。
自分が何をするか決めてやりたがった。
勉強も自己流。
教える側としてみては、最高にむかつく存在だったのだろう。
いつも説教の対象だった。
中学の授業の半分はさぼってた。
高校の授業の半分は本を読んでいた。
決められた枠の競争にはめったに出馬しなかった。
◆永遠に非エリート
エリートというものが、決められた枠組み・価値観の中で結果を出し続
けなければならない存在ならば、
僕は永遠に非エリートだ。
エリートというものが、エスタブリッシュメントによって選ばれしものならば
僕は喜こんで、非エリートだ。
■この人間Rの成立過程における外部要因
僕のこの競争性のなさにはいろいろと理由があろうが、親父と三浦先生の
影響が大きい。
◆親父の存在
◎親父の運動会前日の言葉
俺の親父は、わりと穏やかな人である。実に頑固ではあるが。
小学校の運動会の前日に言われた言葉を思い出した。
絶対一番になるといきり立つ僕に対して、
「類、例えばお前が一番になっても、それは2番目、3番目、もしくは6番目の
人がいてこその一番なんだ。もしもお前がビリでも、そのかわりにビリじゃ
無くなった人もいるんだ。順位にもそれぞれ役割があるんだ。そういうもんだ。」
というようなことを言われた。
そのとき、いっぱしに反論をしていた僕だったが、そのうちに何を言いたいかは分かる
ようになった。
◎親父という存在
僕は親父が好きだ。とても尊敬してる。
見方によっては仕様のない親父だ。大学の教授としての親父の研究の価値は
大したことがない。
むしろ家族のために生きたような人だった。
中学の時以来、母親はほとんど寝たきりの状態の時期が続いた。
親父は掃除・選択・料理と黙々とやっていた。
家庭はいろいろな問題を抱えていたが、親父はしっかりそこに存在してくれていた。
親父は、栃木県の農家の生まれだ。
戦時中に収入の少ないタバコ農家で、8人兄弟の4男として生まれる。
ろくに高校にも行かない時代であり、中学を卒業をしたら働きに出るのが
その地域の通例だったようだ。
その中で、親父は高校に行き、苦学して東北大学に入学した。仕事の合間に勉強した
だろう。ろくに参考書もなかっただろう。あまり親父は語らないが、親戚の
話で苦労は聞く。
大学進学は奨学金を出してくれる人を見つけられるという運にも恵まれたようだ。
その後フランス文学を学び、福岡大で助教授の職を得、岩手大にて教授になる
ことが出来た。
親父の恩師の金柿先生という人がいる。東京に来たときは必ず食事をご一緒する。
金柿先生の話はいろいろ教えてくれる。福岡大学時代は女学生に相当もてていた
らしい。だが、鈍感な親父だから、女学生で家にご飯を作りに来ても、何か
作りに来てるなー、ぐらいの反応だったそうだ。親父らしいな。笑
男なのにバレエをやるという変人でもあったようだ。
そんな人生を送ってきた親父だ。
だが、特に競争に勝つという人生ではなかった。自分の道を進んでいっただけだ。
親父の中には、敗者も勝者も存在はしない。
こんな親父のそばで育ったら、競争性がつくわけがないなあ。
しかも大学教授なんてのは、一度はマルクス主義にかぶれている。
御多分にもれず、親父もその時期があったようだ。
僕もその影響からか、中学ぐらいのときは、素晴らしいユートピアの創造を夢見る
、ロマンチストだった。
中学生は単純である。聞きかじりの理論を自分で解釈し、わくわくしていた。
富は皆で共有した方が幸せだと信じ切っていた。
今もマルクス主義を盲信するほど、お気楽ではないが、社会への関心を
持ち、人を幸せにしたいという思いを持つようになったきっかけではある。
◆三浦先生と宮沢賢治
僕の高校の恩師に三浦新作先生という人がいる。
僕を高く評価してくれた、初めての先生だ。
それまでの人生で、僕のことを評価してくれた先生はほぼいない。
みんなろくでもない、可愛げのない生徒だとしか思っていなかった
だろう。
三浦先生は成績も良くない僕を可愛がってくれたし、評価してくれた。
大変に苦労した先生で、中学卒業後、岩手から集団就職で東京で就職。
その後職を転々としながら夜間学校に通い、学校の先生となった人だ。
白髪で小さいその体には、深い苦労と優しさが刻まれていた。書を好み、
自己を厳しく律する、老子のような先生だった。
こんなことがあった。
僕の母校では毎年、海外に生徒が10人派遣される。もちろん学校のお金を
使う以上優秀な学生を送ることになっている。
赤点をとっていたにも関わらず、身の程知らずの僕は応募した。
選考は論文と面接。それは一生懸命やった。
しかし成績で問題になった。あとから聞いた話では赤点をとっている人間を
送るのはどうか、そんな例はかつてない。という反対意見に対して強く反論
してくれたらしい。
おかげで10人に選ばれ、一カ月カナダとアメリカにホームステイすることが
出来たのである。
他のメンバー9人の進学先はというと、東大文一、文三、東京医科歯科
東北大医学部、文学部、工学部、秋田大医学部、アメリカの大学、埼玉大学工学部
で、そこそこ成績の基準は大事であるのは分かるだろう。
こんな中でも三浦先生は僕を買ってくれていたのである。
そんな三浦先生が好きだったのが、「宮沢賢治」だ。
宮沢賢治は僕の母校出身である。石川啄木や米内光政などと並ぶ母校の誇りだろう。
宮沢賢治の『農民芸術概論綱要詩』の一部を引用する
「おれたちはみな農民である ずゐぶん忙がしく仕事もつらい
もっと明るく生き生きと生活をする道を見付けたい
われらの古い師父たちの中にはさういふ人も応々あった
近代科学の実証と求道者たちの実験とわれらの直観の一致に於て論じたい
世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない
自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する
この方向は古い聖者の踏みまた教へた道ではないか
新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある
正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである
われらは世界のまことの幸福を索ねよう 求道すでに道である」
三浦先生は良く仰っていた。
「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」
宮沢賢治のこんな考えに共感を持つ先生だった。
素晴らしい先生だった。
僕が卒業すると同時に退官だった。
〆 〆 〆
そんな2人の影響もあり、自分自身が勝ち続けることよりも、社会全体
をどうするかのほうに興味が向いていた。
(続く)